↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『The Renaissance striker Uzizane(転生ストライカー氏真)』 ~戦国最低スペック大名が現代に転生したら、天才ストライカーになってしまった件~  作者: みなも
第9章 青春という名のもう一つのフットボール編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
181/182

第178話:【届かなかった場所】

【あらすじ】

東経大柏との死闘を終えた浦和駒場のロッカールーム。静まり返る部屋で、選手たちはそれぞれの現実と向き合っていた。自らのプレーを反芻する氏真の目に飛び込んできたのは、スペインで躍進する宿敵・織田凱斗の衝撃的な報せ。世界の最前線と自らの現在地。吹き荒れる雪のなか、答えの出ない重い自問自答が始まる――。


1.冷え切った地下と、押し殺された慟哭


浦和駒場スタジアムの地下通路の最奥、盛岡城南高校に割り当てられたロッカールームは、張り詰めた冷気と沈黙に支配されていた。


空調の吹き出し口から漏れる微かな作動音だけが、コンクリートの壁に低く反響している。


ピッチから引き揚げてきた選手たちの身体からは、まだ濃い湯気が立ち上っていた。その熱気も、時間の経過とともに急速に奪われ、室内には冷え切った空気だけが重く沈殿していく。


床には、激戦で削られた芝草、こびりついた土埃、引きちぎられた白いテーピングの残骸が無造作に散らばっていた。


汗の匂いに、アイシングスプレーと湿布薬の刺激臭が重く混ざり合っている。


「……っ……、ぅぐ……」


長椅子の中央から、押し殺した嗚咽が漏れた。


主将の諸島憲二だった。


いつも誰よりも冷静で、激闘の渦中にあっても声を張り上げ、チームの背骨であり続けた男が、膝を抱え、両腕の奥深くに顔を埋めている。


専任トレーナーのキャム・ベルナルドが静かに膝をつき、諸島の右足首を覆っていた分厚いテーピングを鋏で慎重に切り開いた。


皮膚が露わになった瞬間、周囲にいた控え部員たちが息を呑んだ。


外くるぶしから足の甲にかけて、足首は赤黒く腫れ上がり、皮膚の下には暗い紫色の内出血が広がっていた。


中1日の過密日程で戦い抜いた4試合。激痛を麻痺させ、可動域を騙しながら酷使し続けた肉体が、限界をとうに超えていた。


だが、諸島が歯を食いしばり、床に大粒の涙を滴らせているのは、足首の痛みのためではなかった。


「……すまない……。俺が……俺が、あそこを塞ぎきれていれば……。3年生を……国立へ、連れて行けたのに……っ!」


どれほど過酷な練習でも、どれほど絶望的な局面でも、一度たりとも弱音を吐かなかった主将が、肩を激しく震わせて泣きじゃくっていた。


勝てば、聖地・国立競技場へ続く準決勝。


負ければ、その場で終わり。


全国48代表のうち、準々決勝まで勝ち残ったわずか8校。その最後の関門で、自分たちは弾き出された。


その現実が、容赦なく突きつけられていた。


その両脇でも、3年生たちがそれぞれの形で敗北を受け止めきれずにいた。


副主将のCB佐々木拓海は、頭からすっぽりと被ったタオルの下で、両手で顔を覆ったまま微動だにしない。


タオルの端から漏れる呼吸は荒く乱れ、噛み締めた唇からわずかに血が滲んでいた。


右SBの一戸政実は、壁に後頭部を押し当てたまま、虚ろな目で天井の蛍光灯を見つめ、声もなく涙を流し続けている。


GKの工藤一は、泥に汚れたキーパーグローブを外すことも忘れ、握りしめた両拳を自らの太ももへ何度も強く押し当てていた。


引退。


その2文字が、ロッカールームの空気を重く押し潰していた。


彼らが高校生活のすべてを捧げてボールを追い、泥を啜りながら築き上げてきた時間は、埼玉の冬空の下、わずか1点差で幕を下ろしたのだ。


明日から、3年生の朝練習はない。


