第176話:【連戦】
【あらすじ】
全国選手権の過酷な現実――それは中1日の過密日程による肉体の摩耗だった。蓄積する疲労により、氏真の研ぎ澄まされたファーストタッチに微かな狂いが生じる。立ちふさがる滋賀の技巧派・近江翔風、そして福岡の超速軍団・博多南。身体が万全でない極限状態の中、己の技術を過信せず仲間を信じる「総力戦」で、城南は過酷な連戦を生き残れるのか!?
1.年の瀬の夜と、見えない消耗
12月30日、夜。
ホテルのミーティングルームには、明青国際大学附属盛岡城南高校の選手たちが集まっていた。
壁の大型モニターに映し出されているのは、翌日の2回戦で対戦する滋賀県代表・近江翔風高校の試合映像だ。
12月29日の1回戦。
城南は熊本県代表・肥後実業高校を1-0で下した。
勝利したことに変わりはない。
だが、試合終了の笛が鳴った瞬間、選手たちの顔に浮かんだのは歓喜だけではなかった。全国大会の緊張、慣れないピッチ、相手の激しい当たり。そして、勝ち上がったチームだけに許される、次の試合までの短い休息。
勝利の余韻に浸っていられる時間は、思った以上に短い。
「明日の相手は、今日の肥後実業とはまるで違うタイプだ」
吉良剛監督がリモコンを操作した。
画面の中で、近江翔風の選手たちが滑らかにパスをつないでいく。
「基本布陣は3-4-2-1。ボールを持ったときの距離感がいい。狭い場所でも慌てず、足裏を使って相手の重心を外してくる」
中盤の選手が相手の寄せを受け、足裏でボールを引いた。
次の瞬間、身体の向きを変え、逆側へパスを通す。
『湖国のセクシーフットボール』か
諸島憲二が小さく呟いた。
「ボールを持っている選手だけを追いかけると、簡単に外される。受け手まで含めて見ないといけないな」
「そのとおりだ」
吉良が頷く。
「特に注意するのは、キャプテンの桐生蓮。背番号10。ボールを失わず、相手を引きつけてから味方を使う。前線の草津拓真との連係もいい」
映像が切り替わる。
近江翔風の前線がボールを受け、ワンタッチで落とす。そこへ2列目の選手が走り込む。
「相手の形を崩すために、こちらが無理に飛び込む必要はない。守備の基準をそろえ、奪う場所を決める。そこから速く攻める」
吉良の説明が続く。
その横で、氏真は画面を見つめていた。
相手の視線。
身体の向き。
ボールを受ける直前の重心。
足裏でボールを引くとき、どちらの足に体重が残っているか。
映像を止めれば、いくつもの情報が浮かび上がる。
だが、頭の中で整理できることと、実際のピッチで再現できることは同じではない。
氏真は椅子の背にもたれ、そっと息を吐いた。
1回戦の疲労は、まだ身体に残っている。
脚が動かないわけではない。
走れないわけでもない。
ただ、普段なら自然にできるはずの判断に、ほんのわずかな遅れが生じていた。
そのわずかな差が、全国の舞台では決定的な違いになる。
「氏真」
吉良に呼ばれ、顔を上げる。
「明日は、全部を自分で解決しようとするなよ」
「……はい?」
「お前は相手の動きを読める。だが、読めたからといって、毎回自分で打開する必要はない。味方を使うことも、相手を動かすことも、立派な選択だ」
氏真は一瞬、返事をためらった。
自分がボールを持てば、局面を変えられる。
自分が仕掛ければ、何かが起こる。
そう考えていたわけではない。
けれど、いつの間にか、勝利に必要な仕事を自分が引き受けすぎていたのかもしれない。
「……わかりました」
答えながらも、その言葉を本当に理解できているのか、自分ではまだ判断できなかった。
モニターの中では、近江翔風が再びパスをつないでいる。
年末の全国大会。
勝ち残るために必要なのは、技術だけではない。
その事実を、氏真は翌日のピッチで思い知ることになる。
2.完璧なトラップの、その先
12月31日。
