第177話:【最後の一歩】
【あらすじ】
全国ベスト4、聖地・国立競技場への切符を懸けた準々決勝。浦和駒場スタジアムで盛岡城南を待ち受けていたのは、プレミアEASTで明青青森と頂点を争う千葉の絶対王者・東経大柏だった。世代屈指のストッパー神崎剛毅が率いる窒息必至のハイプレスに対し、中1日連戦で満身創痍の城南は総力で挑む。欧州仕込みの知性と技術は、高校サッカー最高峰の防壁を突破できるのか!?
1.寒風の駒場と紅黒の威容
1月4日。
埼玉県さいたま市・浦和駒場スタジアムの上空には、雲一つない冬晴れの青空が広がっていた。
だが、肌を刺す冷気は等々力陸上競技場よりも鋭く、スタンドを吹き抜ける風には張り詰めた緊張感が満ちていた。
第105回全国高校サッカー選手権大会、準々決勝。
全国48代表のうち、この舞台まで勝ち残ったのはわずか8校。
この日の戦いを制した者だけに、聖地・国立競技場で行われる準決勝――全国ベスト4への切符が与えられる。
盛岡城南高校の選手たちを乗せた専用バスがスタジアムの地下駐車場に到着したのは、12時を少し回った頃だった。
ロッカールームへ向かう通路には、独特の静けさが漂っていた。
12月29日の1回戦・肥後実業戦。
12月31日の2回戦・近江翔風戦。
そして1月2日の3回戦・博多南戦。
中1日の過密日程で3つの死闘を戦い抜いてきた城南の選手たちの身体には、隠しようもない疲労が蓄積していた。
主将の諸島憲二の右足首には、今朝も専任トレーナーのキャム・ベルナルドが入念なテーピングを施していた。
腫れを抑えながら関節を支え、残された可動域を確保する。
それでも、歩くたびに諸島の表情には微かな痛みが浮かんだ。
林皓然の膝や一戸政実の大腿部にも、激しい競り合いの痕である打撲や擦り傷が残っていた。
だが、選手たちの顔に弱気の色はない。
「相手にとって不足はねえぞ」
ロッカールームのホワイトボードの前で、吉良剛監督が告げた。
「私立東邦経済大学付属柏高校。通称、東経大柏。高円宮杯U-18プレミアリーグEASTで、あの明青青森と勝ち点わずか1差で首位を争っている、今大会の優勝候補筆頭だ」
剛の手元にある資料には、東経大柏の戦績がびっしりと書き込まれていた。
「前線からの猛烈なハイプレス。陣形を極限までコンパクトに保ち、相手の呼吸を止める。ボールを奪えば最短の手数でゴールへ押し込み、リードを奪えば全員が身を挺して1-0で逃げ切る。……これまで戦ってきた相手とは、プレッシャーの質も、勝負にかける冷徹さも次元が違うぞ」
選手たちの視線が引き締まる。
盛岡城南が秋のプリンスリーグ東北で激闘を演じた明青青森セカンド。
その本体であるトップチームと、高校年代最高峰のリーグ戦で互角に覇権を争っている強豪――それが東経大柏だった。
ピッチへの入場通路。
城南の先頭に立つ背番号6の諸島の横に、背番号9の吉良氏真が静かに並んだ。
整列した東経大柏のイレブンは、クリムゾンレッドと漆黒の縦縞のユニフォームをまとっていた。
紅黒の猛虎。
長年の全国大会で培われた名門特有の重厚な威圧感が、その立ち姿から伝わってくる。
その中央、背番号4のキャプテンマークを巻くセンターバック――神崎剛毅が、射抜くような眼光で氏真を見据えていた。
184cm、80kg。
すでにJ1クラブへの加入が内定している、世代屈指のストッパー。
無駄な脂肪の削ぎ落とされた鋼のような体躯。その瞳には氏真の技術を恐れる色などなく、ただ確実に仕留めるという冷徹な計算と覚悟だけが宿っていた。
14時05分。
午後の傾き始めた日差しがピッチに長い影を落とす。
全国ベスト4を懸けた80分間の戦いを告げるホイッスルが、駒場の空に鳴り響いた。
2.空間の圧縮とハイプレスの網
キックオフ直後から、盛岡城南を襲ったのは、これまでの試合で経験したことのない空間の圧縮だった。
東経大柏のシステムは、伝統のフラットな4-4-2。
だが、その陣形は通常のそれとは根本的に異なっていた。
城南が自陣深くでボールを回そうとした瞬間、東経大柏の2トップ――長谷川蓮ともう1人のFWが猛然とスプリントをかけ、センターバックの林と佐々木拓海へ同時に襲いかかる。
