第157話:【北の洗礼と解かれし結び目】
【あらすじ】
開幕二連勝で勢いに乗る盛岡城南高校。しかし、全国王者のセカンドチームが突きつけたのは、個の力だけでは越えられない壁だった。続く遠野戦でも、新入生トリオの才能は空回りし、チームは機能不全に陥る。孤立する仲間たちを前に、氏真が示す突破口とは――。
1.王者の氷壁
四月第三週の日曜日。
盛岡城南高校第一グラウンドを取り巻く空気は、開幕二連勝の熱気を冷ましてしまうほどの冷たさに包まれていた。
高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ東北第3節。ホームに迎えたのは、明青国際大学附属青森高校セカンド。高校年代最高峰のプレミアリーグに君臨する全国王者、そのセカンドチームである。
セカンドとはいえ、所属するのは全国から選び抜かれた精鋭たちだ。トップチーム昇格を目指す選手たちのハングリー精神と、日々の練習で叩き込まれた組織規律。その両方が、キックオフ直後から城南イレブンに襲いかかった。
城南は前節同様、上級生を中心とした4―3―3で挑んだ。
しかし、青森セカンドのハイプレスは、秋田や山形のそれとは質が違った。
ボールが動く。瞬間、前線と中盤が連動して距離を詰め、城南のパスコースをタッチライン際へと追い込んでいく。
アンカーの諸島憲二が身体を張ってボールを守っても、青森のボランチ、沢田琉生が間合いを詰め、前を向かせない。
背番号9を背負う氏真へ縦パスを入れようにも、沢田が巧みに身体の向きを変えて配球ラインを遮断する。その先には、185センチの体躯を誇る主将・棟方陣が中央を固めていた。
前半18分。
城南のビルドアップが、ついに捕まった。
自陣深くでボールを奪い返した青森は、迷わず前線のセンターフォワード、鳴海瑛太へ鋭い縦パスを打ち込む。
城南のセンターバック、及川翔平が背後から密着した。
だが、鳴海は強靱な体幹で押し負けない。及川を背負ったままボールを収めると、最小限のタッチで落とした。
受けたのは、後方からトップスピードで侵入してきた一年生のトップ下、逢坂湊斗だった。
逢坂はハーフスペースを滑らかに抜け、飛び出してきたGK工藤一の重心を見極める。左足をコンパクトに振り抜いた。
ボールはゴール左隅へ吸い込まれた。
0―1。
先制を許した城南は、反撃の形すら作れない。
氏真がバイタルエリアまで下がってボールを引き出そうとしても、棟方が身体を寄せて前を向かせず、沢田が素早く挟み込む。
氏真が味方へ預けて動き直しても、パスを返すための時間も空間も与えてもらえなかった。
前線が孤立し、中盤は押し込まれ、最終ラインは相手の二次攻撃に備えて下がらざるを得ない。
城南は一度も主導権を握れないまま、前半を終えた。
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2.窒息する個
ハーフタイム。
城南のベンチで、吉良剛監督が動いた。
「後半、頭から行くぞ。林、ジャック、クアン」
ベンチを温め続けていた新入生トリオに、出場の声がかかった。
クアンの瞳に獰猛な光が宿る。ジャックは太い首を鳴らし、林は淡々とスパイクの紐を結び直した。
及川に代えて林がセンターバック、阿部航平に代えてジャックがインサイドハーフ、鎌田翔太に代えてクアンが左ウイングへ入る。
個の能力で局面を打開する、勝負の交代だった。
だが、ピッチに足を踏み入れた三人を待っていたのは、冷徹な現実だった。
後半3分。
城南が自陣深くでルーズボールを拾う。諸島からの長いパスが、左サイドで待つクアンへ通った。
「俺の足を見ろ!」
クアンが一気に加速する。
対峙するのは、青森の一年生左サイドバック、三戸蓮司。
三戸は慌てて飛び込まなかった。低い姿勢を保ち、半身でステップを踏みながら縦への進路を消していく。
そこへ、中央から棟方がカバーに入った。
二人に挟まれたクアンは、強引に突破しようと身体をねじ込む。しかし、三戸のショルダーチャージでバランスを崩し、ボールをタッチラインの外へ押し出された。
