第169話:【杜の怪物と首位の重圧】
【あらすじ】
プリンスリーグ東北第16節。首位奪取を狙う盛岡城南高校の前に立ちはだかるのは、Jユース屈指の強豪・仙台アルベガFCユース。そして、かつて激闘を繰り広げた「杜の怪物」舘隼斗。氏真の技術と怪物の剛力が激突する秋の天王山。首位の座を懸けた死闘の先に、城南を待ち受けるものとは――。
1.杜の怪物と秋の天王山
10月第1週。
岩手山から吹き下ろす風は日増しに冷たさを増し、盛岡城南高校グラウンドを取り囲む木々も、鮮やかな朱や黄金へと色づき始めていた。
秋晴れの澄み渡った空の下、第1グラウンドにはこれまでのリーグ戦とは比較にならないほどの観衆が詰めかけていた。保護者や在校生だけではない。県内外のスカウトや専門誌の記者、黄色と青のメガホンを手にした熱狂的なサポーターまで、ピッチ脇のフェンス沿いを埋め尽くしている。
高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ東北・第16節。
盛岡城南高校の前に立ちはだかるのは、東北屈指のJユース強豪――仙台アルベガFCユースだった。
全18節で争われるリーグ戦も、残すところ3試合。
前節、首位を走る明青国際大学附属青森高校セカンドがアウェイで痛恨の引き分けを喫した一方、城南は破竹の3連勝。勝点33で単独2位につけ、首位との差をわずか1ポイントに縮めていた。
今節の結果次第では、昇格組の城南が首位の座を奪い取るだけでなく、冬のプレミアリーグプレーオフ(参入戦)進出へ王手がかかる大一番である。
だが、その歴史的な扉の前に仁王立ちしているのは、あまりにも巨大で獰猛な門番だった。
「――おいおい、吉良氏真! どこ見てんだよ、こっちだ、こっち!」
ウォーミングアップを終え、ベンチ前でスパイクの紐を結び直していた氏真の耳に、野太く地を這うような声が届いた。
顔を上げると、ハーフウェーラインの向こうから、並外れた威圧感を放つ巨躯が肩を揺らしながら歩み寄ってくる。
浅黒い肌に、短く刈り込まれた野性的な髪。
高校1年生にして185cm、82kgという鋼の肉体を誇るストライカー――アルベガユースの背番号9、舘隼人だった。
春の第7節、ここ盛岡の地で1-1の激闘を演じて以来、約5か月ぶりとなるピッチ上での再戦である。
「……お久しぶりです、舘君。相変わらず、遠くからでも一目で分かる迫力ですね」
同じく背番号9のユニフォームの裾を整え、氏真は穏やかに微笑みかけた。
「ケッ、相変わらず涼しい顔しやがって! 春の対戦じゃ、俺のゴールでお前らを沈めたつもりが、土壇場でお前の柔っこい動きにいなされてドローだ。あの日から1日たりとも、あの引き分けに納得したことはねえよ!」
舘は白い歯を剥き出しにし、首の骨をグキリと鳴らした。
「俺は今年、アルベガのトップチームに昇格する。Jユースの意地にかけても、高体連の、しかも同じ1年に優勝の座を譲るわけにはいかねえんだよ。夏を越えて、俺のパワーもスピードも春とは比べ物にならねえ。今日こそお前を力ずくで叩き潰して、俺が東北最強のストライカーだってことを証明してやる!」
剥き出しの闘争心が、熱波のように肌を刺す。
その背後から、細身の影が静かに歩み寄ってきた。
「おい、隼斗。試合前から相手を威嚇して、無駄なエネルギーを消費するな。お前の悪い癖だぞ」
アルベガユースの主将を務める3年生、ボランチの片倉景親だった。
知性的な切れ長の瞳に、冷徹な光を宿した絶対的司令塔。「竜の右目」の異名を持つ彼は、正確無比なパスで攻撃を組み立て、奔放な怪物・舘の破壊力を最大限に引き出すチームの心臓である。
「初めましてではないね、吉良君。春の対戦以降、君たちのポジショナルな進化と連勝劇はすべて分析させてもらったよ」
片倉は冷静な眼差しのまま、氏真を見据えた。