全国高校サッカー選手権大会、2回戦。
城南の相手は、滋賀県代表・近江翔風高校。
3-4-2-1の布陣を敷く近江翔風は、立ち上がりからボールを保持した。
中盤では、桐生蓮が味方の位置を確かめながらパスコースを作る。前線の草津拓真は、城南のセンターバックを背負いながらボールを収め、2列目の選手を前へ押し出していた。
城南も、ただ押し込まれているわけではない。
諸島が中央のパスコースを消し、ボランチが相手の2列目への供給を警戒する。奪ったボールは、氏真やクアンを経由して前線へ運ぶ。
しかし、近江翔風のパスワークは予想以上に厄介だった。
1人に寄せれば、その背後に別の選手が顔を出す。
パスコースを切れば、足裏でボールを引き戻して角度を変える。
奪いに行った瞬間には、すでに次の選択肢が用意されている。
前半17分。
城南の中盤で、わずかな連係のずれが生まれた。
近江翔風はその隙を逃さなかった。
桐生が中央でボールを受け、城南の守備者を引きつける。次の瞬間、足裏でボールを引きながら身体の向きを変え、空いたコースへパスを通した。
草津がボールを受ける。
城南のセンターバックが寄せるよりも早く、草津はゴール前へ折り返した。
走り込んだ選手が合わせる。
ゴールネットが揺れた。
城南、0-1。
先制点を奪われた。
「切り替えろ!」
諸島の声が飛ぶ。
氏真はセンターサークルへ戻りながら、失点の場面を頭の中で再生していた。
桐生がボールを受ける前、城南の守備者は1人、ボールの動きに意識を向けすぎていた。草津の動き出しに対する警戒も、一瞬遅れていた。
原因は見えている。
次に同じ形を作らせなければいい。
氏真はそう考え、前を向いた。
だが、近江翔風は守備でも粘り強かった。
ボールを奪われても、すぐに中盤の選手が戻って陣形を整える。城南が縦に速く攻めようとすれば、中央のスペースを埋めてくる。
氏真が前線でボールを受けても、背後にはセンターバック、前方には中盤の選手が待ち構えていた。
それでも、チャンスは訪れた。
前半34分。
諸島からの縦パスが、相手の中盤を越えて氏真へ届く。
氏真はボールの軌道を読み、最初のタッチで前を向こうとした。
いつもなら、ボールを足元に収めながら相手の重心を外し、次の動作へ移れる。
だが、その日のタッチは、ほんのわずかに大きかった。
疲労で感覚が鈍っていたのか。
相手の寄せが想定より早かったのか。
おそらく、その両方だ。
ボールが足元から離れた瞬間、近江翔風の選手が身体を入れてくる。
氏真は反射的に追いかけたが、相手の足が先に届いた。
チャンスは消えた。
「くそ……」
思わず声が漏れる。
完璧なトラップさえできていれば。
もう少し身体の向きを工夫していれば。
相手の寄せを、あと一歩早く察知できていれば。
考え始めると、いくらでも修正点が見つかる。
しかし、すべてを1人で修正しようとすれば、判断はさらに複雑になる。
ハーフタイム。
ベンチへ戻った氏真に、吉良が声をかけた。
「今の場面、どう思った?」
「ファーストタッチが大きくなりました。相手の寄せを考えれば、もっと身体を開いて受けるべきでした」
「それは間違っていない」
吉良は頷いた。
「だが、お前の答えはそこまでか?」
氏真は顔を上げた。
「……どういう意味ですか?」
「完璧なトラップができなかった。それで終わりか、ということだ」
吉良は戦術ボードを指した。
「相手が寄せてくるなら、味方を使えばいい。自分が前を向けないなら、落としてもう一度動けばいい。ボールを収めることだけが正解じゃない」
氏真は、ボードに描かれた選手の配置を見た。
自分が前を向く。
自分が相手をかわす。
自分がチャンスを作る。
そればかりを考えていたのではないか。
「シュートの基本は、トラップからゴールへのパスだ」
吉良は静かに言った。