「クアン! 一人で突っ込むな、中に預けろ!」
諸島の叫び声も、結果を急ぐクアンの耳には届かない。
中盤ではジャックがボールを奪おうと突進する。
だが、沢田は力勝負に応じなかった。ジャックが身体を寄せた瞬間、ワンタッチで味方へボールを逃がす。すぐに動き直してリターンを受け、今度はジャックの背後へ侵入した。
ジャックが誇るパワーは、相手の判断ひとつで空回りしていた。
最終ラインでも、問題が起きていた。
青森がボールを奪い返し、素早くカウンターに移る。鳴海が斜めに走り、林のマークを外して左サイドバック千葉悠斗の背後へ流れた。
「林、絞れ! 鳴海を追え!」
佐々木拓海が叫ぶ。
しかし、林は中央から動かなかった。
「私の守備区画は中央だ。大外へのカバーは、サイドバックが対応すべき領域だろう」
その判断が生んだスペースを、青森は見逃さなかった。
鳴海から中央へ折り返されたボールに対し、諸島が必死のスライディングでコーナーキックに逃れる。
三人とも、自分の武器を信じていた。
だからこそ、自分の武器が通用しないとき、次に何をすべきかを知らなかった。
そして後半38分。
決定的な瞬間が訪れた。
城南陣内深く、タッチライン際で青森のスローイン。
ボールを手にした三戸が助走をつけ、両腕を大きくしならせた。
放たれたのは、矢のような軌道を描くロングスローだった。
ボールがペナルティエリア中央へ落ちてくる。
ニアサイドに飛び込んだ鳴海に対し、林が長身を生かして競り合う。しかし、鳴海は空中で強く身体をぶつけ、林の着地を乱した。
こぼれたボールに飛び込んだのは、主将の棟方だった。
泥臭く押し込まれたシュートが、城南のゴールネットを揺らす。
0―2。
間もなく、試合終了のホイッスルが冷たい春風の中に鳴り響いた。
ピッチの中央で、棟方が倒れ込んだクアンと林を見下ろした。
「高体連の甘えた個人技じゃ、この網にはかすりもしない。……出直してこい」
その言葉には、単なる勝者の驕りとは違う響きがあった。
全国王者のトップチームには上がれない。それでも、セカンドチームとして積み重ねてきたものがある。規律を守り、役割を果たし、互いの不足を補う。その誇りを、棟方は譲るつもりがなかった。
開幕二連勝の熱気は消え去った。
城南の選手たちは、泥にまみれたまま立ち尽くしていた。
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3.泥濘の双撃
完敗の衝撃が冷めやらぬ翌週。
四月第四週の日曜日。岩手県遠野市。
城南高校はアウェイの地に乗り込み、高円宮杯プリンスリーグ東北第4節を迎えていた。
対戦相手は、岩手サッカーの象徴として知られる、泥臭い伝統を誇る遠野市立高校。
前節の敗戦を受け、吉良監督は林、ジャック、クアンの三人を先発に抜擢した。
だが、チームの機能不全は解消されるどころか、より深い泥沼へと沈みかけていた。
遠野の中核を担うのは、二年生の双子。兄の菊池蒼と、弟の菊池碧だった。
物静かな佇まいの兄・蒼がピッチ全体を俯瞰し、気性の激しい弟・碧が爆発的な初速でスペースを切り裂く。
幼少期から培われた阿吽の呼吸が、城南の急造の布陣を容赦なく切り裂いた。
前半21分。
遠野が先制する。
中盤の底でボールを拾った蒼は、前線を見ないまま右サイドの裏へスルーパスを放った。
視線も身体も中央へ残したまま、最後の瞬間に足首の角度だけでコースを変える。
そこへ、トップスピードで走り込んできたのが弟の碧だった。
林は、自分の担当区画の外側を疾走する碧に反応しきれない。カバーに入った千葉も、碧の鋭い切り返しについていけなかった。
碧の左足から放たれたシュートが、工藤のニアサイドを撃ち抜く。
0―1。
「林! だから絞れと言っているんだ!」
諸島が怒号を飛ばす。
林は眉間に皺を寄せ、視線を逸らした。
「私の計算上、あの位置からのスルーパスは成立しないはずだった。外側のカバーはサイドバックの責任だ」
「責任論をしてる場合か!」