「春は君の脱力に一杯食わされたが、同じ手が2度も通じると思わないでほしい。我々アルベガの矛と盾は、春よりも遥かに研ぎ澄まされている」
片倉の背後には、副主将のCB成実壮真が「不退転のストッパー」たる巌のような体躯でそびえ立ち、春に氏真に裏を取られた屈辱を晴らさんとばかりに凄まじい気迫を放っている。左サイドでは爆発的なアジリティを誇る2年の青葉怜が、獲物を狙う鷹のような視線を向けていた。
14時00分。
秋風が吹き抜ける中、運命のキックオフを告げるホイッスルが、盛岡の青空に高く響き渡った。
2.重戦車の咆哮と進化した解答
試合は開始わずか数分で、観衆の息を呑ませる衝撃的な展開を迎えた。
前半5分。
自陣深くでボールを回収したアルベガの守護神、188cmの国見洸太が、迷いなく右足を振り抜く。
放たれた低弾道のパントキックは、矢のような鋭さでハーフウェーラインを越え、センターサークル付近へと伸びていった。
落下点へ入ったのは、城南のCB佐々木拓海と、アルベガの舘隼人。
春の第7節でも、佐々木は舘に競り負けて先制点を許していた。
「今度こそ行かせるかッ!」
佐々木が雪辱を期し、全体重を預けて背後からタイトに身体を寄せる。
だが――ドゴッ! という鈍い衝突音が響いた瞬間、弾き飛ばされたのはまたしても佐々木の方だった。
「ぐっ……!?」
春よりさらに筋量を増した舘の体幹は、岩のようにびくともしなかった。強靭な背筋で佐々木のチャージを弾き返すと、胸トラップでボールを前方スペースへと落とす。
すぐさま城南の右SB一戸政実が猛烈なスプリントでカバーに入り、舘のシュートコースを塞ごうと身体を投げ出した。
しかし、舘は減速しなかった。
右足のアウトフロントでボールを前へ持ち出すと、爆発的な加速で一戸との間合いを強引にこじ開ける。
ペナルティエリア手前約22m。
ボールが芝からわずかに跳ね上がった刹那、舘の丸太のような右足が唸りを上げて振り抜かれた。
ドッバァンッ!
空気を震わせる破裂音。
弾丸と化したボールは、GK工藤一の伸ばした左手の指先をかすめ、クロスバーの内側を激しく叩いてゴールネットへ突き刺さった。
前半5分、0-1。
先制したのは、アウェイの仙台アルベガFCユースだった。
「見たかコラァッ! これが進化だァッ!」
舘がユニフォームの胸を激しく叩き、雄叫びを上げる。
春の先制点をなぞるかのような、理不尽な破壊力の一撃。ピッチに手をついた佐々木と一戸は、悔しげに唇を噛んだ。
「……春よりスプリントの初速もシュートの威力も上がってやがる。分かっていても止められんとはな」
ベンチ前で腕を組む吉良剛監督が苦々しく呟く。
だが、城南の背番号9だけは、その一撃を静かに見つめながら、深く呼吸を整えていた。
(……素晴らしい剛力よ。春よりも迷いなく、力みが推進力へと昇華されておる。されど――フットボールは、剛の力のみで決する戦にあらず)
氏真は両腕の力を抜き、肩甲骨を背中の下側へとすっと滑り込ませた。
夏合宿でキャム・ベルナルドに調律された胸椎の可動域。背中の羽がふわりと広がり、全身の関節がニュートラルな位置へと収まっていく。
前半18分、城南の反撃が形となった。
起点は、中盤のインサイドハーフ・猿沢佳樹のポジショニングだった。
アルベガの司令塔・片倉が中盤で前を向こうとした瞬間、猿沢はボールを奪いに飛び込まず、片倉から左ウイングの青葉へ通る斜め45度のパスコースの真上にすっと立った。
「チッ……またそこか」
片倉の判断が一瞬遅れ、苦し紛れに横パスを選択する。
その隙を見逃さず、城南のアンカー・諸島憲二が鋭い出足でインターセプトを敢行した。
「前へッ!」
諸島から前線へ、鋭いグラウンダーの縦パスが突き刺さる。
ペナルティアーク付近でボールを迎える氏真。その背後には、アルベガのCB成実壮真が密着していた。
(春と同じ手は食わんぞ、吉良氏真!)