それと連動して、東経大柏の最終ラインがハーフウェーライン付近まで一気に押し上げられた。
陣形の縦幅、わずか25m前後。
ピッチの中央に、極端に密度の高い檻が形成された。
「囲め!」「前を向かせるな!」
主将の神崎の声が最後方から響く。
前半4分。
GK工藤一からボールを受けたアンカーの諸島に対し、東経大柏のボランチ・城戸圭介が鋭い出足で間合いを詰めてきた。
諸島は右足首の可動域の制限を補うため、ボールを受ける前から半身の体勢を作っていた。
左足のワンタッチで左サイドのクアンへ展開しようとする。
だが、パスコースにはすでに相手の右サイドハーフが立ちふさがり、背後からはもう1人のボランチが挟み込みに来ていた。
パスの出しどころがない。
諸島は踏ん張りの利かない右足を踏み締めながらボールを守ろうとしたが、城戸の激しいチャージを受け、たまらずボールをタッチラインの外へ逃がすのが精一杯だった。
「くっ……! 寄せるのが速すぎる!」
諸島が肩で息をしながら呟いた。
東経大柏は、ただ闇雲に走っているのではない。
ボールホルダーの視線、身体の向き、味方の位置を先読みし、2人、3人が連動して退路を断つ。
息の詰まるような圧迫感だった。
前半15分。
前線の中央でボールを待つ氏真の足元へ、ようやく林からグラウンダーのクサビが入った。
氏真は背後の気配を察知し、左足のインサイドでボールの勢いをわずかに吸収する。
相手の重心の逆を取り、右へ反転しようとした。
脱力による方向転換。
だが――。
ドスンッ!
反転しかけた氏真の腰の横へ、分厚い胸板が正確にぶつかってきた。
CB神崎剛毅だった。
神崎は氏真のフェイントに飛び込んだのではない。
氏真が脱力して身体を回転させる、その軸の移動先を見極め、自らの体重を預けてきたのだ。
(……反転の起こりを、読まれておる!)
氏真の身体がよろめく。
倒れまいと重心を整えた瞬間、横からカバーに入った城戸が足を伸ばし、ボールを奪い取った。
「甘いぞ、盛岡城南!」
榎木雅人監督の野太い怒号がベンチから飛ぶ。
「80分間走り抜け! 息を吸わせるな! 全員で押し潰せ!」
東経大柏のフットボールには、派手なドリブルも、スタンドを沸かせるヒールパスもない。
全員が激しいスプリントを繰り返し、球際で身体をぶつけ合い、相手のミスを徹底的に誘発する。
前半28分。
俊足ウイングの乾瞬介が左サイドを突破し、鋭いクロスを供給した。
中央へ飛び込んできた長谷川蓮のダイビングヘッドがゴールを襲う。
だが、GK工藤一が決死の横っ飛びで辛うじて弾き出した。
耐える城南。
林が頭を振って跳ね返し、佐々木が身体を投げ出してシュートをブロックする。
前半のシュート数は、東経大柏の8本に対し、城南はわずか1本。
それでも、スコアは動かなかった。
0-0のまま、前半の40分間が終了した。
3.老獪な揺さぶりと神崎のカバーリング
ハーフタイムのベンチ。
14時45分を回り、駒場のピッチの半分以上がメインスタンドの影に覆われていた。
城南の選手たちは、肩を激しく上下させ、口を真一文字に結んでいる。
「……相手のプレス、後半も落ちないと思います」
マネージャーの早川舞が、ノートPCの画面を見つめながら言った。
「東経大柏は、プレミアEASTでもこの強度を80分間維持しているチームです。後半になれば、連戦の疲労が残るウチの足が先に止まる危険性が高いです」
久保田誠も眉をひそめ、神原教授から送られてきた配置図を指差した。
「相手のハイラインの背後には、広大なスペースがあります。ですが、GK坂崎の守備範囲が広い。安易なロングボールは回収されてしまう。……裏へ落とすなら、中央ではなく、相手SBが釣り出された外側の深い位置です」
剛監督が腕を組み、選手たちを見回した。
「相手は本物の全国トップだ。綺麗にパスを繋いで勝てる相手じゃないことくらい、お前たちも痛いほど分かっているはずだ」
剛の視線が、背番号9の氏真へと注がれる。
「氏真。神崎はお前の脱力を見切っている。……どうする」
氏真は冷たい水で喉を潤し、静かに息を吐いた。
「……神崎殿は、予の動き出しそのものではなく、僕が次にパスを出す先を読んで、そこへ身体を寄せてきています。なら、囮になります」