互いに不満を募らせる中、攻撃でもクアンが単騎で仕掛けては遠野の分厚いブロックに潰される。
前半40分。
クアンが独走の末にボールを失った。
遠野は素早く攻守を切り替え、蒼が中央でボールを受ける。碧は一度ボールから離れ、城南の守備陣の視界から消えた。
次の瞬間、蒼のパスが再び右サイドの裏へ走る。
碧が走り込む。
城南の最終ラインが反応したときには、もう遅かった。
折り返しを受けた遠野の選手が冷静に押し込み、追加点を奪う。
0―2。
ハーフタイム。
城南のベンチを重苦しい空気が支配していた。
後半に入り、意地を見せたのはジャックだった。
後半14分。
遠野のビルドアップに対し、ジャックが雄叫びを上げて突進する。
相手ボランチが身体を寄せてきた瞬間、ジャックは強引に押し切り、ルーズボールを奪い取った。
そのまま前へ運ぶ。
味方を探す余裕も、周囲を確認する冷静さもなかった。
ジャックは約30メートルの距離から右足を一閃した。
地を這う弾丸のようなミドルシュートが、遠野のゴールネットに突き刺さる。
1―2。
力づくでもぎ取った追撃弾に、ジャックが雄叫びを上げた。
だが、チームとしての連動を欠く城南は、その後も攻め手を欠いた。
クアンは仕掛ける。ジャックは奪いに行く。林は自分の位置を守る。
それぞれが自分の仕事をしているつもりだった。
しかし、三人の動きは互いを助けるどころか、味方の選択肢を狭めていた。
ピッチ上で苛立ちが交錯する。
時計の針は、後半35分を回ろうとしていた。
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4.逆取りの切っ先
ピッチが機能不全に陥る中、前線の中央でただ一人、静かに盤面を観察し続けている男がいた。
背番号29、吉良氏真。
(個がどれほど叫ぼうと、盤面は動かぬ。だが、相手の執念が一点に集まる瞬間、必ず反作用の隙が生まれる)
遠野の選手たちの意識は、同点を防ぐことに向けられていた。
そして何より、城南のエースである氏真を封じ込めること。その意識が、守備陣の判断を鋭くしていた。
後半36分。
中盤の泥濘で、諸島がスライディングでボールを奪い返した。
倒れ込みながらも、迷わず前線の中央へ鋭いグラウンダーのパスを通す。
ボールの先には、ペナルティエリア手前で背を向けて構える氏真がいた。
その瞬間、遠野の守備陣が収縮した。
背後からセンターバックが身体をぶつけに来る。中盤からは蒼がプレスバックし、前後から氏真を挟み込もうとする。
だが、氏真は押し返さなかった。
相手の体重が背中に乗る直前、胸郭と肩甲骨の力を抜く。身体を硬直させず、わずかにたわませて衝撃を受け流した。
踏ん張って相手を弾き返すのではない。
相手が力を込めた瞬間、その力を受け止める位置をわずかにずらす。
氏真の身体が、相手の圧力に合わせて小さく揺れた。
そして、首をわずかに右へ傾ける。
目線だけを、ファーサイドのゴール左隅へ送った。
その視線を追ったのは、蒼だった。
ファーへのシュートか。
蒼がわずかに重心を移す。背後のセンターバックも、シュートコースを塞ぐために身体を開いた。
その一瞬。
氏真の左足が動いた。
強く蹴るのではない。
諸島のパスが持つ勢いを殺さず、脱力した足首のインサイドでボールの進行方向をわずかに変える。
ボールは相手の足の陰を抜け、氏真の身体の前へ転がった。
重心をファーへ預けた蒼が、反転しようとする。
しかし、氏真はもう次の動作へ移っていた。
相手の身体を軸にするように、最小限の歩幅で前を向く。
GKがニアサイドを警戒して一歩踏み出した、その足元。
氏真は右足のインサイドで、ボールを静かに転がした。
「トラップからゴールへのパス」。
強引にシュートを打つ必要などなかった。
最初のタッチで相手の重心をずらし、次のタッチで空いたコースへ流し込む。
ボールはGKの伸ばした右手の先を抜け、ニアサイドのネットを揺らした。
2―2。
グラウンドが、息を呑むような静寂に包まれた。
「……なっ、何だ、今の……!?」