成実は春の第7節で、氏真がボールに触れず脱力して前へ泳がされた苦い記憶を片時も忘れていなかった。
だからこそ今、成実は力任せに前方へ飛び込まず、氏真のターンを警戒して半歩距離を取り、重心を低く落として両足を踏ん張っていた。背後からのスルーターンを絶対に許さない構えである。
だが――氏真は、春と同じ手を打つつもりなど毛頭なかった。
(飛び込んで来ぬか。……ならば、その踏み留まりこそが隙よ)
氏真は成実が反転を警戒して足を止めた刹那、胸椎をしなやかに回旋させ、右足のインサイドでボールの勢いを完全に殺しながら、成実の軸足の真横へとボールをわずかに突いた。
「なっ……!?」
スルーを警戒して重心を後ろに残していた成実は、急激に前へ踏み出すことができない。
氏真は成実が足を出せないその一瞬、最小限の歩幅で身体の向きをゴールへ正した。
トラップからシュートまで、無駄な予備動作は一切ない。
春に頭上を越すループシュートを決められたGK国見は、再びループを警戒して頭上へ意識を割き、重心をやや後ろに残していた。
氏真の瞳が、その微細な迷いを見逃すはずがなかった。
氏真は右足を力任せに振り抜くことなく、足首を固定し、右足のインサイドでゴール左隅のサイドネットへ正確に流し込んだ。
スルスルと芝を這ったボールが、国見の伸ばした足先をすり抜け、鮮やかにネットを揺らす。
前半19分、1-1!
「よしっ! 追いついたぞ!」
スタンドが割れんばかりの歓声に包まれた。
春の失策を警戒した相手の心理の逆を突き、最小限のタッチで仕留めた氏真のゴール。アルベガの主将・片倉が戦慄の表情を浮かべた。
「……壮真の警戒を逆手に取ったか。春のゼロタッチスルーを布石にして、今度は正面から外してくるとはな」
氏真は静かに息を吐き、自陣へと歩みを進めた。
3.激化するシーソーゲーム
だが、東北Jユースの雄・アルベガも、簡単には怯まない。
前半33分。
左サイドで青葉怜が爆発的なアジリティを発揮する。
鋭いシザースフェイントから一戸の重心をわずかに揺さぶり、タッチライン際からピンポイントの高速クロスをゴール前へ供給した。
中央へ猛然と飛び込んだのは舘だった。
春の対戦で舘をブロックした城南CB林皓然が、今度もコースを消すべく必死に身体を寄せる。だが、舘は競り合いの中でも空中で体幹をねじり、林の上から強靭な首の筋力でヘディングシュートを叩き込んだ。
ボールはゴール左隅へ突き刺さる。
1-2。
再びアルベガがリードを奪った。
「オラァッ! 力でねじ伏せりゃあ関係ねえんだよ!」
雄叫びを上げる舘。
失点直後、城南ベンチから剛監督の怒声が飛んだ。
「下を向くな! 相手が前に出てくる今こそ、グリッドの隙間が広がるぞ!」
その言葉通り、城南はすぐさま反撃の陣形を敷き直した。
前半42分。
中盤で諸島からボールを受けた猿沢が、相手ボランチを引きつけるデコイランを見せながら右サイドへ展開する。
駆け上がった不来方純也が、成実の視野の死角へ音もなく潜り込み、グラウンダーのマイナスクロスをペナルティエリア中央へ通した。
中央では氏真が相手DFを引き連れてニアへ鋭く走り込む。
その背後にぽっかりと生まれたスペースへ飛び込んだのは、グエン・ミン・クアンだった。
左足を一閃。
バシィッ!