氏真の瞳の奥に、澄んだ光が灯っていた。
「僕が中央で相手のCB2枚を引きつけます。神崎殿の意識が僕に集中した瞬間、空いたハーフスペースへクアンと八重樫を走らせてください。相手の守備がどれほど強固でも、ボールと人が同時に動く空間までは消せません」
「よし」
剛が力強く頷いた。
「後半、必ずワンチャンスは来る。その1本を仕留めろ。諸島、中盤の底で耐えきれよ」
「……任せてください」
諸島が短く応え、立ち上がった。
15時00分、後半開始。
東経大柏は、城南の予想をさらに上回る老獪さを見せてきた。
城南の守備陣に疲労が見え始めると、無理に前線へ突進するのをやめ、大きなサイドチェンジと背後へのロングボールを織り交ぜてきたのだ。
左の乾へ振られたかと思えば、次は右サイドの奥へ。
横へ、縦へと揺さぶられるたび、城南の守備ブロックはスライドを強いられ、諸島の足首にかかる負担が増していく。
後半18分。
城南に決定的な好機が訪れた。
中盤で城戸のパスを読んだ猿沢佳樹が、身体を投げ出してインターセプト。
こぼれ球を拾った諸島が、間を置かずにペナルティエリア手前の中央へ鋭いクサビを打ち込む。
そこへ落ちてきたのは、氏真だった。
「打たせるか!」
背後から神崎が突進してくる。
だが、氏真は前を向かなかった。
ボールの勢いを右足のアウトサイドでわずかに殺しながら、身体を左へ傾ける。
神崎の視線が、氏真のシュートコースへと引きつけられた。
神崎の足が中央へ踏み込まれる。
その瞬間だった。
氏真はボールを止めず、右足の爪先で背後へ流した。
神崎の身体の脇、ぽっかりと空いた左のハーフスペース。
そこへ、全速力で走り込んできた影があった。
左ウイングのグエン・ミン・クアン!
「行け、クアン!」
スタンドの控え部員たちが叫ぶ。
クアンはトップスピードのままペナルティエリア内へ侵入し、GK坂崎と1対1の状況を作り出した。
完璧な崩しだった。
クアンが右足をコンパクトに振り抜く。
誰もがゴールを確信した、その刹那。
「うおおおおッ!」
斜め後方から、信じられない速度で巨躯が飛び込んできた。
神崎剛毅だった。
氏真に重心を外され、逆を突かれたはずの男が、東経大柏の守備原則に従って最短距離でカバーに入ったのだ。
ゴール前に最後の壁を作る。
そのために、神崎は一切の迷いなく身体を投げ出した。
バシィッ!
クアンの放った強烈なシュートは、神崎の伸ばした左足の太ももを直撃し、ゴール左へと跳ね返された。
「なっ……!?」
クアンが頭を抱えて立ち尽くす。
氏真もまた、目を見張っていた。
重心の逆を突き、完璧なタイミングで味方をフリーにしたはずだった。
それでも、神崎は止めに来た。
抜かれた後も諦めず、守備組織の最後の砦としてシュートコースを塞ぎ切ったのだ。
綺麗に崩されても、ネットさえ揺らさせなければ負けではない。
そこにあったのは、個人の執念だけではなかった。
全員が同じ原則を信じ、最後の一歩まで守り抜く組織の力だった。
東経大柏がプレミアEASTの頂点を争い続ける理由が、そのブロックに凝縮されていた。
4.先制の一撃と最後の一歩
攻め手を阻まれた城南に、過酷な現実が襲いかかる。
後半30分を過ぎ、駒場のピッチから午後の光は完全に消え去っていた。
スタンドが落とす巨大な日陰の中、急激に冷気が立ち込め、選手たちの吐く息が白く濃くなっていく。走り続けた城南の選手たちの足は限界に近づいていた。
諸島の右足首は痛みが限界に達し、スプリントのたびに顔が歪んだ。
東経大柏は、その弱点を容赦なく突いてきた。
諸島の周囲へ素早く圧力をかけ、セカンドボールを回収しては城南陣内へ押し込んでいく。
そして迎えた、後半35分。
東経大柏が右サイド深くでコーナーキックを獲得した。
乾が右手を高く掲げる。
「マーク確認! ニア警戒だ!」
諸島が喉を嗄らして叫んだ。
だが、東経大柏のセットプレーは周到に設計されていた。
乾が右足を振り抜く。
ニアサイドへ神崎ともう1人の大型選手が猛然と走り込み、城南のCB林と佐々木を引きつける。
その背後に、わずかな空間が生まれた。
そこへ、ペナルティエリア手前からタイミングをずらして飛び込んできたのは、エースCFの長谷川蓮だった。
ドンッ!