「だが、トラップはゴールへ向かうための手段だ。完璧なトラップそのものが目的になったら、順番が逆になる」
氏真は唇を結んだ。
自分がこだわっていたのは、正しいプレーだったのか。
それとも、正しくプレーできる自分でいることだったのか。
答えは、まだ出ない。
「後半は、周りを使え。味方がいる意味を忘れるな」
吉良が選手たちを見渡す。
「1人で試合を背負うな。全員で勝ちにいくぞ」
選手たちが頷いた。
氏真もまた、ゆっくりと立ち上がった。
3.1人で勝つのではなく、全員で勝つ
後半。
城南は、攻撃の組み立てを少し変えた。
氏真が無理に前を向こうとするのではなく、いったん味方へ預け、相手の守備を動かしてから次のスペースへ入る。
クアンが幅を取り、諸島が中央でパスをつなぐ。
中盤の選手がボールを受ける位置を変え、近江翔風の守備者を少しずつ動かしていく。
氏真自身も、ボールを受ける前に周囲を確認した。
相手の視線。
身体の向き。
自分に寄せてくる選手と、その背後にいる選手。
見えている情報は変わらない。
変わったのは、それをどう使うかだった。
後半14分。
城南が右サイドでボールを動かす。
クアンが相手の寄せを受けながら、中央へパスを送った。
氏真が走り込む。
背後から近江翔風の選手が迫っていた。
前を向いてボールを止めれば、すぐに囲まれる。
かといって、後ろへ戻すだけでは相手の守備を崩せない。
氏真は、ボールを受ける直前に足の向きをわずかに変えた。
左足の外側で、ボールの勢いを殺しすぎず、斜め前へ流す。
止めるためのトラップではない。
次の味方へつなぐためのタッチだった。
ボールは氏真の身体の横を抜け、相手の守備者が踏み込んだ足の外側へ転がる。
相手が反応するより早く、氏真は身体を開いた。
そのまま前へ運ぶのではなく、走り込んだクアンへパスを送る。
クアンは迷わず右サイドを突破した。
ゴール前へ低いクロス。
そこへ飛び込んだ不来方が、身体を投げ出すようにして合わせた。
ボールがゴールへ吸い込まれる。
1-1。
城南が追いついた。
歓声がスタンドを揺らす。
不来方が両腕を広げ、クアンが駆け寄る。氏真も遅れて2人に合流した。
「ナイスパス!」
クアンが笑った。
「いや、決めたのは不来方だ」
「だったら、次も頼むぞ!」
不来方が拳を握る。
氏真は笑みを返した。
自分が突破して、自分で決めたゴールではない。
それでも、この1点は確かに自分のプレーから生まれた。
ボールを完璧に止めなくてもいい。
自分で相手を抜き切らなくてもいい。
味方が決めるための道筋を作れれば、それでいい。
そのことが、少しだけ腑に落ちた。
近江翔風も、ここで崩れなかった。
桐生を中心にボールを保持し、城南の守備を揺さぶる。草津が前線でボールを収め、何度もゴール前へ迫った。
試合は一進一退となった。
時計が進む。
後半38分。
近江翔風が自陣から攻撃を組み立てようとした。
城南は前線から連動してプレスをかける。
1人がボール保持者へ寄せ、もう1人が中央へのパスコースを消す。さらに背後の選手が、相手の逃げ道を塞いだ。
ボールを持った選手は、苦し紛れにバックパスを選択した。
しかし、パスは味方の足元からわずかにずれた。
その瞬間、氏真が反応した。
ボールへ走り込む。
近江翔風の最終ラインが慌てて戻る。
氏真は相手の位置を確認し、ゴールキーパーが前へ出る気配を感じ取った。
ここで無理にボールを止める必要はない。
氏真は次のタッチでボールを前へ運び、ゴールキーパーの動きを見ながらシュートコースを選んだ。
低いシュートが、ゴールキーパーの手の届かない位置を抜ける。
ネットが揺れた。
城南、2-1。
逆転。
ベンチから選手たちが飛び出し、歓声が沸き上がる。
氏真は仲間たちに囲まれた。
誰か1人の個人技で奪ったゴールではない。