蒼が呆然と氏真の背中を見つめる。
弟の碧も、唇を噛み締めて立ち尽くしていた。
力でねじ伏せられたのではない。
自分たちが連動して仕掛けた挟撃を、視線と重心のわずかな変化によって逆手に取られたのだ。
その後、城南はクアンが単騎で持ち込んで決定機を迎えたものの、シュートは枠を外れた。
試合はそのままタイムアップ。
2―2の引き分け。
辛うじて勝ち点1を拾い上げたものの、ピッチに残されたのは勝利の手応えではなかった。
個の力で局面を変えることはできる。
だが、それだけでは試合全体を支配できない。
氏真のゴールが証明したのは、城南の希望であると同時に、残された課題の大きさでもあった。
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5.散乱したピース
試合後のアウェイロッカールーム。
重苦しい沈黙を破ったのは、主将・諸島憲二の激昂だった。
ドカン、とパイプ椅子が蹴り飛ばされ、乾いた金属音が室内に響き渡る。
「いい加減にしろ! お前たちのサッカーは完全にバラバラだ!」
諸島が肩を激しく上下させ、新入生たちを睨みつけた。
「クアン、お前は前線で孤立してボールを失ってばかりだ! ジャック、中盤で奪ったあと、周りを見ずに持ちすぎるな! そして林! お前はなぜ仲間をカバーしない! 失点はお前の持ち場の脇から生まれてるんだぞ!」
クアンが弾かれたように立ち上がった。
浅黒い顔を真っ赤に染め、諸島に食ってかかる。
「俺が一人で決めなきゃ意味がねえんだよ! 家族に豊かな暮らしをさせるために、俺は日本に来たんだ! パスを出して誰かに頼って、それで負けたら誰が責任取ってくれるんだよ!」
「お前一人で勝てるなら文句は言わん! だが、現実に二試合勝ててないだろうが!」
「なんだと……!」
「諸島主将、感情論は無意味だ」
林が冷淡な声で割って入った。
腕を組み、冷ややかな視線を諸島へ向ける。
「私の守備タスクは中央の防衛にある。組織の綻びを個人のアドリブで埋めるのは非合理的だ。失点の原因は、サイドバックのポジショニングの甘さに帰結する」
「てめえ……!」
クアンが林の胸ぐらを掴み上げた。
百九十センチの林が眉をひそめ、見下ろす。
「離せ。暴力は最も生産性の低い行動だ」
「偉そうに理屈ばっかり並べやがって! お前が動かねえから失点してんだろうが!」
「ヘイ、ストップ! クールダウンだ、ブラザー!」
ジャックが慌てて二人の間に割って入る。
だが、室内の空気は最悪の臨界点に達していた。
上級生たちも呆れと怒りで口を噤み、佐々木拓海が深いため息を吐く。
そのときだった。
バタン、とロッカールームの引き戸が勢いよく開いた。
「――はいはい、そこまで! 不毛な小競り合いは即刻終了!」
飛び込んできたのは、早川舞だった。
手には、いつものタブレット端末。
息を切らしながらも、その瞳には理知的な光が宿っていた。
「舞……?」
諸島が怪訝な顔をする。
舞は三人の様子を一瞥し、ホワイトボードの前へ歩み寄った。吉良監督の許可を得て、試合映像と動線データを壁面へ投影する。
色鮮やかな点と線が、画面いっぱいに広がった。
「見て。これが今日の試合のポジショナルマップと動線データ。ウチが映像と照らし合わせて分析した、客観的な事実だよ」
舞が画面を指で叩く。
「まずクアン。あんたのスプリント、速さは本当にすごい。でも、ボールホルダーから見て相手の陰に入ってしまう走り方が多い。トップスピードに乗るのが早すぎて、味方がパスを出せるタイミングには、もう通せない位置まで行っちゃってるの」
クアンの表情が険しくなる。
「今日だって、諸島先輩がボールを持った瞬間に走り出してる。でも、相手の守備者の背後を取る前に加速しきっちゃうから、パスを出せるコースがなくなってる。速く走ることと、パスを受けられる場所に走ることは別なんだよ」
クアンは反論しかけ、口を閉じた。
映像の中で、自分の走路が相手の影へ消えていく。
