第170話:【奪還の糸と敗者の誇り】
【あらすじ】
負ければ即引退の全国高校サッカー選手権岩手県予選が開幕! 立ちはだかる県内強豪たちの徹底的な「氏真包囲網」に対し、城南の主将・諸島憲二の真価が解き放たれる。ピッチを結ぶ見えない糸と、泥にまみれ青春のすべてを懸けてぶつかり合うライバルたちの誇り。互いの覚悟が交錯する激闘の果てに、城南は因縁の決勝へ駒を進められるのか――!?
1.冬の号砲と包囲網の罠
10月第3週。
盛岡の街を取り囲む山々は燃えるような紅葉に染まり、朝夕の冷気が吐く息を白く曇らせ始めていた。
全国高校サッカー選手権大会・岩手県大会。
高校サッカーに身を投じる選手たちにとって、この秋のトーナメントは特別な意味を持つ。夏の大会を終えてもなお、冬の全国大会を目指して走り続けた者たち。その多くにとって、負ければ高校サッカーが終わる、文字通りの一発勝負だった。
盛岡城南高校はシード校として、3回戦からの登場となった。
「シードだからと構えるな。初戦の入りこそ、もっとも足が重くなる」
試合前のロッカールームで、主将の諸島憲二が背番号6のユニフォームの裾を整えながら言った。
吉良氏真は静かに頷き、黒いスパイクの紐を結び直す。
ちょうど1年前の秋。帰国したばかりの氏真は、この熱気の外側にいた。スタンドの片隅から、ピッチで泥にまみれる選手たちの背中を見つめているだけだった。
それが今、背番号29を背負い、先発選手としてピッチへ向かおうとしている。
「行くぞ」
諸島の一声で、全員が立ち上がった。
3回戦の相手は、一関高校だった。
キックオフから数分。氏真は、相手の守備陣が自分に向ける視線の偏りに気づいていた。
センターバック2人が前後から挟み込み、中盤のボランチがパスコースを消す。氏真が右へ引けば2人が寄り、左へ流れれば、さらに中盤の選手が連動してスライドしてくる。
徹底した「氏真包囲網」。
プリンスリーグで首位争いを演じる城南のストライカーを封じるため、相手は守備の重心を氏真に傾けていた。
「吉良に前を向かせるな!」
「触らせる前に潰せ!」
相手ベンチから切迫した指示が飛ぶ。
だが、囲まれた氏真の呼吸は乱れなかった。
(……良い配置だ。相手の意識が、これほどまで予の一点へ吸い寄せられておる)
氏真は無理にボールを受けようとしなかった。
中央レーンで半歩下がり、相手CBの視野の端へと斜めに移動する。時には足を止め、相手の守備者が自分を見失わない程度の距離を保った。
氏真が動くたび、守備者の視線が追いかける。
そのわずかな移動が、中盤の選手たちの立ち位置を変えていく。
相手は氏真を封じているつもりだった。
しかし、氏真を警戒するほど、ボールを持つ城南の選手への寄せが遅れていく。
前半14分。
一関のボランチが中盤でパスを受け、前を向こうとした。
その瞬間、諸島が踏み込んだ。
相手のトラップがわずかに足元から離れたところへ、身体を寄せる。相手がボールを守ろうと腰を入れるより早く、諸島は右足を差し込み、身体ごと前へ割り込んだ。
ボールが城南のものになる。
氏真は、奪取を確認してから走り出したのではなかった。
諸島の腰が沈み、軸足が芝を捉えた時点で、すでに次の展開を予測していた。
相手CBの視線がボールへ向く。
その一瞬を突き、氏真は最終ラインの背後へと走り込んだ。
「裏だ! 戻れ!」
相手DFが声を上げたときには、氏真はすでに守備者の視野から外れていた。
諸島は顔を上げ、ボールを奪った勢いを殺さずに右足のアウトサイドで縦パスを送り出す。
芝を滑るボールが、氏真の走路へ吸い込まれていった。
2人が同じ瞬間に、同じ展開を選んでいた。
「なっ……いつの間に裏へ!?」
相手DFが振り返る。
だが、氏真はもうゴールへ向かっていた。
右足の甲でボールを前へ運び、飛び出してきたGKの位置を見極める。最後まで力みのない動作で、左足からゴール隅へと流し込んだ。
前半15分。城南、先制。
諸島は派手なガッツポーズを見せることもなく、自陣へ戻り始めていた。氏真とすれ違う際、顎をわずかに引く。
氏真もまた、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
氏真を封じるために人数を割けば、別の場所が空く。諸島が奪えば、氏真が走る。その動きに相手が対応しようとすれば、今度は別の味方が自由になる。
一関の包囲網は、守備者たち自身の動きによって、少しずつ形を失っていった。