前線のプレスがあり、パスコースを切る動きがあり、相手のミスを誘う連動があった。
その積み重ねの先に、最後のシュートがあった。
残り時間、城南は無理に攻め急がず、互いの距離を保って守り切った。
試合終了。
明青国際大学附属盛岡城南高校、2-1で近江翔風高校に勝利。
2回戦突破。
握手を交わす近江翔風の選手たちの表情には悔しさがあった。桐生は氏真の前で足を止め、まっすぐに目を見た。
「最後のプレス、見事だった。あれは1人じゃできない」
「近江翔風のパスワークも、最後まで厄介でした」
氏真が答えると、桐生は小さく笑った。
「次も勝てよ。俺たちの分まで、なんて綺麗事は言わない。ただ、ここで終わるなよ」
「はい」
氏真は深く頭を下げた。
近江翔風の選手たちがピッチを去っていく。
勝者の歓喜の向こう側には、敗者の悔しさがある。
それでも、彼らが積み重ねてきたものまで消えるわけではない。
氏真はその背中を見送りながら、胸の奥に残った感覚を確かめていた。
勝つために必要なのは、いつも自分が正解を選ぶことではない。
仲間が正解を選べるように、道をつくることもまた、自分の仕事なのだ。
4.元日の映像に映るもの
1月1日。
ホテルの一室に設けられたミーティングスペースでは、3回戦の対戦相手、福岡県代表・博多南高校の映像が流れていた。
画面の中の博多南は、4-1-4-1の布陣を敷いている。
特徴は、前線からの強いプレスと、ボールを奪ってからの速いサイド攻撃だった。
「奪われた瞬間に、まず近くの選手が寄せる。そこで奪い返せなければ、中央を切りながらサイドへ追い込む」
吉良が画面を止めた。
「前からの圧力に慌ててボールを失うと、一気にカウンターを食らう。特に右ウイングの早乙女嶺。50mを5秒9で走るスピードがある」
画面が切り替わる。
早乙女が相手のパスを奪い、右サイドを駆け上がる。追いすがる守備者を振り切り、ゴール前へクロスを送った。
「中盤の黒木鉄心も要注意だ。ボールを奪う位置がいい。相手が前を向く前に身体を寄せて、パスコースを消してくる」
諸島が腕を組んだ。
「つまり、こちらが中央から組み立てようとすると、黒木に狙われるわけか」
「そうだ。だから、奪われても慌てない準備が必要だ」
吉良は選手たちを見回した。
「相手のプレスを一度で剥がそうとするな。近くの味方を使い、相手を動かし、空いた場所へボールを運ぶ。無理に縦へ急ぐ必要はない」
氏真は映像を見つめていた。
博多南の選手たちは、ただ速く走っているわけではない。
ボールを奪う前から、奪った後の動きが準備されている。早乙女が走り出すときには、中央の選手が相手の守備者を引きつけ、前線の選手がゴール前へ入る道を作っていた。
スピードだけではない。
走るタイミングと、走るために必要なスペースをつくる判断がある。
「……速さを消すんじゃなくて、走り出す前の選択肢を減らす」
氏真が呟く。
「そういうことだ」
吉良が答えた。
「相手が走り始めてから追いかけても遅い。どこへ走るつもりなのか、その前に考えろ」
ミーティングが終わると、選手たちはそれぞれの調整へ向かった。
スタッフは映像を整理し、コンディションの記録を確認する。選手たちの疲労を見ながら、練習の強度も調整されていく。
全国大会は、試合だけで進むわけではない。
試合と試合の間に何をするか。
誰が選手を支え、誰が次の相手を分析し、誰がチームの状態を整えるか。
そうした目に見えにくい仕事も、ピッチでの80分につながっている。
氏真は窓の外を見た。
元日の街は静かだった。
けれど、城南の戦いはまだ終わっていない。
5.不完全なまま、最善を選ぶ
その夜。
氏真はロビーの片隅で、冷めかけたコーヒーを前に座っていた。
2回戦の逆転勝利を喜ぶ気持ちはある。
だが、それと同じくらい、3回戦への不安もあった。