鋭いシュートがサイドネットを揺らした。
2-2。
氏真が相手を引きつけて作った空間を、クアンが確実に仕留める。
個人技だけではない。夏合宿を経て培われた城南の組織的連動が、アルベガの守備網を切り裂いた。
息をつく間もない壮絶な打ち合いのまま、前半の45分間が終了した。
ハーフタイムのロッカールーム。
城南の選手たちの肩は、激しく上下していた。
「ハァ……ハァ……! あいつら、コンタクトも切り替えも、これまでの相手と一段階違う……!」
佐々木が氷嚢で首筋を冷やしながら呻く。
一戸も、諸島も、全身から湯気のような汗を立ち上らせていた。
夏合宿から続く過密日程。その疲労が、ここにきて確実に選手たちの足元を重くしていた。
剛監督がホワイトボードを指で叩いた。
「相手の狙いは明確だ。片倉からの配球と、舘の個の力による押し込み。諸島と猿沢、片倉へのコース制限は効いている。後半も粘り強く続けろ」
監督の視線が氏真へ向く。
「そして前線は、相手が焦って前に出てきたところを突け。力で勝とうとする必要はない」
「はい、剛叔父さん」
氏真は冷えた『スポドリX』を一口含み、静かに立ち上がった。
「……成実先輩は、強く当たれば当たるほど、次の動作に移るまでの間が長くなっています。必ず、もう1度隙が生まれます」
その言葉に、剛監督は小さく頷いた。
4.極限のループと怪物の咆哮
迎えた後半。
ピッチ上のインテンシティは、さらに限界領域へと突入していった。
アルベガの舘が前線から激しいチェイシングを仕掛け、城南の最終ラインにプレッシャーをかけ続ける。
後半14分、舘の強烈なミドルシュートをGK工藤が横っ飛びで弾き、こぼれ球に詰めた青葉のシュートを一戸がゴールライン上で決死のスライディングブロック。
ピッチの至るところで激しい接触が起こり、選手たちが芝の上へ倒れ込む。
そして後半26分、城南に決定的な好機が訪れた。
自陣深くで林が相手のクロスを跳ね返し、こぼれ球を拾った猿沢が、相手のプレスを冷静にいなして前線の氏真へ鋭い縦パスを通す。
センターサークル付近でボールを収める氏真。
「今度こそ止めるぞッ!」
アルベガのCB成実が、前半の借りを返さんとばかりに猛然と間合いを詰めてきた。
今度は氏真の右への進路を切りながら、強烈なショルダーチャージを仕掛ける構えだ。
成実の右肩が、氏真の左肩へ激突する――その直前。
氏真の瞳が、静水のように澄み渡った。
(……今だ)
キャム・ベルナルドから授かった、生体力学に基づく胸椎の解放。
氏真は左肩の力を完全に抜き、肋骨と肩甲骨をしならせ、上半身を左斜め後方へとふわりと逃がした。
成実の渾身のタックルは、狙った位置を捉えられず、勢いのまま虚空を突き抜ける。
「しまっ……!?」
その一瞬、氏真は右足のアウトサイドでボールを前へ持ち出し、最小限のステップで成実の脇をすり抜けた。
成実を完全に置き去りにした氏真が、バイタルエリア中央へ侵入する。
カバーに飛び出してきたもう1人のDFがスライディングを試みるが、氏真は右足のタッチでボールの進路をわずかに変え、その足を軽やかに飛び越えた。
立ちはだかるのは、188cmの守護神・国見洸太。
国見はコースを狭めようと、両腕を大きく広げて間合いを詰めてくる。
氏真は右足を大きく振り上げた。
強烈なシュートを予感させる完璧なフォロースルーの予備動作。
国見が低い弾道のシュートを警戒し、重心をグッと低く沈めた。
その刹那。
氏真の振り下ろされた右足は、ボールを強打しなかった。
足先の甲で、ボールの下側をふわりと撫で上げる。
柔らかな放物線を描いたボールは、横っ飛びした巨漢GKの頭上を越え、静かにゴールネットの中央へと吸い込まれていった。
後半27分、3-2!