放課後の第一グラウンドで、後輩たちと声を掛け合うこともない。


この仲間たちと、同じユニフォームを着て公式戦に臨むピッチは、もう二度と存在しなかった。


部屋の入り口に立つ吉良剛監督は、ホワイトボードの前に腕を組み、仁王立ちのまま選手たちを見据えていた。


その手には、「0-1」というスコアが記された公式記録用紙が握られている。


普段であれば、敗戦の直後であっても選手たちの顔を上げさせ、次の課題を突きつける指揮官だった。


だが、剛の唇は固く結ばれ、重い沈黙を守り続けていた。


選手たちがどれほどの覚悟でここまで辿り着き、東経大柏という絶対王者の壁に何をぶつけ、何を砕かれたのか。誰よりも理解していたからだ。



2.反芻される最後の一歩


吉良氏真は、ロッカールームの最も隅にあるスチール製の椅子に腰を下ろしていた。


背番号9のユニフォームは、東経大柏の激しいプレッシングと幾度も交錯したことで、相手の汗と乾いた土埃にまみれ、鈍い色に染まっている。


氏真はスパイクの紐を解くことも忘れ、自らの両手と、泥に汚れた爪先をじっと見つめていた。


(……届かなかった)


その事実が、胸の奥底へと冷たい鉛のように沈んでいく。


目を閉じると、試合終了直前の光景が鮮明に蘇った。


後半42分。ペナルティエリア手前中央、ゴールまで約18m。


満身創痍の諸島が痛む右足を投げ出し、決死のスライディングで残してくれた、千載一遇のこぼれ球。


目前へ突進してきた相手ボランチ城戸の圧力を、胸椎の脱力と骨盤の操作でいなした。


前方が開ける。


立ちはだかる相手GK坂崎が、氏真の右足から放たれるニアコースを警戒し、左足へ重心を半歩沈めた。


その一瞬の変化を、氏真は完璧に捉えていた。


脳裏には、ファーサイドのサイドネットが揺れる美しい放物線が描かれていた。


力任せの強振ではない。


トラップの延長線上にある、最小動作のコントロールショット。


相手の重心の逆を突き、空間の隙間を縫う一撃。


狙いは寸分の狂いもなく定まっていた。


だが――そこに、神崎剛毅がいた。


重心を完全に外され、逆を突かれたはずの巨躯が、泥を蹴り裂いて空中に身体を投げ出してきた。


必死に伸ばされた神崎の右足の爪先。


ガッ、という乾いた接触音。


ほんのわずかな擦過。それだけでボールの軌道は浮き上がり、クロスバーの上面をカツンと叩いて冬空へ跳ね上がった。


そして、その直後に鳴り響いたタイムアップの長い笛。


(予の身体の扱いに、狂いはなかった。坂崎殿の重心の変化も捉えていた。だが……神崎殿の最後の一歩を、予は読み切れておらなんだ)


氏真は、膝の上で両手を強く握り締めた。


前世の記憶。そして現代に生を受け、欧州・バルセロナのカンテラで磨き上げてきた技術。


合理的な身体操作、脱力、重心移動、相手の認知と判断の隙を突く知性。


それらを磨き続ければ、ピッチ上のあらゆる事象を読み、勝利を手繰り寄せられると信じていた。


フットボールとは、空間と時間を制する知的な闘争であるはずだった。


だが、東経大柏がピッチの上で突きつけてきた現実は、その考えに新たな問いを投げかけていた。


神崎の伸ばした最後の一歩は、単なる根性論ではない。


80分間、チーム全体で縦幅25mのコンパクトネスを保ち続けた守備の規律。


城戸が抜かれた瞬間、最短距離でカバーへ入るという、東経大柏の守備原則の徹底。


そして、何千回、何万回とゴール前で身体を投げ出してきた、日々の泥臭い反復に裏打ちされた肉体の反応速度。


神崎もまた、自らが信じる守備の合理性を、最後の最後まで徹底して遂行したのだ。


個人の合理性を極めた技と、組織の合理性を背負って身体を投げ出す執念。


その極限の衝突において、神崎の爪先が、氏真の想定をわずかに上回った。


(予一人の理だけでは、埋め切れぬものがあったというのか……)