連戦の疲労は確実に蓄積している。相手の特徴を理解しても、試合中にすべての状況へ対応できるとは限らない。
自分のトラップが乱れることもある。
パスの判断が遅れることもある。
読みが外れることだってある。
それでも勝たなければ、次へ進めない。
「眠れないのか?」
声をかけてきたのは、吉良だった。
「少し考え事をしていました」
「明日の試合か」
「はい。相手のプレスは厄介です。僕が前を向けない場面も増えると思います」
吉良剛は向かいの椅子に腰を下ろした。
「それで?」
「……自分がどう動けばいいのか、まだ整理しきれていません」
正直な言葉だった。
映像を見れば、相手の特徴はわかる。
選手の動きも、狙いも、ある程度は読める。
だが、実際の試合では、相手も考え、対応してくる。
自分の想定どおりにいかない場面は必ずある。
「氏真。お前は、試合中に間違えない選手になりたいのか?」
監督の問いに、氏真はすぐには答えられなかった。
「……間違えないに越したことはありません」
「そりゃそうだ」
剛は苦笑した。
「だが、80分間、一度も判断を誤らない選手なんていない。どれだけ優れた選手でも、相手の対応で選択を変えなきゃならない。疲れれば、いつもできることができなくなる」
氏真は黙って聞いていた。
「大事なのは、完璧な状況を待つことじゃない。不完全な状況で、何が最善かを選ぶことだ」
「不完全なまま……最善を選ぶ」
「そうだ。自分の状態が万全じゃないなら、味方に預ければいい。相手に読まれたなら、次の選択肢を使えばいい。予定どおりにいかないことを、失敗だと決めつけるな」
剛はコーヒーを一口飲んだ。
「サッカーは、1人で完成させる競技じゃない」
氏真はカップに目を落とした。
前世で、彼は今川家の当主だった。
自分の判断ひとつで、家臣たちの運命が変わる。誰かに任せることは、時に責任を放棄することと同じに思えた。
だからこそ、自分が決めなければならない。
自分が責任を負わなければならない。
その感覚が、今の自分にも残っているのだろうか。
だが、サッカーのピッチでは、味方に預けたボールが、自分の想像を超える形で戻ってくることがある。
自分より優れた判断をする仲間もいる。
自分には見えていない場所を見ている仲間もいる。
その力を信じることは、責任を手放すことではない。
チーム全体で、責任を引き受けることなのかもしれない。
「……明日は、もっと周りを見ます」
氏真が言った。
「周りは見えているだろう」
剛は首を振る。
「見えていることと、任せることは違う。お前が全部をやらなくても、仲間は動ける。そこを信じろ」
氏真は、ようやく小さく笑った。
「難しいですね」
「簡単だったら、監督なんていらん」
剛も笑った。
ロビーの窓の向こうでは、年が明けた街の灯りが静かに瞬いていた。
明日も、思いどおりにいかない場面はあるだろう。
それでも、そのたびに自分1人で答えを出す必要はない。
氏真は冷めたコーヒーを飲み干し、席を立った。
6.3回戦、速さの向こう側
1月2日。
全国高校サッカー選手権大会、3回戦。
明青国際大学附属盛岡城南高校は、福岡県代表・博多南高校と対戦した。
キックオフ直後から、博多南は前線のプレスを強めた。
ボールを持つ城南の選手へ、2人、3人と距離を詰める。パスコースを切り、苦しい体勢で出されたボールを狙う。
城南が中央で組み立てようとすると、黒木鉄心が素早く寄せてくる。
氏真がボールを受けても、前を向く時間はほとんどなかった。
「後ろ!」
諸島の声。
氏真は無理に反転せず、ワンタッチでボールを戻した。
そのまま相手の背後へ走り出す。
ボールは別の選手を経由して、サイドへ運ばれた。
相手のプレスを一度で突破するのではなく、複数のパスで動かす。
そうして生まれたスペースへ、城南の選手たちが走り込む。