吉良氏真、この日2点目となる技ありの逆転ループシュート!
「うわあああぁぁぁッ!!」
「入ったァァァ! 技ありのループだァッ!!」
グラウンドが、割れんばかりの歓声とどよめきで揺れた。
春の同点弾を彷彿とさせながらも、相手の守備陣の判断を完全に手玉に取った極上のシュート。
ピッチに手をついた成実と、ゴールを振り返った国見が、信じられないものを見る目で氏真の背中を見つめていた。
だが――杜の怪物は、このまま終わる男ではなかった。
「……ふざけんなよ」
センターサークルにボールをセットした舘隼斗が、自らの太ももを拳で強く叩いた。
その双眸に宿る炎は、消えるどころか、さらに激しく燃え盛っていた。
「ふざけんなよ、吉良氏真ァッ!!」
後半38分。
連戦の疲労から、城南の中盤の帰陣が一歩遅れた。
ボールを持った片倉が、城南の最終ラインが押し下げられた一瞬の隙を見逃さず、前線の舘へ低く鋭い縦パスを突き刺す。
ペナルティエリア手前、約24m。
背後から林が身体を寄せ、アンカーの諸島が正面から挟み込もうとする。
パスを出すか、ドリブルでかわすか。誰もがそう予測した密集地帯。
だが、舘は笑った。
「ぶっ飛べやァァッ!!」
林の接触を強靭な体幹で受け止め、ボールをわずかに斜め前へ持ち出す。
そして、歩幅を合わせる間もなく右足を振り抜いた。
理屈も計算もねじ伏せる、野生の一撃。
ドッゴォォンッ!!
放たれたシュートは、ボールの回転すら見えない強烈なキャノンボールとなって空気を引き裂いた。
GK工藤が反応し、両手を伸ばす。
バシィッ!!
ボールが両手を直撃した。だが、工藤は衝撃を受け止めきれず、ボールは手を弾いてゴールネットの天井へ突き刺さった。
後半39分、3-3。
舘隼斗、圧巻のハットトリック。
「オラァッ! これがアルベガの意地だァッ!!」
舘が雄叫びを上げ、アルベガサポーターのメガホンが狂ったように打ち鳴らされる。
その後も両チームは残された体力を振り絞り、アディショナルタイム4分間に至るまで激しい攻防を繰り広げた。
城南は氏真を起点に反撃を試み、アルベガは片倉の配球から舘へボールを集める。
だが、互いの守備陣が最後の一歩を譲らず、追加点は生まれなかった。
ピピピィーーーーッ!
