第99話:【静かなる愛】
【あらすじ】
激闘の合間、深夜に日本の愛・舞姉妹と通信を繋ぐ氏真。愛の静かな支えと舞の鋭い分析を胸に、国内リーグ第7節サラゴサFC戦へ挑む。試合を支配するバルシーノだったが、後半に訪れた一瞬の綻びが、思わぬ波乱を呼び込む――。
1. 深夜の灯火と静かなる声
バルセロナの深夜。街の灯りだけが残っていた。
自室のデスクに向かう氏真の横顔を、ノートパソコンの青白い光が照らしていた。
画面の向こう側――七時間の時差を超えた日本の朝の光の中に、二人の少女の姿が映し出されている。
「氏真様」
画面越しに届けられた声は、鈴を転がすように澄み、その響きには、冬の朝に差す陽だまりのような温もりがあった。
早川愛である。
ふわりと首をわずかに傾げ、画面越しに視線を合わせてくるその瞳。
連戦の疲労や、欧州のプロ予備軍が放つ張り詰めた空気。それらすべてを背負い込んでいた氏真の肩から、愛の顔を見ただけで、氏真の表情から張り詰めていたものが、すっと消えていく。
「お疲れではありませんか? 画面越しですけれど、少しだけ呼吸のリズムが浅くなっていらっしゃる気がします」
愛はそれ以上、何も言わなかった。ただ、氏真の表情を慈しむように見つめ、言葉を待つ。
「ありがとう、愛さん。敵地ザグレブでの激闘とシエダム戦が続いて、身体にはまだ少し疲れが残っている。でも、心は驚くほど澄んでいるよ」
氏真が素直な微笑みを返すと、隣に座っていた妹の舞が、手元のタブレット端末を指先で弾くように操作しながら身を乗り出してきた。
「ちょっとお姉ちゃん、ウジ君とゆっくり話すのはそこまで! こっちはザグレブ戦のデータを全部洗い直したんだから!」
画面上に、滑らかなグラフと複数の測定データが展開される。
「見て、ウジ君。豪雨のザグレブ戦、後半途中から入ったウジ君の走行距離自体は抑えられているわ。だけど、相手のCBコヴァチ選手との間合いを測る際の視線移動速度と、周囲の味方の走路を瞬時に見極める処理回数が、晴天時より明らかに増えている。身体の筋肉以上に、脳の集中力にかかる負荷が極限に近かったはずよ」
「……なるほど。確かに、あの泥濘の中では一歩の踏み込み以上に、味方の呼吸を合わせることに意識を研ぎ澄ませていたからね」
氏真が感嘆の息を漏らすと、愛が静かに頷き、手書きのノートを両手で優しく画面へ掲げて見せた。
丁寧な筆致で記された、見慣れない食材の組み合わせ。
「ですわね氏真様、今夜と明日の朝のお食事は、消化器を休ませながら集中力を回復させるものにしてくださいませ。スペインのスーパーでも手に入る、鶏の胸肉と完熟トマト、それに少しの生姜とお米を煮込んだ特製のリゾットです。オリーブオイルは加熱せず、最後に一筋だけ回しかけてくださいね。質の良い脂質が、神経の疲れを穏やかに解きほぐしてくれますから」
愛は何も言わず、ただ氏真の返答を待って小さく頷いた。
「……では、明日の朝は少しだけ早起きですね」
その声音には、案じる優しさこそあれ、不安を映す翳りはなかった。
ただ、どれほど遠く離れていても、この人なら自らの足で歩いていける――そんな揺るぎない信頼が、静かに寄り添っていた。
「助かるよ、愛さん。さっそく明日の朝、作ってみるよ」
ピコン――。
その時、氏真の机の上に置かれたスマートフォンが短く震え、画面の隅に通知が浮かび上がった。
『ウジザネ! 今日の練習で撮った写真、ベストショットを現像したわ! すぐ見て!』
送信者はルナだった。添付された画像には、夕暮れのシウダ・エスポルティバで、氏真がボールをトラップする瞬間の優美なシルエットが克明に切り取られていた。
画面の向こうで、舞が画面を覗き込み、小さく眉を寄せる。