指先が微かに震える。


身体の理を尽くせば、ピッチ上のすべてを支配できる。


心のどこかで、そんな思い上がりがあったのではないか。


負けた。


言い訳の余地など欠片もない、正真正銘の敗北だった。


全国ベスト8という結果を、世間は快挙と称えるかもしれない。


だが、ピッチの上で最後の一歩に屈した当事者にとって、それはただ、聖地へ届かなかったという冷厳な事実でしかなかった。



3.海の向こうの閃光と、胸を焼く焦燥

ロッカーの片隅に置かれた氏真のスポーツバッグの中で、スマートフォンが小刻みに震えた。

1度、2度、3度。

取り出して画面を点灯させると、国内外のサッカー速報アプリから、夥しい数のプッシュ通知が雪崩のように表示されていた。


その中央に躍る太字の見出しを目にした瞬間、氏真の呼吸が止まった。


『ラ・リーガ第19節、 FCレアル・マフリットが後半ATの劇的弾でアトレFCを撃破!』

『16歳の日本人FW織田凱斗、トップチーム史上最年少デビュー&衝撃の初ゴール!』

『規格外の破壊的フィジカル! 弾丸ミドルで名門のゴールを粉砕した「東洋の魔王」にスペイン全土が熱狂!』


添付された速報映像のサムネイル。

白のユニフォームをまとった筋骨隆々の少年が、マドリードの夜空に向かって獣のような咆哮を上げ、サポーターの渦の中へ飛び込んでいく姿が映し出されていた。


織田凱斗。

かつてスペインの地で、互いのプライドと存在意義を懸けて幾度となく激突した最大の宿敵。

常軌を逸した闘争心と暴力的なまでのフィジカル、他者を自らのゴールを奪うための道具として冷徹に使い倒す圧倒的なエゴイスト。


震える指で画面をタップし、ハイライトを再生する。

画面の中の凱斗は、世界屈指の屈強なDFたちを背中で弾き飛ばし、マークを力ずくで剥がして前を向いていた。

ペナルティアークの外側から放たれた右足の閃光。

時速120kmを優に超える破壊的な一撃が、欧州最高峰のGKの手首を弾き飛ばし、ゴールネットを激しく揺らしていた。

スタジアムを埋め尽くす数万の大観衆が地鳴りのようなチャントを歌い、チームメイトのトッププロたちが凱斗の肩を抱いて手荒く祝福している。


世界の最前線。

フットボールという競技の最高峰の舞台で、凱斗はすでにプロとして、自らの力で時代を切り拓いていた。


「……凱斗」


乾いた喉から、掠れた呟きが漏れた。

スマートフォンの液晶が放つ眩い光と、自分が今座っている薄暗く冷え切ったロッカールームの床。

その落差が、あまりにも残酷だった。


嫉妬、ではなかった。

あのような規格外の怪物を前にして、浅ましい妬みなど湧き上がるはずもない。

胸の奥を激しく締め付けてきたのは、もっと根源的な、氷のように冷たく、それでいて焼け付くような強烈な焦燥だった。


凱斗は、世界の頂へと続く階段を真っ直ぐに駆け上がっている。

それに対して、自分はどうだ。

母・有理の病気療養を支えるため、バルセロナの育成組織を離れ、日本の東北・盛岡という雪深い町へ来た。

公立高校のサッカー部に入り、土のグラウンドで泥にまみれ、フィジカルと走力を重んじる日本の高校サッカーの壁に抗いながら戦ってきた。

そして――全国高校サッカー選手権の準々決勝、ベスト8の舞台で散った。


(予は……世界へ戻る道を、ただ遠回りしているだけなのではないか?)


重い自問が、胸の奥底を冷たく抉る。

母を選んだ決断を後悔しているわけではない。

母の命以上に優先すべきものなど、この世に存在するはずがなかった。

だが、フットボール選手としての自分は、世界の最前線へ戻ることを渇望している。


(凱斗は、世界の頂で己の価値を証明した。予は、日本の高校サッカーで、ベスト4にすら届かなかった)

(母を支えることと、世界を目指すこと。その二つを両立させるなどという甘い考えが、この敗北を招いたのではないか……?)