その後も城南は主導権を握り、氏真はこの試合でハットトリックを達成。
盛岡城南高校は6-0で一関高校を下し、準々決勝へと駒を進めた。
2.準々決勝と戦術の定着
準々決勝の相手は、北上高校だった。
一関高校の敗戦を教訓にしたのか、北上は自陣深くにブロックを敷き、守備陣形を崩さないことを徹底してきた。
氏真へのマークも厳しい。
前方からボールの供給を遮り、横から進路を制限し、背後にはカバー役を置く。氏真を自由にするくらいなら、攻撃の機会を多少犠牲にしても構わないという構えだった。
だが、中央に人数を集めれば、サイドの守備は薄くなる。
前半24分。
北上が縦パスを入れた瞬間、諸島が相手の狙いを読んでインターセプトした。
氏真は中央で3人の視線を引きつけたまま、斜めに走って相手CBの判断を迷わせる。
追いかければ中央に穴が開く。氏真を放せば、今度は前を向かれる。
一瞬の逡巡が生まれた。
諸島はその間に、左サイドのグエン・ミン・クアンへ大きく展開した。
クアンが縦へ運び、相手SBを引きつけてから鋭いクロスを送り込む。
逆サイドから走り込んだインサイドハーフのジャック・ミラーが、勢いを乗せて右足を振り抜いた。
ボールがネットを揺らす。
1-0。
先制点を決めたのはジャックだった。
氏真はゴール前へ飛び込んだわけではない。相手の注意を中央へ引きつけたことで、クアンとジャックが勝負できる状況を生み出していた。
相手がサイドへの警戒を強めれば、中央に余地が生まれる。
後半11分。
諸島からのクサビのパスを受けた氏真は、背後から迫るDFの圧力を感じながら、身体の向きをわずかに変えた。
正面から力を受け止めない。骨盤の向きを調整し、相手の寄せる勢いを逃がしながらボールを足元に残す。
ペナルティエリア手前で、ほんの一瞬、時間が生まれた。
その間に走り込んできた猿沢佳樹へ、氏真は短くボールを落とす。
猿沢は迷わず右足を振り抜いた。
ミドルシュートがゴールへ突き刺さる。
2-0。
北上は最後まで中央を固めようとしたが、城南の選択肢を完全に消すことはできなかった。
後半36分。
中盤のルーズボールを諸島が制したとき、氏真は相手CBの背後へと走り出していた。
今度は、諸島が奪う瞬間に合わせただけではない。
北上の守備陣が、こぼれ球を回収しようと前へ重心を移したこと。その背後にいたCBが、味方のカバーに意識を向けたこと。
それらを見て、氏真は走る場所を選んでいた。
諸島のパスが足元へ届く。
飛び出してきたGKに対し、氏真は大きくフェイントを入れなかった。シュートを警戒して重心を落としたGKの横を、最小限のタッチで抜ける。
無人のゴールへ、静かに流し込んだ。
3-0。
相手の守備に応じて攻撃の選択肢を変え、必要な場所へボールを運ぶ。
城南は準々決勝も危なげなく突破し、いわぎんスタジアムで行われる準決勝へと駒を進めた。
3.盛岡桜中央の抵抗
10月下旬。
準決勝の舞台は、いわぎんスタジアムのメインピッチだった。
城南を待ち受けていたのは、県内屈指の伝統を誇る古豪、盛岡桜中央高校。
スタンドにはエンジ色のタオルマフラーを掲げた生徒たちが陣取り、地鳴りのような手拍子を響かせていた。
「気を引き締めろよ」
コイントスを終えた諸島が、チームメイトに告げた。
「桜中央は3年生主体のチームだ。夏で引退せず、この選手権のために全員が残った。あいつらにとっちゃ、これが高校サッカーの集大成だぞ」
「はい!」
氏真も相手イレブンの眼差しを見て、背筋を正した。
桜中央の選手たちには、研ぎ澄まされた覚悟が宿っていた。
派手な個人技や圧倒的なフィジカルがあるわけではない。だが、味方のために走り、球際で身体を張り、奪われたボールを最後まで追いかける。
その積み重ねが、チーム全体の強度を生み出していた。
11時00分、キックオフ。
桜中央は4-4-2の守備ブロックを維持しながら、城南のビルドアップに対して前線から圧力をかけてきた。
特に目を引いたのは、主将で背番号10のボランチ、柴田修司だった。
柴田は諸島に簡単に前を向かせない。パスコースを消しながら距離を詰め、ボールが入れば激しく身体を寄せる。
「自由にやらせるかッ! 俺たちの3年間を、ここで終わらせてたまるかよ!」
柴田の怒号がピッチに響いた。
その声に、桜中央の選手たちが反応する。
城南がボールを保持していても、自由に前進できるわけではなかった。パスを出せば次の選手が寄せ、かわしても別の選手がコースを塞ぐ。
