第179話:【雪解けの掌】
【あらすじ】
全国ベスト8敗退の失意と、欧州で躍進する宿敵・凱斗への焦燥を抱えたまま、雪の盛岡へ帰還した氏真。翌朝、療養を続ける母・有理の病室を訪れる。順調な回復を告げられるも、胸の奥で燻る「世界への遠回り」という悔恨。静けさの中、母が差し伸べた温かな掌が、凍てつく少年の心を揺さぶる。敗北の痛みを抱え、少年は再び立ち上がれるのか――。
1.敗北の翌朝、白銀の盛岡
1月5日。
埼玉の浦和駒場スタジアムから夜通し東北自動車道を北上し、盛岡城南高校の遠征バスが学校へ帰り着いたのは深夜2時を回った頃だった。
冷え切った自室のベッドに倒れ込んだものの、ほとんど眠れなかった。
瞼を閉じれば、暗闇の奥にあの光景が焼き付いて離れない。
電光掲示板に刻まれた「0-1」の数字。
試合終了の笛とともにピッチへ額を擦りつけ、肩を激しく震わせていた主将・諸島憲二の姿。
黒紫色に腫れ上がった諸島の右足首と、顔を覆って声を殺していた3年生たちの涙。
そして、後半42分。アディショナルタイムに入った終盤、相手GKの重心の逆を突き、完璧なコースへ放った自らのシュート。そこに伸ばされたわずかな右足の爪先で、ボールをクロスバーの上へと弾き出した東経大柏の主将・神崎剛毅の最後の一歩。
手元のスマートフォンを開けば、海の向こうの熱狂が否応なく視界へ飛び込んできた。
スペイン・ラ・リーガ第19節。FCレアル・マフリットでトップチーム史上最年少デビューを果たし、後半アディショナルタイムに強烈なミドルシュートで決勝ゴールを叩き込んだ宿敵・織田凱斗。
16歳の怪物は、世界の最前線で大人たちを力ずくでねじ伏せ、自らの足で時代を切り拓いていた。
(凱斗は世界の頂へ駆け上がり……予は、日本の高校サッカーで、ベスト8で散った)
胸の奥底に、冷たい鉛の塊が沈んでいた。
朝7時を過ぎた頃、氏真は重い身体を起こしてカーテンを開けた。
昨夜の猛吹雪は止み、代わりに音もなく白い粉雪が空から舞い落ちていた。
しんしんと降り積もる雪が、盛岡の街の輪郭を吸い込み、世界を純白の静寂の中に閉じ込めている。
氏真は防寒着に身を包み、首元にマフラーを巻いて家を出た。
目指すのは、盛岡市郊外の丘陵地に立つ【明青国際大学附属病院・盛岡高度医療センター】。
昨夜からの新雪が20cmほど積もった上り坂。
踏み固められていない雪道は足を取られやすく、不用意に力を込めれば滑って余計な筋肉を消耗する。
氏真は雪を蹴り出すのではなく、足裏全体で雪の沈み込みを受け止め、骨盤の真下に重心を静かに滑り込ませるようにして坂を登っていった。
この町で暮らし始めてから、日々の生活の中で身につけてきた雪国の重心操作。
身体は無意識のうちに合理的な動きをなぞっていたが、胸の奥に澱のように溜まった焦燥感だけは、どれほど澄んだ冷気を吸い込んでも消えることはなかった。
2.母の回復と、消えない焦燥
雪煙の向こうにそびえるガラス張りの病院へ入り、受付を済ませてエレベーターで上層階へ向かう。
暖房の効いた静かな廊下を進むと、角のカンファレンスルームから白衣姿の主治医・仲村右京が出てくるところだった。
「やあ、氏真君。朝早くからご苦労様」
仲村は穏やかな笑みを浮かべ、手元のクリアファイルから視線を上げた。
「昨日の選手権準々決勝、ニュースで見たよ。惜しかったね。……だが、激戦区の千葉の代表を相手に、最後まで堂々たる戦いだった」
「……ありがとうございます」
氏真は短く頭を下げた。
労いの言葉が、チクリと胸に刺さる。
どれほど善戦と称えられようと、ピッチに立っていた当事者にとっては、あと1点が届かなかった厳然たる敗北でしかない。
その内心の翳りを察したのか、仲村は静かに頷き、柔らかな口調で本題を告げた。
「お母さんのことだがね、非常に良い経過をたどっているよ」
「……本当ですか」
「ああ。先月から導入した分子標的薬が、狙い通りの効果を発揮してくれている。血液検査の数値も安定しているし、治療への反応も良好だ。寛解状態を維持したまま、今後も慎重に経過を見ていける段階に入ったと考えていい」
半年前に欧州を離れ、この北の地へ母を連れてきた氏真にとって、何物にも代えがたい最高の知らせだった。