かつて戦国乱世において、時代の激流に呑まれ、敗者として歴史の片隅へと追いやられていった前世の記憶。

あのときの、世界から切り離されていくような途方もない無力感が、再び背筋を這い上がってくる。

自分はまた、道を誤ったのか。

答えのない暗闇の中で、氏真はスマートフォンの画面を伏せ、深く首を垂れた。



4.100人の体温と、拭えぬ敗北の重み

カチャリ、と重い鉄の扉が開き、廊下の冷気と共に複数の足音がロッカーへ入ってきた。

スタンドから降りてきた控え部員たちだった。

その先頭に立っていたのは、岩手県立大学1年生の久保田誠だった。


スポーツデータサイエンスを専攻する研究者の卵であり、城南サッカー部のOB。

昨春、高校3年間で公式戦の出場時間が0分という挫折を味わいながら、外部アナリストとして母校を支え、100人の部員全員のデータを分析し続けてきた青年だった。


久保田の眼鏡の奥の瞳は赤く腫れ上がり、頬には涙の跡が乾いて白く残っていた。

だが、その表情には、責める色も、失望の色も欠片もなかった。


「……佐々木」


久保田は掠れた声で呼びかけると、ベンチでタオルを被ったまま震えている佐々木拓海のもとへ歩み寄り、その背中を力強く抱き締めた。


「佐々木、顔を上げろ。……お前がいたから、ここまで来られたんだ。お前のディフェンスラインは、最後まで全国トップクラスだったぞ」


「久保田……さん……っ!」


佐々木の手からタオルが滑り落ち、堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。


「勝ちたかった……っ! 久保田さんたちが残してくれたチームで……俺たち、国立へ行きたかった……!」


「分かってる。分かってるよ……」


久保田は佐々木の後頭部に手を回し、強く抱き留めた。

その姿に促されるように、BチームやCチームの控え部員たちが、次々とロッカーの中へ足を踏み入れてきた。


ある者は、膝に顔を埋める諸島の前にしゃがみ込み、その震える肩に手を置いた。

ある者は、悔しさに唇を噛む林皓然の手を固く握り締めた。

ある者は、うなだれる工藤一の泥を拭いながら、声を振り絞って感謝を伝えていた。


「諸島さん、胸を張ってください! 俺たちのキャプテンは、あなただけです!」

「工藤さん、あのファインセーブがなかったら、とっくに終わってました!」

「ありがとうございました! 俺たちを、ここまで連れてきてくれて……!」


温かい声と、確かな体温が、冷え切っていたロッカールームの空気をゆっくりと満たしていく。

スタンドで声を枯らし、メガホンを叩き続けた控え部員たちもまた、ピッチに立てなかった悔しさを飲み込み、この冬を共に戦い抜いてきた仲間たちだった。

AチームもBチームもない。

朝早くから夜遅くまで、同じグラウンドでボールを追い、同じ悔しさを噛み締めてきた100人の仲間たち。

彼らが差し伸べる手の温もりは、紛れもなく本物だった。


氏真は、その光景を隅から静かに見つめていた。

胸の奥に、確かな熱が広がっていくのを感じていた。

欧州のカンテラという、個の生存競争がすべてだった冷徹な世界では決して知ることのできなかった関係性。

久保田の献身がなければ、諸島の統率がなければ、3年生たちの泥臭い奮闘がなければ、自分はこの全国の舞台に立つことすらできなかった。

この1年間、盛岡で積み重ねてきた時間は、決して無駄なものではなかったはずだ。


だが――。

氏真は、固く握り締めた自らの拳の爪を、手のひらに深く食い込ませた。


(……安易に、受け入れてはならぬ)


胸の奥底で、厳然たる理性が囁いていた。

仲間たちの温もりを否定したいわけではない。

100人で築き上げてきた絆を、疑っているわけでもない。


しかし――勝負は、負けたのだ。


どれほど美しい絆があろうと、どれほど涙を流して称え合おうと、電光掲示板に刻まれた「0-1」というスコアが覆ることはない。

東経大柏が手にした国立への切符は、自分たちには届かなかった。

それを「よく頑張った」「ベスト8だから胸を張ろう」という美談にすり替えてしまえば、自分たちの敗北はただの心地よい感傷で終わってしまう。


あの最後の一歩、神崎剛毅の足先が届き、自分のシュートが阻まれたという冷徹な事実。

それは、自分たちのフットボールが、相手の執念の前に「足りなかった」という証拠なのだ。


(予は……何を得て、何を失ったのだ?)