長谷川が完璧なタイミングで頭を振り抜く。
至近距離から叩きつけられたボールは、GK工藤の伸ばした右手の下を鋭く抜け、ゴールネットを激しく揺らした。
後半35分。
0-1。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉッ!!」
浦和駒場スタジアムが、東経大柏の応援団の咆哮で揺れた。
長谷川が胸のエンブレムを叩きながらコーナーフラッグへ疾走し、紅黒のユニフォームが次々と折り重なる。
ピッチに膝をつく林。
諸島は唇を噛み締め、悔しさに顔を歪めた。
80分制の試合において、規定終了まで残された時間はあと5分。
アディショナルタイムを合わせても、最大で約8分しかない。
「前へ出ろ! ラインを上げろ!」
剛監督の怒号が響く。
城南は交代枠を使い切り、最後の切り札としてジャック・ミラーを前線に投入していた。
諸島までもがセカンドボールを拾うために前線へ上がり、全員で同点ゴールをもぎ取る総力戦を仕掛ける。
だが、東経大柏の試合運びは冷徹を極めていた。
リードを奪った彼らは、4-4のブロックをペナルティエリア手前に強固に敷き、城南の縦パスをことごとく跳ね返していく。
ボールを奪えばタッチライン際へ逃がし、巧みに時計の針を進める。
アディショナルタイムは3分。
時計は後半42分を回っていた。
東経大柏のクリアボールに対し、前線へ上がっていた諸島が痛む右足を投げ出して決死のスライディングを仕掛ける。
バシィッ!
諸島の伸ばした爪先が、間一髪でボールを前へ弾いた。
中央へこぼれるボール。
それを迎え撃つ位置にいたのは、背番号9――吉良氏真だった。
ペナルティエリア手前中央、ゴールまで約18m。
城南の、そして氏真の、最後のチャンス。
目前へ、東経大柏のボランチ城戸が突進してくる。
氏真は背筋を伸ばし、胸椎をふわりと緩めた。
極限の集中。
周囲の喧騒がふっと遠のき、世界が静寂に包まれる。
城戸が身体をぶつけに来る、その刹那。
氏真は右足のインサイドでボールの勢いを吸収し、骨盤を右へ開いて身体を半身にいなした。
城戸の突進が空を切り、前方の芝へと崩れる。
前が開いた。
立ちふさがるのは、GK坂崎壮平ただ1人。
坂崎は氏真の右足から放たれるシュートを警戒し、自身の左側――氏真から見て右側のニアコースを消そうと、左足へ半歩重心を傾けた。
(……そこだ)
坂崎の重心が左足に乗る。
その一瞬の硬直を、氏真は見逃さなかった。
ゴール左隅――GK坂崎から見て右側のファーサイドへ。
右足のインサイドで、最小動作のコントロールショットを放つ。
力任せの強振ではない。
トラップの延長線上にある、相手の重心の逆を突く一撃。
ボールは坂崎の伸ばした右手の上をすり抜け、ゴール左隅へと向かっていく。
だが――。
「絶対に……通さんッ!!」
視界の右斜め前方から、神崎剛毅が身を挺して飛び込んできた。
城戸が抜かれた瞬間からカバーへ動いていた神崎は、氏真のシュートコースへ向けて全身を投げ出していたのだ。
ガッ!
澄んだインパクトの直後、乾いた接触音が響く。
神崎が空中で必死に伸ばした右足の爪先が、ボールの下部をかすめた。
ほんのわずかな接触。
それだけで、ボールの軌道が変わった。
ゴール左隅へ向かっていたボールが、わずかに上へと浮き上がる。
坂崎の手を越え――。
カツンッ!
無情な金属音を立ててクロスバーの上面を叩き、ボールは冬空へと高く跳ね上がった。
その瞬間だった。
ピピピピィィィーーーーッ!!