だが、その安堵が胸に広がると同時に、拭い去れない別の感情が音もなく鎌首をもたげてくる。
「ちょっと、氏真! 廊下の真ん中で何をぼんやり突っ立ってんのよ!」
背後から響いたのは、張りのあるよく通る声だった。
振り返ると、大柄な体躯に鮮やかなトレーニングウェアを着込んだ専任理学療法士、キャム・ベルナルドが長い手足を揺らしながら歩いてきた。
「キャムさん……」
キャムは氏真の肩に大きな手を置き、首筋から背中にかけての強張りを確かめるように軽く叩いた。
「有理さんのリハビリ、予定よりずっと順調に進んでるわ。アンタがピッチで戦う姿を追うことが、あの方の大きな励みになってるのは間違いないんだから。ほら、背筋を伸ばしなさい。息を吸って!」
「……はい」
言われるがまま息を吐き出すと、強張っていた胸郭がわずかに緩んだ。
仲村医師が小さく笑って氏真の背中を軽く促す。
「行ってあげなさい。目を覚まして待っているよ」
「……ありがとうございました」
2人に頭を下げ、氏真は廊下の奥にある個室へ向かった。
母の病状は、着実に良い方向へ向かっている。
そのために自分はバルセロナを去り、盛岡の地へ来たのだ。
後悔などあろうはずがない。
だが、その尊い日々の裏側で、自分は全国の頂点に届かず、海の向こうにいる凱斗との距離は決定的に開いてしまった。
母の回復を手放しで喜びきれない自分がいる。
その自分勝手な焦燥が、まるで母に対する裏切りのように思えて、氏真の胸を鋭く締め付けていた。
3.母の掌と、敗北の告白
静かにノックをして病室の扉を開けた。
「……母さん」
個室の中は、静まり返っていた。
加湿器が微かな蒸気を吐き出し、窓の外では粉雪がゆっくりと舞い落ちている。
ベッドの上で背中を起こしていた有理が、ゆっくりと顔を向けた。
短く切り揃えられた黒髪に、薄手のニットキャップ。
抗がん剤治療による痩せ細りはまだ残っていたが、肌には自然な温かみが戻り、その瞳には深い慈愛の光が宿っていた。
サイドテーブルの上には、昨日の試合結果を報じるスポーツ新聞が、小さく折り畳まれて置かれている。
「いらっしゃい、氏真。雪、寒くなかった?」
有理の声は少し掠れていたが、芯の通った穏やかさがあった。
「大丈夫だよ。……母さんは、身体、辛くない?」
「ええ。キャムさんがいつもリハビリに付き合ってくれるから、退屈している暇もないくらいよ」
有理は柔らかく微笑み、ベッドの脇に置かれた丸椅子を手で示した。
氏真は促されるまま腰を下ろした。
だが、母の顔を正面から見つめることができない。
視線を落とすと、シーツの上に置かれた有理の右手が目に入った。
点滴の痕がかすかに残る、骨の浮き出た痩せた手。
その手が静かに動き、氏真の硬く握りしめられていた右手を、そっと上から包み込んだ。
温かかった。
冬の冷気に晒されていた氏真の手の甲へ、母の確かな体温がじんわりと染み渡ってくる。
「……氏真」
有理が静かに呼んだ。
「そんな顔をしてボールを蹴るために、私を盛岡へ連れてきてくれたわけじゃないでしょう?」
その静かな言葉が、氏真の胸の奥に張り巡らされていた防壁を音もなく突き崩した。
日本へ戻ってきて以来、誰の前でも決して口にしなかった弱音が、喉の奥からせり上がってくる。
「母さん……」
氏真は唇を噛み締め、俯いた。
「……僕は、勝てなかった」
掠れた声が、静かな病室に落ちた。
「バルセロナを離れて、盛岡へ来て……城南の仲間たちと力を尽くした。100人の部員が、それぞれの立場で泥にまみれて、持てるすべての知性と技術をピッチに注ぎ込んだ。……だけど、届かなかったんだ」
神崎の傷だらけのスパイク。諸島の涙。仲間たちの嗚咽。
抑え込んでいた情景が、胸の中で激流となって渦を巻く。
「相手の守備を崩し切れなかった。僕の技術も、判断も、最後の一歩で相手の執念に阻まれた。……そして、凱斗はマフリットFCで最年少デビューを果たして、決勝点を決めた。あいつは世界の最前線でプロとして駆け上がっているのに、僕は……日本の高校サッカーで、ベスト4にすら届かずに終わった」
氏真の指先が小刻みに震えた。
「僕は……世界へ戻る道を、ただ無為に遠回りしているだけなんじゃないのか。母さんを支えることと、世界を目指すこと……その両方を追うこと自体が、ただの中途半端な思い上がりだったんじゃないのか……」