前半23分。
城南は、その連動した守備に隙を突かれた。
自陣深くでセカンドボールを拾った柴田が、諸島のチャージを受け止めながら右サイドへ展開する。
ボールを受けた味方が、間を置かずにクロスを上げた。
ニアサイドへ飛び込んだ相手FWが、頭で合わせる。
GK工藤一が伸ばした指先をかすめたボールは、そのままサイドネットへ吸い込まれた。
0-1。
先制したのは、盛岡桜中央だった。
「うおおおおぉぉぉッ!」
エンジ色のスタンドが爆発的な歓声に包まれる。控え部員たちが抱き合い、ピッチ上の選手たちが拳を突き上げた。
「慌てるな! 距離感を保て!」
諸島の声が響く。
城南の選手たちは、すぐに次のプレーへ意識を切り替えた。
氏真もセンターサークルへ戻りながら、桜中央の陣形を見つめていた。
(……見事な連動よ。柴田殿が中盤で踏ん張るからこそ、周囲の者も迷わず前へ出られる)
相手はただ気迫で押しているわけではない。
ボールへ寄せる者と、その背後を埋める者。柴田が相手の進路を限定することで、味方が次のプレーを予測しやすくなっている。
だが、先制した桜中央にも、追加点を狙いたいという欲が生まれ始めていた。
前半35分。
柴田が中盤でパスを受けようとした瞬間、諸島が間合いを詰めた。
柴田は身体を入れてボールを守ろうとする。諸島は正面から押し切ろうとはせず、相手のタッチが大きくなったところへ右足を差し込んだ。
ボールがこぼれる。
諸島はすぐさま身体を入れ替え、奪ったボールを前へ運んだ。
その時には、氏真も動き始めていた。
相手CBの視線がボールへ向く。氏真はその背後へ回り込み、外側から斜めに最終ラインの裏へと抜け出す。
諸島の低いスルーパスが、芝を滑って届いた。
氏真は背後から迫るカバーDFの気配を感じながら、身体の向きを変える。相手の突進を正面から受けず、半身を入れ替えて前を向いた。
GKが飛び出してくる。
氏真は慌てなかった。
右足のインサイドで、ゴール左隅へボールを転がす。
1-1。
城南が同点に追いついた。
桜中央の選手たちは悔しそうに歯を食いしばったが、すぐに自陣へ戻って守備を整えた。
柴田も顔を上げ、味方へ声をかけている。
まだ終わってはいない。
迎えた後半。
前半から高い強度でプレスを続けた桜中央には、少しずつ疲労が見え始めていた。
足が止まるほどではない。しかし、前へ出る一歩と、戻ってカバーする一歩。その両方を繰り返す選手たちの動きに、わずかな遅れが生じていた。
城南は、そこを見逃さなかった。
後半18分。
インサイドハーフの猿沢がハーフスペースに顔を出し、相手ボランチを中央へ引きつける。
その外側を、一戸政実が一気に駆け上がった。
桜中央のSBが対応に動くが、一戸は相手が寄せ切る前にクロスを上げた。
中央へ飛び込んだのは、小柄なFW、不来方純也だった。
大型CBの背後から一瞬で抜け出し、身体を投げ出すように頭を合わせる。
泥だらけのユニフォームが芝を滑った。
ボールはGKの手の届かない位置へ飛び、ゴールネットを揺らした。
2-1。
城南が逆転に成功した。
それでも、桜中央は諦めなかった。
後半30分を過ぎても、柴田を中心に身体を張り、前線へボールを送り込む。足を痛めた選手がいても、簡単には交代を求めない。
スタンドからの声援も、途切れることはなかった。
(……この者たちは、最後の一瞬まで戦うつもりなのだな)
氏真は、相手の必死な姿を見つめていた。
だからこそ、手を抜くことはできない。
後半37分。
前がかりになった桜中央が、縦パスを前線へ送り込んだ。
だが、パスの先を読んでいた諸島が、中盤の底でボールを奪い取る。
相手の攻撃が途切れた瞬間、諸島は顔を上げた。
氏真はすでに走り出していた。
最終ラインの選手たちが戻りながら対応しようとする。しかし、氏真は中央の空いた場所へまっすぐ走るのではなく、CB同士の間隔が広がった瞬間に進路を変えた。
諸島のダイレクトパスが、その足元へ届く。
GKが飛び出し、両腕を広げてシュートコースを塞いだ。
氏真は右足を振り抜くように見せる。
GKの重心がわずかに沈む。
その動きを見届けてから、氏真は足首の力を抜き、右足のつま先でボールの下側をすくい上げた。
ふわりと浮いたボールが、GKの頭上を越えていく。
柔らかな弧を描いたループシュートが、静かにネットを揺らした。
3-1。
そして――。
ピピピィーーーーッ!