「次に林。あんたが中央の定点からほとんど動かないせいで、千葉先輩が広い範囲を一人でカバーすることになってる。千葉先輩が戻りきれなくなった外側を、遠野の碧選手に使われた。中央を守ることは大事。でも、中央に立ち続けることが、中央を守ることとは限らないんだよ」
林の喉が微かに動いた。
腕時計へ伸ばしかけた手が止まる。
「そしてジャック。ボールを奪う力は十分。でも、奪った瞬間に周囲を確認できていない。相手を押し切ってボールを持っても、その間に味方がどこへ動いたかを見ていなければ、パスコースは消えてしまう」
舞は三人を順番に見た。
「三人とも、自分の得意なことはやってる。でも、味方が何をしようとしているかを見てない。突出した才能を持った三人が、ピッチの上でお互いの首を絞め合ってるんだよ」
言い終えた舞は、タブレットを胸元へ抱えた。
「……これじゃ、勝てるわけないじゃん」
ロッカールームが静まり返った。
感情論の怒号には反発できる。
だが、映像に残された自分の動きは否定できなかった。
クアンは、自分の走りが味方の選択肢を奪っていたことを知った。
林は、守っているつもりの中央が、かえって仲間を追い詰めていたことを知った。
ジャックは、力で奪ったボールを、力だけで扱おうとしていたことを知った。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
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6.解かれし結び目
重苦しい沈黙が支配する中、ベンチの隅から静かな足音が響いた。
吉良氏真だった。
氏真はゆっくりと立ち上がり、ホワイトボードの前へ進み出る。
その表情には、怒りも失望もなかった。
「舞、見事な分析だ。ありがとう」
短く会釈してから、新入生トリオへ視線を向ける。
「クアン。林。ジャック」
名を呼ばれた三人が顔を上げた。
「君たちのエゴを、僕は否定しない。家族のために這い上がろうとする渇望も、理を重んじる矜持も、己の力を信じる豪気も、どれもフットボーラーとして尊い武器だ。その尖りがあるからこそ、君たちはここにいる」
三人を責める言葉ではなかった。
氏真は、彼らが抱える野心を真正面から肯定していた。
「だけど――自分の刃を研ぐことと、その刃で味方を切り裂くことは違う」
氏真はホワイトボードのペンを手に取った。
ピッチの図に、三つのポジションと、そこから伸びる曲線を描き込んでいく。
「自分が最も活きる道とは何か。それは、味方を殺すことじゃない。味方の視界の中に、自分の力を差し出すことだ」
ペン先が、クアンのポジションから弧を描いた。
「クアン。君の速さは素晴らしい。だけど、直線の速さは相手も読みやすい。最初から全力で走るんじゃなく、最初の一歩で相手の背中を取るように、わずかに弧を描いてみてほしい」
クアンは図を見つめた。
「そうすれば、走りながら僕の位置を確認できる。僕も君の動きを見て、パスを出すタイミングを選べる。君の速さは、味方が使える速さになって初めて、チームの武器になる」
クアンの瞳が揺れた。
自分の速さを抑えろと言われたのではない。
速さを、より生かす方法を示されたのだ。
氏真は次に、林のポジションへペンを動かした。
「林。君の理屈は筋が通っている。中央を守るのは、センターバックの重要な仕事だ。だけど、ピッチは固まった図面じゃない。味方が一歩遅れたとき、相手が想定外の場所へ走ったとき、図面のほうが現実に追いつかなくなる」
林は黙って耳を傾けていた。
「千葉先輩が相手に抜かれたら、君が一歩だけ外へ出る。その一歩で相手の進路を遅らせられれば、千葉先輩が戻る時間を作れる。空間を守ることと、味方を助けること。その二つを切り離さないでほしい」
氏真はペンを止めた。
「味方の呼吸を救うために動く。それも、真の合理じゃないかな」
林が眼鏡の奥の瞳を見開いた。
固定された担当区画を守ることが、自分の役割のすべてだと思っていた。
だが、味方の位置が変われば、自分の役割も変わる。
