第155話:【春を待つ街】
【あらすじ】
氷に覆われた盛岡の冬。欧州で磨いた技術も、学力試験も、氏真に新たな課題を突きつける。仲間の支えを受けながら迎える卒業の日、そして春。百十人の部員が待つピッチで、氏真の新たな戦いが始まろうとしていた。
1.白銀の重心
一月上旬、午前六時。
吐いた息は、白くなる間もなく後ろへ流れていく。ネックウォーマーの縁が、呼気の湿り気で細かく凍りついていた。北上川沿いの遊歩道は、昨夜の雪が踏み固められ、ところどころに青みを帯びた氷の層をつくっている。
氏真はその上を走っていた。
最初の百メートルで、足は二度すくわれた。
芝の上でやってきたとおりに、斜め後ろへ強く蹴り出す。押した分だけ身体が前へ出る、はずだった。だが靴底は氷の上を後ろへ滑り、腰が先に泳いだ。バルセロナで叩き込まれた、接地の瞬間に地面から力をもらうやり方が間違っているわけではない。ただ、この路面が受け止められる力の上限は、芝よりずっと低かった。
(予は、押しすぎていた)
押すのをやめるのではない。氷が受け止められる分だけ、押す。
歩幅を詰めた。上体を少し起こし、骨盤を立てる。足を置く位置を、重心のほぼ真下まで引き寄せた。後ろへ蹴り出す力を抑え、接地の力が水平方向へ逃げないようにする。短く、素早く、体重を乗せ切る前に次の足へ渡す。
靴底がふっと滑りかける。そこで脚を突っ張らない。膝と足首を柔らかく使い、滑り始めた足を無理に止めようとせず、重心が崩れる前に次の足を運ぶ。
二十歩、三十歩。接地のたびに、足裏が滑る前のざらつきを拾えるようになってくる。滑ってから直したのでは遅い。滑りそうな気配のうちに、力の向きを変える。
欧州で身につけたものを、捨てたわけではなかった。接地の瞬間の重心の位置も、足首の使い方も、氷の上のほうがごまかしが利かない。バルセロナで覚えた動きの意味を、北国の氷が一つずつ確かめさせてくれていた。
それでも、足が冴えるほどに、別の不安が重くなる。
内部進学認定試験は、数日後に迫っていた。
中三の秋に欧州から編入した氏真には、秋までの内申点がない。城南高校へ内部進学するには、五科目の学力審査で基準を超えなければならなかった。合格は五科目合計で三百五十点以上。ただし、一科目でも五十点以下があれば、合計にかかわらず不合格になる。
「高校は義務教育じゃない」
叔父であり、城南高校サッカー部監督でもある吉良剛の言葉が、耳に残っていた。
「城南は文武両道だ。実績があろうと、学ぶ姿勢のない者をそのまま上げるわけにはいかん。不合格なら補習と再試験だ。春のトップチーム合流は、白紙に戻す」
英語は問題ない。ほぼ満点を取れる。だが残りの四科目は、五十点台前半を行き来していた。数学の関数と証明、理科の用語、近現代史の因果、現代文の記述。一科目の転落が、そのまま春の合流を閉ざす。
氷の上なら、足が滑る前に知らせてくれる。答案は、書き終えるまで何も言わない。
氏真は走る速度を落とさないまま、白い息の向こうの川面を見た。
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2.冬の補習教室
冬休み中の校舎は、暖房の入った教室だけが明るかった。補習のために開放された一室で、石油ストーブが低く唸っている。
「吉良くん、ここ。移項したのに、符号が変わってない」
八幡栞は氏真の横に立ったまま、シャープペンの先でノートの一行を指した。
少し大きめの眼鏡に、きっちり結んだ三つ編み。明青中等部で学年首席を維持している彼女は、普段は教室で声を張るほうではない。その栞が、冬休みに入る前、自分から言い出したのだった。数学と国語の記述なら、自分が教えられる、と。
「……本当だ。マイナスを落としてる」
「考え方は合ってるの。途中を頭の中で済ませて、答えだけ書くから、こういうところが抜ける」
氏真は消しゴムへ伸ばしかけた手を止めた。
「消さずに、下へ全部書き直す。どこで落としたのか、あとで見返せるように」
栞が瞬きをした。
「……うん。それが、いちばん早い」
氏真はノートの余白に、科目ごとの線を引いた。
「正直に言う。数学の関数と、国語の記述が弱い。社会は、人物や出来事は頭に入っているのに、順番が崩れる。英語は、君の時間をもらわなくていい」
「じゃあ英語は飛ばして、その分を数学に回すね」
栞はあっさり頷いて、鞄から付箋の束を出した。
「社会は、人物じゃなくて、原因と結果で並べ直そう。吉良くん、大名の名前も合戦の配置も言えるのに、年号になると急に自信がなくなるから」
彼女のまとめノートには、これまでに氏真が解いた問題の誤答が、色分けした付箋で貼り分けてあった。計算の落とし、設問の読み違い、知識の順序。三種類しかなかった。
「吉良くんの間違いは、分からないんじゃなくて、飛ばしてるのが多いの。試験って、答えを出す競技っていうより、考えを採点する人に渡す競技だと思う」