吐き出した瞬間、激しい自己嫌悪が襲った。
病と闘い続けている母の前で、自分は何という身勝手な弱音を吐いているのか。
母を救うために自ら選んだ道ではないか。
それを遠回りだと悔やむことは、母の存在そのものを重荷だと否定することではないか。
「……ごめん。母さん、僕は……今のは……」
氏真が慌てて言葉を取り消そうと顔を上げたとき、有理の両手が、氏真の冷たい手をさらに強く、慈しむように包み直した。
「泣きなさい、氏真。……ここには、私しかいないもの」
有理の瞳には、一切の咎める色も、失望の色もなかった。
ただ深い静けさと、無条件の受容だけが湛えられていた。
その温もりに触れた瞬間、氏真の瞳から、大粒の涙がポロポロとシーツの上へ零れ落ちた。
昨日の冷え切ったロッカールームでも、深夜の帰還バスの中でも流せなかった悔し涙が、母の掌の上で止めどなく溢れ出していった。
4.雪にしなる枝
氏真が静かに呼吸を取り戻すまで、有理は何も言わず、ただ息子の手を握り続けていた。
やがて涙が引くと、有理は窓の外へ視線を向けた。
中庭の片隅に立つ針葉樹の細い枝に、こんもりと白い雪が積もっている。
降り積もる雪の重みに耐えかねて、枝先は大きく弓なりにしなっていた。
だが、どれほど深く曲がろうとも、決してポキリと裂けることはない。
ふと風が吹き抜けると、積もっていた雪がハラハラと滑り落ち、枝は何事もなかったかのように弾んで天を仰いだ。
「あの木を見てごらんなさい。……雪の重みを受け入れて、自らをしならせることで冬を越しているわ」
有理は息子の濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「私もね、この病気に対して、勝ち誇ろうなんて思っていないのよ。病気に勝つとか負けるとかではなくて、ただ今日を生きることを、一日一日積み重ねているだけ。……氏真、あなたが昨日味わった敗北の悔しさも、凱斗君への焦燥も、無理に消そうとしなくていいのよ」
有理の手が、優しく氏真の頭を撫でた。
「一度も躓かずに勝ち続けることだけが、強さじゃないわ。壁にぶつかり、泥を啜り、自分の無力さに打ちひしがれる。その痛みをなかったことにせず、心にしっかりと抱えて、なお『次はどうするか』と歩き出すこと。……それこそが、しなやかな強さよ」
「痛みを……抱えて……」
「そうよ。凱斗君に追いつくこと。私を支えてくれること。盛岡城南の仲間たちと頂点を目指すこと。……氏真、そのどれか一つを捨てる必要なんてないのよ」
有理は、悪戯っぽく微笑んだ。
「全部、欲張りなさい。誰かのために自分の夢を縮こまらせる必要なんてないわ。母を大切にし、仲間を大切にして、世界の頂へ手を伸ばしなさい。そのすべてを抱えて進むことが、あなたをもっと強い人に育てるはずだから」
母の言葉が、氏真の凍てついていた胸の芯へ、温かな光となって染み渡っていった。
消えたわけではない。
神崎にシュートを阻まれた無念も、凱斗との絶望的な差も、何一つ消え去ってはいない。
ただ、冷たく凝り固まっていた鉛のような塊が、母の手の温もりに触れ、少しずつほどけていくのを感じていた。
自分は、何かを諦めるために盛岡へ来たのではなかった。
欧州の恵まれた芝生の上だけを走っていては決して出会えなかった、100人の仲間たち。
怪我に苦しみながら最後の一歩を戦い抜いた諸島。
自らの無念を飲み込んで背中を押してくれた控え部員たち。
そして、最後の一歩で自らの前に立ちはだかり、泥臭い組織の力を教えてくれた東経大柏の神崎。
それらはすべて、自分が世界へ戻る道を切り拓くための、かけがえのない経験だったのだ。
「……母さん、ありがとう」
氏真は小さく息を吸い込んだ。
「僕、この場所で、もう一度仲間と戦うよ」
「ええ。よく言いました」
有理は満足そうに目を細め、氏真の額に自らの額をそっと重ねた。
5.雪のグラウンドと、次の一歩
病院を出た氏真は、自宅へは戻らず、そのまま盛岡城南高校へと向かった。
冬休み中の校舎は静まり返っていたが、校門を抜けて緩やかな坂を下りると、目の前に広大な第一グラウンドが広がっていた。
足跡一つない、見渡す限りの白銀の世界。
夏には土煙を巻き上げ、秋には100人の部員たちの足音で揺れていた場所が、純白の雪原となって静かに眠っている。