激闘の終わりを告げる長い笛が鳴り響いた。
3-3。
春に続く首位攻防の大一番は、死力を尽くした痛み分けのドローで幕を閉じた。
5.拳の交錯と点滅する警告灯
試合終了の笛が鳴った瞬間、城南の選手たちの多くが、糸の切れた操り人形のように人工芝へ倒れ込んだ。
「ハァ……ハァ……ッ……!」
諸島が膝に手を突いて激しく肩を揺らし、佐々木と一戸は足を攣りかけながらピッチに仰向けになっていた。
90分間、怪物の理不尽な突進とJユースの組織的な攻撃を受け止め続けた代償は、あまりにも重かった。
グラウンドの中央。
泥と汗にまみれた氏真もまた、荒い息を吐きながら両手を太ももに当てていた。
キャムの指導によって無駄な力を抜き、合理的に動いていたとはいえ、走る以上、筋肉への負荷は避けられない。
太ももの奥に、鉛のような重い疲労が沈んでいた。
ズシ、ズシ、と芝を踏みしめる足音が近づいてくる。
顔を上げると、同じく汗にまみれた舘隼斗が、氏真を見下ろしていた。
「……吉良」
「舘君……見事なシュートでした。あの位置から、あれだけの威力で決められるとは思いませんでしたよ」
氏真が息を整えながら素直な称賛を送ると、舘は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「チッ、お前に褒められても嬉しかねえよ。ハットトリック決めて引き分けなんざ、実質俺の負けだ」
舘は荒々しく首筋の汗を拭うと、じっと氏真の顔を見つめた。
「吉良……お前、高校の部活に行って丸くなったかと思ったら、とんでもねえ怪物を周りに従え始めてやがるな」
「怪物、ですか?」
「ああ。あの中盤の黒子――猿沢も、あのロングスローを投げるサイドバックの一戸も、小柄なFWの不来方もそうだ」
舘は城南の選手たちを見渡した。
「お前が引きつけて作ったスペースに、あいつらは迷わず飛び込んでくる。……春に対戦した時とは別のチームだ。お前だけのチームじゃねえ。お前を信じ切った11人が、ひとつの生き物みてえに牙を剥いてきやがった」
その口元が、ニヤリと凶暴に歪んだ。
「面白えよ。春も秋も引き分けだが、次は絶対に叩き潰す。プレミアの参入戦か、それともプロの舞台か……どこになるかは知らねえが、その時まで絶対に負けんじゃねえぞ」
突き出された、傷だらけの大きな拳。
氏真は一瞬目を見張り、それから柔らかく、力強い笑みを浮かべて己の拳を突き出した。
コツン、と乾いた音が響く。
「ええ。望むところです、舘君。次も、互いのすべてをぶつけ合いましょう」
「おうよ!」
怪物は短く応じると、肩を揺らしながら自陣のベンチへと去っていった。
その背中を見送りながら、氏真はゆっくりと息を吐き出した。
3-3の引き分け。勝点1の加算。
他会場で首位の明青国際大学附属青森高校セカンドが敗れる波乱が起きたため、勝点34で並んだ城南は、得失点差でついにリーグ単独首位へと浮上した。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
試合後のプレハブ部室。
いつもなら、勝点を拾った安堵や強豪相手に引き分けた手応えで満たされるはずの室内に、重苦しい沈黙が立ち込めていた。
蛍光灯の青白い光の下、選手たちは誰1人として声を発することなく、氷嚢で太ももや足首を冷やしていた。
カチ、カチ、と無機質なマウスクリックの音だけが響く。
部室の奥では、神原隆司教授と久保田誠、そして早川舞が、ノートPCのモニターを食い入るように見つめていた。
「……先生、これは」
久保田の硬い声に、剛監督がパイプ椅子から立ち上がり、モニターの背後へと歩み寄った。
「どうした、久保田。何が出た」
「本日の走行データと、心拍・加速度センサーの解析結果です」
久保田がキーボードを叩くと、モニターに城南のスタメン11名の身体負荷グラフが表示された。
画面を埋め尽くしていたのは、赤と黄色の警告シグナルだった。