冷たい風が吹き抜ける駒場のピッチに、試合終了を告げる長いホイッスルが響き渡った。
5.冬空のスコアボードと届かなかった場所
0-1。
試合終了の笛が鳴り響いた瞬間、浦和駒場スタジアムのピッチの至る所で、黄色と青のユニフォームが芝の上に崩れ落ちた。
林皓然が両手で顔を覆って倒れ込む。
主将の諸島憲二は、激痛と疲労の限界に達した右足首を抱え、ピッチに額を擦りつけて肩を激しく震わせていた。
「……あああぁぁぁッ……!」
声にならない慟哭が、冷たい風に乗ってスタンドへと消えていく。
3年生たちの高校サッカーが、いま、この瞬間に幕を下ろした。
氏真は、ペナルティエリアの手前で立ち尽くしていた。
右足のスパイクには、ボールを捉えた感触がまだ残っている。
ゆっくりと顔を上げた。
電光掲示板に刻まれた文字と数字。
盛岡城南 0 - 1 東経大柏
その無機質な数字を、氏真はただ呆然と見つめていた。
(……負けた……のか。予たちが……)
胸の奥底から、冷たい氷のようなものがせり上がってくる。
欧州・スペインのバルセロナで、カンテラの頂点を極めてきた。
世界最高峰のメソッド。
磨き抜かれた身体操作。
相手の重心を読み切る知性。
現代に転生し、高校サッカーという舞台に降り立ったとき、心のどこかで「正しく身体を扱い、正しくフットボールを理解していれば、必ず道は拓ける」と信じていたのではなかったか。
だが、現実は違った。
相手の重心は見えていた。
神崎の動きも、城戸の間合いも、GKのポジショニングも、認知できていた。
それでも――最後の一歩で身体を投げ出す相手を、ねじ伏せることができなかった。
東経大柏の選手たちは、悪役でも何でもない。
彼らもまた、過酷な練習に耐え、仲間を信じて身体を張り続け、この冬の頂点を目指してきた本物の王者だった。
全力を尽くした。
仲間たちとともに、持てるすべての知性と魂をピッチに注ぎ込んだ。
それでも、どうしても届かなかった。
人生で初めて味わう、完全なる敗北の味。
足元から力が抜けそうになる氏真の前に、足音を立てて歩み寄ってくる影があった。
激闘の痕を刻んだクリムゾンレッド。
背番号4の主将・神崎剛毅だった。
神崎は右太ももを激しく擦りむきながら、氏真の前に右手を差し出してきた。
「……吉良氏真」
低く、掠れた声だった。
「最後のシュート、完全にやられたと思った。……お前、本物だな。あんな体勢から、あのコースへ打ってくる奴なんてプレミアにもいねえよ」
氏真は息を呑み、差し出された大きな手を見つめた。
「……ですが、防がれました。神崎先輩の身体を張ったブロックに、僕の力は届きませんでした」
神崎は不器用に口元を緩め、首を横に振った。
「紙一重だ。俺たちが80分間死力を尽くして、チーム全員で守り抜いたから、最後の一歩が届いただけだ。……いいチームだったぞ、盛岡城南」
神崎の手が、氏真の手を力強く包み込んだ。
骨と骨がきしむような、熱く重い握手。
「お前たちの分まで、俺たちが青森を倒して全国の頂点を獲る。……胸を張って帰れよ、ストライカー」
「……はい。ありがとうございました」
氏真は深く、頭を下げた。
整列を終え、ピッチを後にする城南の選手たちに向け、メインスタンドから割れんばかりの拍手が降り注いでいた。
声を枯らしてメガホンを叩き続ける100名の控え部員たち。
フェンス際で顔を覆って号泣する久保田誠と、静かに眼鏡を拭う神原教授。
そして、ベンチ前で立ち尽くす諸島を、剛監督が黙ってその広い腕の中に抱き締めていた。
時刻は15時45分を回っていた。
駒場スタジアムの照明塔がカチリと音を立てて橙色の明かりを灯し、ピッチに交錯する長い影を落としている。
スタンドの向こう、西の空は淡い茜色から薄暮へと沈み始めていた。
背番号9のユニフォームの胸元を握りしめながら、氏真はもう一度だけ、冷たい空を見上げた。
世界の頂点にいたはずの自分が、日本の高校サッカーで敗れた。
その現実の重みを、氏真は胸の奥深くに刻みつけていた。
自分の技術が足りなかったから、それだけではない。
相手にもまた、譲れないものがあった。
そして、その譲れないものがぶつかり合う場所では、正しさだけでは勝利をつかめないことがある。
最後の一歩。
あの一歩が届かなかった感触を、氏真は忘れないだろう。
忘れることなど、できるはずもなかった。