タイムアップの笛が、秋晴れの空に高らかに鳴り響いた。
盛岡城南高校、決勝進出。
歓喜に沸く城南の選手たち。
その一方で、ピッチには膝から崩れ落ち、顔を覆う桜中央の選手たちの姿があった。
柴田はしばらく、その場から動かなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
4.敗者の尊厳、手の温もり
ピッチ中央での整列を終え、両チームの選手たちが互いの健闘を称え合う握手を交わした。
桜中央の選手たちは、ユニフォームの袖で顔を覆い、肩を震わせていた。
3年間のすべてを懸けて挑んだ選手権が、いま、この瞬間に終わったのだ。
氏真が城南のベンチへ戻ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「……おい、吉良」
振り返ると、盛岡桜中央の主将、柴田修司が立っていた。
エンジ色のユニフォームは泥にまみれ、膝には擦り傷ができている。赤く腫らした目には、まだ涙が残っていた。
柴田は一度、拳を握りしめた。
それから、震える右手を氏真の前に差し出した。
「……吉良。お前たちには……絶対に、負けたくなかった……ッ」
絞り出すような声だった。
「夏に遠野と互角にやって、プリンスでも首位を争ってるお前たちを見て……クソッ、何なんだあいつらはって、ずっと悔しかった」
柴田は唇を噛んだ。
「公立に来たお前なんかに、俺たちの3年間が負けてたまるかって……毎日、死ぬ気で練習してきたんだよ……ッ」
堪えきれなくなった涙が、頬を伝って芝へ落ちた。
差し出された手は、白くなるほど強く握りしめられていた。
氏真は、すぐには言葉を返さなかった。
安っぽい同情を口にするつもりはない。勝者として、相手の努力を評価してやるという態度も違う。
氏真はただ、柴田の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、その震える右手を両手で包み込むように握り返した。
冷たい秋風の中で、柴田の手は驚くほど熱かった。
分厚いタコと、無数の擦り傷。
土の匂い。汗の湿り気。
その手に触れた瞬間、氏真には伝わってきた。
この男が、どれほどの時間をサッカーに捧げてきたのか。
このチームが、どれほどの思いを背負って今日のピッチに立っていたのか。
それは、勝敗の数字だけでは測れないものだった。
(……そうだ。勝ったからといって、予たちが偉いわけではない)
氏真の胸に、1年前の秋の情景が蘇った。
中学3年生の秋。
叔父の剛に連れられて訪れた、選手権予選のスタンド。
ベンチ外で声を枯らし、泥まみれのグラウンドの外でボールを磨き続けていた久保田誠たちの姿。
そして、敗れ去ってピッチに突っ伏し、泣き崩れていた名もなき先輩たちの背中。
あのとき、氏真はスタンドから彼らを見ているだけだった。
だが今は違う。
勝者としてピッチに立ち、敗者の手を握っている。
トーナメントは、非情なまでに勝者と敗者を分かつ。
けれど、敗れた者たちが積み重ねてきた日々の価値まで、消えてなくなるわけではない。
「柴田さん」
氏真は、握った手にわずかに力を込めた。
「魂のこもったプレス、本当に息が詰まるようでした」
柴田が顔を上げる。
「あなた方の3年間の重み、この手に、確かに受け取りました」
氏真は深く頭を下げた。
柴田は目を見張った。
次の瞬間、こらえていた涙が再び溢れ出した。
「……頼むぞ、城南」
柴田は氏真の手を強く握り返した。
「遠野を倒して、絶対に全国へ行け。俺たちを負かしたんだから……絶対に、てっぺん取ってこいよ……ッ!」