それは理屈を捨てることではない。理屈を、現実に合わせて更新することだった。
最後に、氏真はジャックへ向き直った。
「ジャック。君の肉体は城壁のように頼もしい。相手を押し切ってボールを奪えるのは、君の大きな武器だ」
「オーケー、ミスター・ウジザネ」
ジャックが真剣な顔で頷く。
「でも、奪った瞬間に力を込め続ける必要はない。相手を押し切ったら、ふっと息を吐いてみてほしい。肩の力が抜ければ、首を振って周囲を見る余裕も生まれる。君が一人でボールを守り続ける必要はないんだ」
ジャックは、自分の逞しい両手を見つめた。
力を使うことばかり考えていた。
力を抜くことで、次のプレーが生まれる。
その発想は、彼にとって新鮮だった。
氏真はペンを置き、三人を真っ直ぐに見据えた。
「僕に従えと言うつもりはない。君たちの武器を捨ててほしいわけでもない」
一呼吸置く。
「ただ、互いのエゴをぶつけ合うのはもうやめよう。僕が結び目になる。君たちの尖った力を、僕の足元に預けてみてほしい。必ず、君たちが最も輝く形で、その力を解き放ってみせる」
静寂が落ちた。
クアンが拳を握りしめ、顔を上げる。
「……氏真さん。俺に、その軌道を走らせてください」
林は深く息を吐いた。
「味方の呼吸を救う防衛……。検証する価値は極めて高い。諸島主将、先ほどの非礼を謝罪します」
ジャックが白い歯を剥き出しにして笑った。
「オーウ! ミスター・ウジザネ、ユーの言う通りだ! ミーのパワーは、チームを勝たせるために使うべきだったネ!」
三人の表情から、さっきまでの険しさが少しずつ消えていく。
まだ、何も成し遂げてはいない。
だが、自分の武器をどう使えばいいのか。その答えを、自分以外の誰かと探す準備ができた。
諸島が呆気にとられたように氏真を見つめ、それから小さく笑みをこぼした。
「……本当にお前は、底が知れないな」
その日の夜。
盛岡へ戻った城南高校の第二グラウンドには、夜間照明の白い光が灯っていた。
疲労の残る身体を推して、氏真、諸島、八重樫、そして新入生トリオがピッチに立っていた。
最初から、すべてが噛み合ったわけではない。
クアンは膨らみすぎて減速し、林はカバーに入るタイミングを測りかねて立ち止まる。ジャックはボールを離すのが一瞬遅れ、氏真の足元と呼吸が合わない。
そのたびに、彼らは言葉を交わした。
怒号ではない。
次の一歩をすり合わせるための、短い確認だった。
「クアン、あと半歩外だ」
「林、今のタイミングでいい」
「ジャック、首を振った瞬間に僕を見るんだ」
何度も繰り返す。
失敗しては、立ち位置を変える。
パスが届かなければ、走り出すタイミングを変える。
誰かが遅れれば、残りの選手がその時間を埋める。
やがて、パスの音が少しずつ変わっていった。
クアンがわずかに弧を描いて抜け出す。
その動きを見た氏真が、相手の守備者が足を踏み出す直前にスルーパスを通した。
クアンはトップスピードのままボールを受け、ゴール前へ折り返す。
そこへジャックが走り込んだ。
今度は、受ける前に周囲を確認している。
ジャックは無理にシュートを打たず、ワンタッチでボールを落とした。
林がその背後をカバーし、こぼれ球を拾う。
一人が前へ出れば、誰かが後ろを埋める。
一人がボールを持てば、誰かが受ける場所を作る。
まだ粗削りな連係だった。
それでも、ボールが巡るたびに、選手たちの表情から険しさが消えていく。
ベンチで見つめる吉良監督の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「ようやく、産声を上げたな」
春の夜風が、グラウンドを吹き抜けていく。
北の洗礼を浴び、己の未熟さを知った少年たちは、ようやく互いの力をつなぐ方法を探り始めた。
まだ、勝てるチームになったわけではない。
だが、個々の才能が互いを傷つける段階から、互いを生かす段階へ。
その一歩は、確かに踏み出された。
五月のゴールデンウィーク連戦。
剛と雅が一つの形を結び始めた城南の、本当の反撃が始まろうとしていた。