だが、博多南の攻撃も鋭かった。
前半11分。
城南のパスが中盤で引っかかった。
黒木がボールを奪い、すぐに前を向く。
早乙女が右サイドを駆け上がった。
追いすがる城南の選手を振り切り、ゴール前へクロスを送る。
中央で待っていた城島剛は、185cmの身体を生かして高く跳んだ。
ヘディングシュート。
ボールがゴールに突き刺さった。
城南、0-1。
博多南が先制した。
早乙女のスピードと城島の高さ。
事前に分析していた武器を、博多南は迷いなく得点へ結びつけた。
城南は反撃を試みたが、相手のプレスは簡単には緩まない。
氏真がボールを受ければ、黒木が寄せる。
クアンがサイドで前を向けば、早乙女が戻って2人で囲む。
中央へのパスを通そうとすれば、博多南の中盤がコースを塞ぐ。
前半を終え、城南は1点を追う展開となった。
ハーフタイム。
吉良監督は選手たちを見回した。
「相手の速さに付き合うな。速い選手に速く走らせないことも、守備だ。攻撃では、相手が寄せてきたところを利用しろ」
氏真は、先ほどの失点を思い返した。
早乙女が走り出したとき、城南の守備陣はボールの奪い返しに意識を向けていた。早乙女が走るためのスペースを、すでに相手に与えていたのだ。
相手の速さを消すには、走り始めてから追いかけるのでは遅い。
その前に、選択肢を減らす必要がある。
「後半、取り返すぞ」
諸島が声を上げた。
選手たちが立ち上がる。
後半も、博多南は積極的にプレスをかけてきた。
だが、城南は慌てなくなっていた。
氏真がボールを受け、黒木が寄せる。
氏真は相手の動きを見て、前を向くのではなく、左足の外側でボールを斜め前へ流した。
黒木の足が伸びる。
その一瞬、氏真は身体を開いてパスコースを作った。
ボールは、右側から走り込んできたジャック・ミラーへ渡る。
背番号16。
ジャックは迷わず前を向き、ゴールへ向かって運んだ。
博多南の守備者が寄せる。
ジャックは一度だけボールを置き直し、右足を振り抜いた。
シュート。
ゴールネットが揺れた。
1-1。
同点。
ジャックが拳を握り、仲間たちのもとへ走る。
氏真は、その後ろから追いついた。
「いいパスだった!」
ジャックが笑う。
「君が走ってくれたからだよ」
氏真はそう返した。
自分が前を向けなくてもいい。
自分が最後のシュートを打たなくてもいい。
相手の寄せを利用し、味方が前を向ける状況をつくればいい。
その選択が、確かな形になっていた。
博多南も反撃に出る。
早乙女が右サイドを突破し、城島へクロスを送る。城島のヘディングはゴールの上へ外れたものの、城南の守備陣は最後まで気を抜けなかった。
後半39分。
博多南のコーナーキック。
ゴール前に選手が集まり、ボールが蹴り込まれた。
工藤一が前へ出る。
相手選手の頭上を越えたボールに、工藤が両手を伸ばした。
パンッ、と乾いた音が響く。
工藤がパンチングでボールを弾き出した。
こぼれ球を不来方が拾う。
相手の選手が寄せてくるが、不来方は身体を入れてボールをキープした。
無理に前へ運ばず、味方が上がる時間をつくる。
諸島が受けに来た。
不来方から諸島へ。
諸島は顔を上げ、前方を確認する。
氏真が動き出した。
相手のセンターバックが氏真を警戒して中央へ寄る。
その瞬間、諸島は空いたコースへパスを通した。
氏真の足元へボールが届く。
相手の守備者が身体を寄せてくる。
氏真はボールを止めるのではなく、ファーストタッチで前方へ流した。
相手の足が伸びたところを、ボールがすり抜ける。
氏真は身体の向きを変え、そのままシュートへ移った。
低い弾道のボールが、ゴールキーパーの横を抜ける。
ゴール。
城南、2-1。
逆転。
残り時間、博多南は最後まで攻め続けた。
早乙女がサイドを駆け上がり、黒木がセカンドボールを拾い、城島がゴール前で競り合う。