特に、氏真、諸島、林、一戸の4名は、高強度走行や加減速の負荷が設定した警戒ラインを大きく超えている。
「……走行負荷が、想定していた限界値を超えています」
舞がタブレットを操作しながら、険しい表情で告げた。
「夏合宿の疲労が完全に抜けきらないまま、遠野戦、東北学園戦、そして今日のアルベガ戦と、高強度のスプリントや激しいボディコンタクトが連続しました。特にウジ様と諸島先輩は、走行距離だけでなく、急加速と急減速の回数も突出しています」
舞は画面を切り替えた。
「心拍の推移や運動負荷から見ても、十分な回復ができていない可能性が高いです。この状態で同じ強度の試合を繰り返せば、パフォーマンスが落ちるだけでなく、筋肉や腱の故障につながる危険があります」
「ふん……やはりな」
パイプ椅子に背を預けた神原教授が、手元のペンを弄びながら冷たく吐き捨てた。
「人間の肉体は、精神論では回復しませんよ。どれほど生体力学を駆使して脱力しようが、90分間の高強度運動による負荷が消えるわけではない。衝突そのものだけでなく、急激な加速と減速の繰り返しが筋肉や腱に負担を蓄積させる。……データは嘘をつきません。彼らの身体は、回復のための時間を必要としているのです」
神原の冷徹な指摘が、部室の空気を凍りつかせた。
剛監督は腕を組み、壁に貼られた1枚のトーナメント表へと視線を向けた。
第105回 全国高校サッカー選手権大会・岩手県大会。
来週の土曜日から、いよいよ冬の選手権予選が開幕する。
3回戦から登場する城南高校は、準々決勝、準決勝、そして決勝に至るまで、中3日から6日という日程でトーナメントを戦い抜かなければならない。
しかも、その組み合わせの山には、夏のインターハイ王者・遠野市立高校をはじめ、盛岡第五、花巻東といった県内の強豪たちがひしめき合っていた。
「中3日の連戦……か」
剛の呟きに、氏真は静かに自らの右太ももに手を当てた。
ユニフォームの上からでも分かる、筋肉の奥底に張り付いた重い熱。
愛が残してくれたコンディショニング手帳の知恵と、キャムのケアがあってもなお、過密日程の負荷を完全に帳消しにすることはできない。
1人ひとりが限界まで戦えば、次の試合で動けなくなる。
かといって、主力を休ませれば、目の前の勝利を逃すかもしれない。
勝ち続けるためには、誰か1人の力に頼るわけにはいかなかった。
(予が前世で失ったもの……それは、最後まで諦めずに戦い抜く覚悟と、仲間と共に困難を越える力であった)
氏真はゆっくりと顔を上げ、剛監督、そして疲れ切りながらも前を向く仲間たちを見渡した。
「剛叔父さん。恐れることはありません」
静かな、だが確かな意志を宿した声だった。
「僕たちには、夏合宿で培った『全員戦力化』があります。ピッチに立つ11人だけでなく、ベンチに控える仲間たち、データを支える久保田先輩や舞、そして見守ってくれるすべての人々の力がある」
氏真は1度、言葉を切った。
「ただ、誰かが無理を重ねなければ戦えないのなら、それは全員戦力化とは言えません。誰を休ませ、誰に託し、どうすれば全員が力を発揮できるのか。選手権までに、僕たち自身が答えを出さなければなりません」
その言葉に、諸島が顔を上げた。
林も、不来方も、久保田も、舞も。
それぞれの瞳に、静かな光が戻っていく。
勝ち続けることだけが、チームの強さではない。
仲間を信じ、役割を分かち合い、誰かが欠けても戦える組織をつくること。
それもまた、サッカーの勝負なのだ。
プリンスリーグ首位の重圧。
肉体に刻まれた極限の疲労。
そして、目前に迫る過酷な選手権予選。
晩秋の冷たい風が吹き抜ける盛岡の地で、盛岡城南サッカー部は新たな壁に直面していた。
個の力だけでは、勝ち続けられない。
だからこそ、仲間に託す勇気が必要になる。
城南の真価を問う、最も長く、最も熱い戦いの幕が、今まさに上がろうとしていた。