仲間を大切に思うようになったからこそ、彼らと共に勝てなかった現実が、鋭利な刃となって胸を抉る。

勝てなければ、守れないものがある。

海の向こうで咆哮する凱斗の姿と、泣き崩れる目の前の仲間たちの姿が交錯し、激しくせめぎ合う。

答えは出なかった。

氏真は、温かな輪の片隅で、ただ一人、出口のない問いを抱えたまま唇を噛み締めていた。



5.雪の盛岡へ――閉ざされた白銀の町

17時を少し回った頃、浦和駒場スタジアムの地下駐車場から、盛岡城南高校の大型バスが静かに発進した。

スタジアムの外縁にはまだ大会関係者や観客の姿が残っていたが、敗者を乗せたバスを振り返る者はほとんどいない。

冬の夕暮れは急速に色を失い、冷たい紫色の宵闇が街を包み始めていた。


東北自動車道へ入ると、車内は完全な闇と沈黙に支配された。

激闘で体力を限界まで削り取られた選手たちは、座席に深く身を沈めている。

時折、誰かが小さく鼻を啜る音や、寝返りを打つ衣擦れの音だけが、重苦しい静寂を破る。


通路を挟んだ斜め前の席では、諸島がアイシングの施された右足を前の座席の下へ慎重に伸ばし、窓の外をじっと見つめていた。

ロッカールームで見せた激しい涙は引いていたが、硬く引き結ばれた横顔は、彫刻のように強張っている。

3年生たちの多くは、疲れ果てて眠りに落ちていた。

それは休息というよりも、終わってしまったという残酷な現実から意識を遠ざけるための、一時的な逃避のようにも見えた。


関東平野を北上するにつれ、車窓の灯りは次第にまばらになり、果てしない闇が広がっていった。

バスのタイヤがアスファルトを規則正しく刻むロードノイズだけが、車内に低く響き続ける。


氏真は、冷たい窓ガラスに額を預けていた。

ガラスを通して伝わってくる外気の冷たさが、熱を持った思考を鎮めてくれるようだった。

手の中には、画面を消したスマートフォンが握られている。

画面をつければ、すぐにでも凱斗のニュースが、世界の熱狂が目に飛び込んでくるだろう。

世界は、自分が足を止めている間も、何一つ滞りなく猛烈な速度で回り続けているのだ。


(予は何のために、サッカーをしているのか)


暗いガラス窓に、自らの頼りない輪郭がぼんやりと映り込んでいる。

16歳の吉良氏真。

かつて戦国を生きた記憶を持ちながら、いまはただ、全国大会の舞台で敗れ去った高校1年生のストライカー。


母の命を救うため、叔父である剛の言葉を信じて盛岡へ来た。

その選択に一片の後悔もない。

だが、母を支えながら、高校サッカーの頂点を目指し、そして世界へ返り咲くという青写真は、東経大柏の泥臭い執念の前に脆くも崩れ去った。

自分は、何かを成し遂げられたのだろうか。

それとも、大切な夢からただ遠ざかっているだけなのだろうか。


バスが福島を抜け、宮城の山間部へと差し掛かる頃、闇の奥に白いものが混じり始めた。

空から舞い落ちてくる、冷たい雪の結晶。

ヘッドライトの光に照らされた雪は、北上するにつれて激しい吹雪へと変わり、アスファルトを瞬く間に白く覆い隠していった。


外気温表示は、マイナスへと転落していく。

窓の隙間から、凍てつくような冷気がかすかに忍び込んできた。

それは、氏真がこの1年間で見慣れた、厳しく、重く、すべてを白く塗り込めていく北国の冬の気配だった。


深夜を回り、バスは岩手県盛岡市へと滑り込んだ。

車窓の外には、街灯の下で白く煙る雪景色が広がっている。

除雪車が押し固めた黒ずんだ雪の壁。

遠くそびえる岩手山の稜線は、墨絵のように暗い夜空と同化していた。


「……帰ってきたな」


誰かが、ぽつりと呟いた。

安堵の滲むその声を聞きながら、氏真の胸には別の言葉が浮かんでいた。


(……帰ってきて、しまった)


華やかな首都圏のスタジアムも、大観衆の熱気も、手入れの行き届いた緑の芝生も、すべてが遠い夢のように消え去っていた。

自分たちが戻るべき場所は、この雪に閉ざされた、寒冷な北の地なのだ。

ここでまた、凍りついたグラウンドを踏みしめ、白い息を吐きながら、泥臭く足を動かさなければならない。


届かなかった。

あの聖地・国立競技場にも。

神崎剛毅の伸ばした足先を越えた、その先のゴールネットにも。

そして、世界の最前線で歓喜の雄叫びを上げる、織田凱斗の背中にも。


答えなど、どこにも見当たらなかった。

自分はこの場所で何を積み重ね、これからどこへ向かえばよいのか。

胸を締め付ける重い問いを抱えたまま、少年を乗せたバスは、吹雪の吹き荒れる盛岡の夜の闇の中へと、静かに消えていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。