「……ちょっと、ウジ君? その『ルナ』っていう子、前も連絡してきてなかった? 専属記者気取りで、ずいぶん距離が近くない?」
「あ、ああ……彼女は地元紙の記者を目指している同い年の友人だよ。カメラの腕が本当に良くてね」
氏真が苦笑いしながら弁明する横で、愛は微笑んだ。
それだけだった。
咎めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ、ほんの少しだけ首を傾ける。
「素敵な写真を撮ってくださる方ですね、氏真様」
愛は一度言葉を切り、柔らかく、しかしどこか凛とした眼差しで氏真を見つめた。
「……でも、日々の栄養とコンディションをお預かりするのは、私の役目ですから」
その声音には、言葉にせずとも伝わる、静かな自負が滲んでいた。
氏真は、なぜか背筋を自然と伸ばしていた。
コホッ、コホッ――。
ふと、リビングの奥から、乾いた咳払いが微かに漏れ聞こえた。
母・有理が、深夜までミツウロコHAYAKAWAホールディングスの財務資料と向き合いながら、喉元を押さえている気配だった。
愛の伏せられた睫毛が、画面越しにわずかに揺れる。
「……有理お母様、お仕事がお忙しいのかしら。氏真様、お母様にも温かい生姜湯を淹れて差し上げてくださいね」
「うん、分かったよ。母さんにも無理をしないよう伝えておく」
短い約束を交わし、通信を終える。
暗転した画面の前で、氏真はゆっくりと立ち上がった。
愛と語らううちに、心に張り詰めていた糸が静かにほどけ、呼吸は穏やかなリズムを取り戻していた。
――
2. エスタディオ・ラ・ロマレーダの熱狂
週末。国内リーグ・第7節。
FCバルシーノ・フベニルAが乗り込んだのは、アラゴン州の古都サラゴサ。ホームチームであるサラゴサFCの本拠地、エスタディオ・ラ・ロマレーダであった。
乾いた秋風が吹き抜けるピッチ。伝統的に勝負強さと堅守速攻を誇り、地元サポーターの地鳴りのようなチャントが響くこのスタジアムは、アウェイチームにとって常に難所となる。
この試合、前節ハットトリックを達成した「王子」エステバン・ロサーノの姿はベンチにもなかった。トップチームの練習への帯同が決まり、カンテラの枠を一時的に離れていたためである。
右インサイドハーフには、フェリペが二戦連続のスタメン出場。最前線にはレオン・ラインハルトが陣取った。
氏真は、この試合もベンチからのスタートとなった。
ピーーーッ!
主審の鋭い笛が鳴り響き、試合が幕を開けた。
立ち上がり、サラゴサFCは激しいプレッシングと屈強なフィジカルを前面に押し出し、中盤での激しいデュエルを仕掛けてきた。
だが、バルシーノの中盤を支えるサビエル・フェルナンデスとイネス・カスティーニャは、その圧力を冷静に受け流していた。
前半33分。
自陣深くで相手ボランチの突進を鋭いステップでかわしたイネスが、顔を上げる。
相手ディフェンスラインの裏、右斜め奥のスペースへ、レオンが矢のような初速で走り出していた。
イネスの右足から放たれたグラウンダーのスルーパスが、芝を切り裂いて通る。
完全なる抜け出し。
レオンは相手GKカルロスが前に飛び出してくる瞬間を冷静に見極め、右足のインサイドでゴール左隅へと流し込んだ。
――ザシュッ!
前半34分。1―0。バルシーノ先制。
アウェイの耳を劈くブーイングの中、バルシーノは隙のない試合運びで前半を折り返した。
――
3. 破竹の攻勢と交代の妙
後半に入っても、バルシーノの優位は揺るがなかった。
後半8分。
右サイドでフェリペの正確な配球を受けたレオンが、相手CBアルバロとの一対一を爆発的な縦への突破で制し、ペナルティエリア内へ侵入。焦ったアルバロが足を引っかけ、レオンが倒される。
ピピッ――!