「はい。必ず」
氏真は、迷いなく答えた。
やがて、2人の手が離れた。
柴田はユニフォームの袖で乱暴に涙を拭うと、スタンドで待つ仲間たちのもとへ歩き出した。
その背中は、決して小さくは見えなかった。
敗れた悔しさも、届かなかった夢も、今日まで積み重ねてきた努力も。
そのすべてを抱えたまま歩いていく。
そこには、全力を尽くした者だけが持つ誇りがあった。
氏真は、その背中がスタンドの仲間たちに迎えられるまで、静かに見送っていた。
5.主将の背中と決勝へのタクト
スタジアムの地下通路は、薄暗く、静まり返っていた。
クールダウンを終え、ロッカールームへ戻る道すがら。スパイクの音がコンクリートの壁に反響している。
氏真は、少し前を歩く背番号6の背中を見つめていた。
諸島憲二。
80分間、中盤の底で身体を張り、泥にまみれながらチームを支え続けた主将の背中だ。
春に入学した当初、諸島は氏真に対して一線を引いていた。
肩書きや評判ではなく、ピッチの上でチームのために何を捧げられる男なのか。それを自分の目で見極めようとしていたのだ。
通路の角を曲がったところで、ふと諸島が歩調を緩めた。
氏真が横に並ぶ。
諸島は前を向いたまま、短く口を開いた。
「……悪くない連携だったぞ」
氏真は、思わず足を止めそうになった。
「諸島さん……」
「俺が奪う前に、お前が走っていた。あんな感覚でパスを出せたのは、サッカー人生で初めてだ」
諸島は一度、言葉を切った。
「……お前が信じて走ってくれるなら、俺は中盤で何度でもボールを奪ってやる」
不器用で、飾り気のない言葉だった。
だが、氏真には十分だった。
それは、入学以来、諸島が初めて明確に示してくれた信頼の証だった。
氏真の胸の奥に、温かなものが広がっていく。
(……ああ。予は、本当に良き仲間と巡り合えた)
前世の今川氏真は、誰かを真に信じることも、誰かに背中を預けることも知らぬまま国を失った。
誰かに任せるより、自分で抱え込むことを選んだ。
その結果、何を失ったのか。
いまの氏真には、少しずつ分かり始めていた。
サッカーは1人ではできない。
どれほど優れたストライカーであっても、ボールを奪ってくれる仲間がいなければ、ゴールへ向かう機会さえ生まれない。
そして、ボールを奪う選手もまた、走り出してくれる味方がいるからこそ、迷わず前へパスを出せる。
諸島が奪い、氏真が走る。
氏真が走ると信じて、諸島が奪う。
2人の間に生まれたものは、単なる戦術的な連携ではなかった。
互いの覚悟を信じ、背中を預け合う関係だった。
奪還の糸。
それは、失われたものを取り戻すために、誰かと結び直す絆でもあった。
「ありがとうございます、諸島さん」
氏真は、まっすぐに主将の背中を見た。
「……次も、必ず走ります」
諸島は前を向いたまま、右手の親指を小さく立ててみせた。
ロッカールームの扉を開ける。
ホワイトボードの中央には、赤いマジックで決勝戦のカードが大きく書き込まれていた。
第105回 全国高校サッカー選手権大会・岩手県大会 決勝
盛岡城南高校 対 遠野市立高校
夏のインターハイ予選決勝で、PK戦の末に敗れた因縁の絶対王者。
そして、今日、ピッチを去った桜中央の選手たち。
柴田の手に残っていた熱。
諸島の言葉に込められた信頼。
氏真は、それらを胸に刻んだ。
勝つために、仲間を信じる。
仲間に信じてもらうために、走る。
その先にあるものを、もう一度、この手でつかみ取るために。
静かに吹き抜ける秋風の中、氏真は決勝戦のカードを見つめた。
その瞳の奥には、天下を射抜く青き炎が、凛と灯っていた。