しかし、城南も最後まで集中を切らさなかった。
全員が戻り、互いのカバーを続け、相手に決定的なシュートを許さない。
そして、試合終了の笛が鳴った。
明青国際大学附属盛岡城南高校、2-1で博多南高校に勝利。
3回戦突破。
盛岡城南、創部初の全国ベスト8進出。
氏真は、息を整えながらピッチを見渡した。
勝利はうれしい。
だが、疲労は隠せなかった。
走り続けた脚は重く、判断にも負荷がかかっている。次の試合まで、十分な時間があるわけではない。
それでも、誰か1人がすべてを背負ったわけではなかった。
工藤のパンチング。
不来方のキープ。
諸島のパス。
そして、最後にゴールを決めた自分。
1つひとつのプレーがつながり、勝利になった。
氏真は仲間たちと握手を交わし、博多南の選手たちにも頭を下げた。
早乙女は悔しそうに唇を噛んでいた。
その表情を見て、氏真は思った。
彼らもまた、勝つために準備をしてきた。
走力も、連係も、戦術も、決して劣っていたわけではない。
ただ、最後の一瞬に、城南がわずかに上回った。
その差が、勝敗を分けたのだ。
7.次なる戦いまで、あと1日
1月3日。
城南は、次の試合へ向けた調整を行っていた。
3回戦を終えた選手たちに必要なのは、激しい練習ではない。
身体の状態を確認し、疲労を抜き、次の試合に備えること。
スタッフは選手たちの様子を確認しながら、練習の負荷を調整した。映像分析の担当者は、準々決勝の相手に関する情報を整理している。
翌1月4日。
城南は、全国大会の準々決勝に臨む。
対戦相手は、千葉県代表・私立東邦経済大学付属柏高校。
通称、東経大柏。
あるいは、東経柏。
選手権優勝2回、インターハイ優勝2回。
高円宮杯 JFA U-18プレミアリーグEASTでも、常に上位を争う強豪だ。
今季のプレミアリーグEASTでは、明青国際大学附属青森高校と優勝争いを繰り広げている。
明青青森が勝ち点47。
東経大柏が勝ち点46。
両者の差は、わずか1点。
シーズン前半の対戦では、東経大柏がホームで1-0の勝利を収めた。だが、後半戦のアウェーゲームでは、明青青森が2-1で雪辱を果たしている。
冷徹な規律と絶対防壁を武器とする明青青森。
それに対し、東経大柏が掲げるのは、獰猛なハイプレスと、全員が走り続けるフットボールだった。
映像の中に、深紅と黒の縦縞が現れた。
黒いパンツに深紅のソックス。
そのユニフォームは、まるで獲物を狙う虎を思わせる。
「紅黒の猛虎、か……」
氏真は呟いた。
東経大柏の基本布陣は、4-4-2。
前線から猛烈な圧力をかけ、ボールを失えば2人、3人と囲い込む。最終ラインは高く保たれ、チーム全体の縦の距離を短くする。
相手に自由を与えない。
ボールを奪えば、迷わず前へ。
セカンドボールには全員が反応する。
ゴール前では、身体を投げ出してでもシュートを止める。
華麗なパスワークよりも、相手の自由を奪うための走力と連係。
そして、セットプレー。
1つのチャンスを確実に得点へつなげ、先制した後は徹底して試合を管理する。
1-0で勝つ。
それが、東経大柏の勝ち方だった。
画面には、主力選手の映像が映し出された。
センターバック、背番号4。
神崎剛毅。
3年生、184cm、80kg。
「東経の不沈艦」と呼ばれる、高校屈指のストッパーだ。
1対1に強く、空中戦にも優れる。相手の動きを読み、シュートコースへ最後の一歩を踏み出す判断に長けている。
氏真が仕掛けたドリブルに、神崎が対応する。
重心を外しても、簡単には倒れない。
身体の向きを変えても、最後までシュートコースを消してくる。
氏真は画面を見つめた。
自分の技術が通用しないわけではない。
だが、相手もまた、こちらの技術を理解したうえで、最後の一瞬まで対応してくる。
中盤の背番号6、城戸圭介。