PKの判定。
レオンは自らペナルティスポットにボールをセットすると、相手GKの逆を突き、力強くゴール右隅へ叩き込んだ。
2―0。
さらに後半18分。
中央でサビエルが相手のマークを引きつけ、左サイドのイネスへ展開。イネスが相手SBを引き出してからマイナスへ折り返すと、中央へ走り込んできたレオンがダイレクトで合わせ、ハットトリックを達成した。
3―0。
誰もが、バルシーノの圧勝で試合が決したと確信した。
そして後半31分。
来週に控えるユースCLの過酷な連戦を見据え、ジョゼップ監督が決断を下した。
「カレス、テンテ、交代だ。休ませる」
守備の支柱であるCBカレス・モンテロと、中盤の守りの要テンテを下げる。
ピッチへ送り込まれたのは、カデテから昇格したばかりの大型CBアレハンドロ(32番)、フベニルBから初昇格を果たしたMFポージャン・ペレス(17番)。
そして最前線のレオンに代わり、背番号29――吉良氏真がピッチへと足を踏み入れた。
「アレハンドロ、ポージャン、落ち着いて入れ。ラインを保て」
ベンチへ下がるカレスが二人の肩を叩く。
だが――欧州のプロ予備軍が集うエスタディオ・ラ・ロマレーダの異様な熱狂は、まだこの舞台の空気を知らない二人の若者には、あまりにも重くのしかかっていた。
――
4. 狂乱の五分間
ピッチに立ったアレハンドロとポージャン・ペレスの足元には、明らかな硬さが見て取れた。
サラゴサFCのサポーターが打ち鳴らす太鼓と怒号のような歓声。
点差を広げられ、捨て身の猛プレスを仕掛けてくるサラゴサFCの選手たち。
後半38分。悪夢の歯車が回り始めた。
自陣でのビルドアップ。右サイドのフェリペが、中盤へ降りてきたポージャンへ横パスを出そうとした。
だが、相手FWの寄せが想定以上に速く、ポージャンは相手のプレッシャーに一瞬怯え、足を止めてボールを待ってしまった。
そのわずかな呼吸のズレ。
「¡Presiona!(ハメろ!)」
サラゴサのFWハビエルが、一気に距離を詰めた。
ポージャンは一瞬だけ周囲を確認する。
その視線が戻ったときには、すでにハビエルが目の前まで迫っていた。
慌ててボールを収めようとした瞬間――ボールタッチがわずかに乱れる。
ハビエルはその一瞬を逃さなかった。
身体を滑り込ませるようにボールを奪い、そのままゴールへ向かう。
ペナルティエリア手前。
右足から放たれた強烈なシュートが、バルシーノのゴールネットを揺らした。
3―1。
スタジアムが爆発的な熱狂に包まれる。
「す、すまない……!」
青ざめるポージャン・ペレス。
だが、混乱はそれだけでは収まらなかった。
失点からわずか三分後の後半41分。
今度は最終ラインでボールを保持したCBアレハンドロへ、前線のプレスに連動して中盤の選手まで一気に押し上がってきた。
普段のカデテなら通用していた身体の強さ。だが、フベニルAのトップレベルの寄せの速さは次元が違っていた。
アレハンドロは慌ててGKトニ・ラマジェへバックパスを送ろうとしたが、焦りからキックが芝に引っかかり、極端に弱くなった。
そこへ走り込んできたサラゴサのMFマルコスがボールを奪い、無人のゴールへと流し込む。
3―2。
一気に1点差。
「¡¿Qué estás haciendo?!(何をやっているんだ!)」
主将のトニ・ラマジェが叫び、アレハンドロは頭を抱えて立ち尽くした。
わずか数分の間に、完全に試合の流れがサラゴサFCへと傾いてしまった。
ベンチ前で腕を組むジョゼップ監督の眉間に、深い皺が刻まれる。
ターンオーバーによる若手の抜擢。それは育成クラブの宿命でありながら、一歩間違えれば勝利そのものを吹き飛ばす劇薬であった。
「ダビアン、入れ!」
後半42分。監督は残る交代枠を使い、「銀月の魔術師」ダビアン・シヴァをピッチへ送り込んだ。
――
5. 静寂のラストパス
「¡Eh, vosotros! ¡Arriba la cabeza!(おい、お前ら、顔を上げろ!) まだ俺たちが勝ってるんだ!」
ピッチに入ったダビアンの鋭い一喝が、浮足立っていたアレハンドロとポージャンの意識を現実に引き戻した。
ダビアンが中盤の中央に陣取ったことで、サビエルとイネスの立ち位置が再び安定する。
だが、同点に追いつこうと狂気じみた形相で攻め立ててくるサラゴサFCの勢いは止まらない。
後半アディショナルタイム。残り時間はあと二分。