氏真は部室の軒下へ行き、ベンチに腰を下ろした。
バッグから取り出したのは、昨日、駒場のピッチで泥だらけになった黒いスパイク。
昨夜、帰宅した直後に泥を丁寧に落とし、オイルを塗り込んで磨き上げた一足だった。
冷たい風の中で紐を緩め、両足を滑り込ませる。
足首の可動域を確かめながら、均等な力加減で紐を締め上げた。
ボールを1つ抱え、新雪のグラウンドへと足を踏み出す。
ザクッ。
雪を踏みしめる音が、静かな冬空に響いた。
足元にボールを落とし、右足のインサイドで優しくタッチした。
雪の抵抗でボールはすぐに止まる。
勢いに任せて大きく蹴り出すのではなく、足裏全体で雪の沈み込みを受け止め、重心の微細なズレを確かめながら、短いタッチを丁寧に繰り返す。
不安定な足場だからこそ、余計な反力に頼らず、骨盤の真下に重心を滑り込ませる感覚が研ぎ澄まされていく。
「……こんな雪の中で、何をやってる」
背後から掛けられた太い声に、氏真はボールを足裏で止め、振り返った。
グラウンドの脇に、黒いベンチコートを着た吉良剛監督が立っていた。
手には温かい缶のお茶が2つ握られている。
「叔父さん……」
剛は雪を踏みしめて歩み寄ると、氏真に缶のお茶を1つ放ってよこした。
受け取ると、掌を通してじんわりとした温もりが伝わってくる。
「有理の顔、見てきたか」
「はい。……仲村先生からも、順調だと聞きました」
剛は短く息を吐き、白く煙る息の向こうで視線をグラウンドの雪原へと投げた。
「東経大柏の神崎のブロック。……あれを、どう思っている」
唐突な問いだった。
だが、剛の瞳には、敗戦を責める色も、慰める色もなかった。
純粋に、競技者としての見解を求めている目だった。
氏真は少しの間沈黙し、足元の雪を見つめた。
「……神崎先輩の最後の一歩は、奇跡でも偶然でもありませんでした」
静かに、だが確信を込めて言葉を紡いだ。
「僕のシュートの狙いも、相手GKの重心の逆を取る判断も、間違ってはいませんでした。だけど、東経大柏が80分間保ち続けた守備のコンパクトネスと、抜かれた瞬間に最短距離でカバーへ入るという組織の原則……そして、何千回と身を投げ出してきた神崎先輩自身の執念が、僕の読みを上回ったんです」
剛は缶のプルタブを引き、静かに一口飲んだ。
「その通りだ。全国トップに君臨する連中は、泥臭い走力や根性論だけで戦っているわけじゃない。極限まで研ぎ澄まされた守備組織の規律を、選手一人ひとりが疑わずにやり切る。だからこそ、最後の一歩が届くんだ」
剛は視線を氏真へと戻した。
「春になれば、諸島たちが3年生になる。新入生も入ってくる。佐々木たちが抜けた穴を埋め、お前たちが中心となって新しい城南を作らなきゃならん。……氏真。お前はこの敗北を、ただの傷にするのか。それとも、次へ進むための骨にするのか」
「骨にします」
迷いのない声だった。
「僕たちは、もっと強く、もっとしなやかなチームになれます。個人の技術を磨くだけでは足りない。仲間を信じて、仲間を生かし、組織としての強度を極める。……神崎先輩たちが築いたあの強固な壁を、次は僕たち全員の力で崩し切ってみせます」
剛は口元をわずかに緩め、力強く頷いた。
「よし。なら、まずは足元を確かめろ。雪の上で身体の軸がブレているようじゃ、春のピッチで相手を崩すことなんざできんぞ」
「はい!」
剛が踵を返し、足音を立てて校舎の方へと去っていく。
グラウンドには再び、氏真一人だけの静寂が戻ってきた。
氏真は息を整え、ボールを雪の上へと転がした。
頬を打つ風は相変わらず冷たかったが、身体の奥底には、決して消えることのない熱い炎が灯っていた。
(凱斗。お前は世界の頂へ駆け上がれ)
遠く海の向こうの空を見据え、氏真は足元のボールを見つめた。
(予は、この盛岡で泥を啜り、仲間と共にフットボールの理を極め尽くす。……そして必ず、お前のいる場所へ辿り着いてみせる)
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
誰もいない純白の雪原に、新しい足跡がまっすぐに刻まれていく。
敗北の痛みをしなやかに受け止め、少年は再び、未来へと続く次の一歩を踏み出していた。