3年生、178cm、73kg。
「中盤のハウンドドッグ」。
運動量が豊富で、セカンドボールへの反応が速い。特に、相手の攻撃の起点となる選手を追い続け、パスの出どころを消す守備を得意としていた。
諸島がボールを受ける場面で、城戸が身体を寄せる。
パスコースを塞ぎ、前を向かせず、味方が戻る時間をつくる。
諸島が自由にボールを配れなければ、城南の攻撃は組み立てにくくなる。
前線には、背番号9、長谷川蓮。
3年生、183cm、77kg。
「泥臭き重戦車」。
相手のセンターバックに身体をぶつけ、ロングボールを収める。守備では最前線から追い続け、セットプレーではゴール前の標的となる。
左サイドには、背番号11、乾瞬介。
2年生、171cm、65kg。
50mを5秒8で走る俊足のウイングだ。
攻撃では鋭いカウンターを仕掛け、守備では自陣まで戻って相手を2人で囲い込む。速さだけでなく、攻守の切り替えを怠らない選手だった。
ゴールマウスを守るのは、背番号1、坂崎壮平。
3年生、187cm、81kg。
ハイボールへの対応に優れ、至近距離のシュートにも強い。高い最終ラインの背後をカバーする役割も担っている。
映像が終わると、吉良監督は選手たちを見渡した。
「東経大柏は、個々の能力が高いだけのチームじゃない。全員が同じ目的を持って走る。だから、誰か1人をかわしただけでは終わらない」
氏真は、神崎の映像を思い返していた。
相手の重心を見て、身体の向きを変え、わずかな間をつくる。
それでも神崎は、最後の瞬間にシュートコースへ身体を投げ出してくる。
こちらの動きを理解している。
それでも、止めに来る。
「綺麗なフットボールなど何の価値もない。80分間泥を啜り、仲間を信じて身体を投げ出し、1-0で勝つチームが最後に笑う」
東経大柏の榎木雅人監督が、試合後のインタビューで語った言葉が紹介された。
「青森を倒して日本一になるのは、俺たち東経柏だ」
その言葉に、選手たちの表情が引き締まる。
東経大柏は、明青青森を倒すために戦っている。
そして、城南の前に立ちはだかる。
「明日は中1日で迎える4試合目だ。疲労はある。相手の選手層も厚い。だが、それを言い訳にはできない」
吉良が言った。
「ここまで勝ち上がってきたのは、俺たちだけじゃない。東経大柏も、同じように勝ち上がってきた。相手を侮るな。自分たちを過信するな。準備できることを、最後までやり切れ」
選手たちが頷いた。
ミーティングが終わり、氏真は1人、廊下へ出た。
窓の外には、冬の空が広がっていた。
1回戦は、1-0。
2回戦は、2-1。
3回戦も、2-1。
城南は、確かに勝ち上がってきた。
だが、試合を重ねるごとに、相手の強さだけでなく、自分たちの限界も見えてきている。
完璧なトラップができない日もある。
判断が遅れる瞬間もある。
自分1人では、どうにもならない局面もある。
それでも、仲間がいる。
自分が前を向けなければ、誰かがボールを受けてくれる。
自分が相手を引きつければ、誰かが空いた場所へ走ってくれる。
自分が失敗しても、次の選手がカバーしてくれる。
それは、弱さを補い合うだけの関係ではない。
互いの力を信じ、預け合うことで、1人では届かない場所へ進むための関係だ。
氏真は、ゆっくりと拳を握った。
次の相手は、全国屈指の強豪。
その守備の中心には、神崎剛毅がいる。
こちらの技術を理解し、動きを読んだうえで、それでも最後の一瞬まで止めに来る男。
氏真は、まだ知らない。
自分がどれほど正確に相手の重心を読み、どれほど無駄のない動きを選んだとしても、最後の一歩を踏み出す相手の覚悟までは、簡単に超えられないことを。
1月4日。全国ベスト4――聖地・国立競技場への切符を懸けた戦い。
紅黒の猛虎が、城南の前に立ちはだかる。
次なる戦いまで、あと1日。