相手の波状攻撃をトニ・ラマジェが必死のセービングで防ぎ、こぼれ球を拾ったサビエルが前を向く。
サラゴサFCの最終ラインは、同点を狙ってほぼハーフウェイライン付近まで押し上がっていた。
「¡Salid!(押し上げろ!)」
サビエルから、右サイドのフェリペへ。
フェリペは寄せてくる相手DFをワンタッチでかわし、中央のダビアンへ当てる。
ダビアンから左サイドのイネスへ。
ト、ト、トンッ。
狭いエリアを、ダイレクトパスが音もなく駆け抜けていく。一つのパスが次のパスを呼び、瞬く間にボールが人の間を渡っていく。狂乱に包まれていたスタジアムが、その一瞬だけ、息を呑んだ。
そして、イネスが前方を向いたその瞬間。
最前線で相手CBアルバロと駆け引きを続けていた吉良氏真が、音もなく動き出した。
氏真は前へ走るのではない。
相手CBの視野の死角となる右斜め後ろへ、すっと半歩だけ身体を引いた。
アルバロの重心が、氏真の消えた気配を追おうとわずかに前傾する。
その刹那。
氏真は脱力した足首で地面を滑るように反転し、アルバロの背後に広がった広大なスペースへと、滑らかな加速で躍り出た。
イネスの左足から、DFの頭上を越える柔らかな浮き球が放たれ、照明の光に照らされたボールは、アウェイの夜空に放物線を描く。
飛び出してきた相手GKカルロス。
背後から必死に追走してくるCBアルバロ。
ボールは氏真の右肩越しに落ちてくる。
常人であれば、トラップして体勢を整えようとする場面。あるいは、力任せに叩き込もうとしてミートを乱す場面。
だが、氏真の心は、静まり返った水面のように澄み切っていた。
(……身体が、軽い)
氏真は右膝から力を抜いた。落ちてくるボールの勢いに、自らの走りを重ねる。二つの動きが、ひとつの軌跡へと重なった。
踏み込む左足のスパイクが、芝生を優しく撫でる。
ボールが右足の甲に吸い付く、その瞬間。
氏真は腰の回転をわずかに遅らせ、足首を柔らかく外側へ開いた。
身体の重みをそのままボールの芯へと預ける、極限の脱力ボレー。
パンッ――。
澄んだ打球音が、スタジアムに響き渡る。
放たれたシュートは、飛び出したGKカルロスの伸ばした指先を嘲笑うかのようにすり抜け、美しい弧を描いてゴール左上隅のサイドネットへと吸い込まれていった。
――ザシュッ。
後半45分+2分。4―2。
試合を決定づける、完璧なるダメ押し弾。
6. 勝利の余韻と監督の苦悩
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーッ!
直後に鳴り響いた長いホイッスルが、アウェイでの激闘の終わりを告げた。
4―2。
FCバルシーノ・フベニルA、敵地で価値ある勝ち点3を獲得。
ピッチの中央で、ダビアンやサビエルが氏真の元へ駆け寄り、その頭を激しく撫で回す。
「見事だ、ウジザネ! あの状況でダイレクトで沈めるとはな!」
「みんなのパスが完璧だったからだよ」
氏真は穏やかに微笑み、胸の前で小さく手を合わせた。
だが――狂喜する選手たちの後方で、ベンチ前に立つジョゼップ監督の表情は、勝利のそれとは程遠い険しさを帯びていた。
コートのポケットに手を突っ込み、監督は失点に絡んだアレハンドロとポージャンの怯えた背中を凝視していた。
(……勝ちは拾った。だが、これが過密日程の現実だ)
主力組と控え組の間に横たわる、経験と強度の圧倒的な溝。
来週から再開されるユースCLのグループステージ、そして国内リーグの過酷な首位争い。
エステバンはトップチームへの招集が続き、チームの台所事情は日に日に厳しさを増していく。
「主力を休ませながら勝つには……これまでと同じ戦い方では通用せんか」
ジョゼップ監督の低い呟きは、冷たいアラゴンの秋風にかき消されていった。
更衣室へと戻る通路の中、氏真はスマートフォンの画面を開いた。
そこには、試合終了と同時に日本から届いた、愛からの短いメッセージが表示されていた。
『素晴らしいゴールでしたね、氏真様。今夜はしっかりストレッチをして、ゆっくりお休みください』
画面を見つめる氏真の瞳に、闘志の光が宿る。
チームが直面する新たな試練。
それでも氏真の歩みは、止まらない。
【次回予告】
過密日程がもたらすターンオーバーの限界。守備の崩壊に苦悩するジョゼップ監督が下した非情な決断とは――!?
第100話:【ターンオーバーの試練】次なる天下へのパスを回せ!