言ってから、栞は少し困ったように眼鏡を押し上げた。
「サッカーのことは全然詳しくないのに、ごめん。でも、パスも、受け取る人が分かるように出すものでしょう?」
「近いと思う」
氏真は答えた。
「受け手が読めないパスは、出した側のミスだ。いまの僕の答案が、まさにそれだ」
栞は小さく笑い、ストーブの赤い火に目を落とした。
「それにね。これ、親切でやってるだけじゃないの。吉良くんに説明しようとして、自分の解き方を言葉にしたら、あやふやだったところが見つかった。私にも得なんだよ」
「それでも、助かってる」
「だったら、お礼は合格してから言って」
窓の外のグラウンドは、雪に埋もれていた。その片隅で、氏真が毎日、同じ時間にボールを蹴っていたことを、栞は教室の窓から知っていた。
「ボールの音、ずっと同じ間隔で聞こえてたから。……吉良くんが春に高校へ行けなくなるのは、嫌なの。私が」
最後の一言だけ、声が少し強かった。
氏真は頷いて、新しいページを開いた。
それから試験の前日まで、彼は解き直しを書き込んだノートを持って、毎日この教室に来た。符号を落とした行の下には、同じ問題がもう一度、一行ずつ、省略なしで並んでいた。
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3.合格の掲示と母への報告
一月中旬、明青中等部の掲示板の前には人だかりができていた。
『高校内部進学認定試験 合格者発表』
氏真は人の後ろから受験番号を探した。先に見つけたのは、隣に立つ栞のほうだった。
「……あった。吉良くん、あった」
声は小さかった。バインダーを抱える彼女の指先が、白くなっている。
国語、七十八点。数学、七十五点。理科、八十点。社会、八十四点。英語、九十九点。合計、四百十六点。
氏真は一科目ずつ、順に読んだ。足切りの五十点も、合計の三百五十点も、ずっと下にあった。
「数学の二問目、君のノートにあった型がそのまま出た。あれがなければ、半分は落としてた」
「解いたのは吉良くんだよ。私は、道を教えただけ」
「どっちもだと思う。君のノートと、書き直した自分と。片方だけなら、足りなかった」
栞は何か言いかけて、息を吐いた。強ばっていた肩が、そこでようやく下がった。
「……最初はね、何でもできる人だと思ってた」
「いまは?」
「ストーブの前で、ノートに頭突きしそうな顔してた人」
氏真が思わず笑うと、栞も眼鏡の奥で目を細めた。
「ありがとう、八幡さん」
氏真は短く頭を下げた。
その日の夕方、氏真は盛岡市内の療養施設を訪ねた。
日当たりのよい病室だった。窓の外では、軒先のつららの先端だけが、午後の日を受けて濡れている。
ベッドの背を起こした母、有理は、氏真が差し出した合格通知書を両手で受け取った。すぐには読まず、紙の端を指で伸ばしてから、成績の欄に目を落とす。
指が、点数を一行ずつなぞった。英語のところで止まる。
「九十九。一点は、どこで落としたの」
「スペルを1つスペイン語で書いてた。」
「あなたらしいわね」
有理は小さく笑って、そのあと少し息を整えた。
「母さん。叔父さんにも、八幡さんにも助けられました。答えの書き方から、直されて」
「いやじゃなかった?」
「最初は、少し悔しかったです。ただ、自分のやり方が間違いだったとは思いません。足りないところがあって、それを人に見てもらわないと、気づけなかっただけで」
「それで、聞いたの」
「聞いたほうが、早かったので」
有理は声を出さずに笑った。肩が小さく揺れる。
「枕元に置いてくれる? 見えるところに」
氏真は通知書を、サイドテーブルの端に立てかけた。有理の指が、氏真の手の甲に触れた。冷たくて、軽い。
「試合の話、また来たときに聞かせてね」
「はい。ちゃんと、話します」
窓の外で、つららの先から水が一滴落ちた。
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4.三月一日の旅立ち
三月一日。盛岡城南高校の卒業式は午前中に終わり、昼過ぎの部室棟の前には、制服の胸にコサージュをつけた三年生たちが集まっていた。日陰には、固く締まった雪がまだ残っている。
中等部の氏真は、式には出られない。それでもこの場にいるのは、監督の吉良剛に言われていたからだった。
「見送りには来い。お前も、先輩たちと一緒にボールを蹴ってきた一人だ」
前主将の飯岡圭は、新主将の諸島憲二から花束を受け取っていた。
「諸島、あとは頼んだ。遠野を倒して、全国へ行け」
「はい」
短い返事だった。諸島は声を張ることも、約束を重ねることもなく、ただ一礼した。副主将だった畠山壮太が、その横顔を見て鼻で笑う。
「相変わらず、動かねえな」
「畠山さんが、騒がしすぎるんです」
真顔で返す諸島に、飯岡が吹き出した。
部室棟の前のベンチには、スポーツバッグが口を開けて置かれていた。部室のロッカーは、もう空だという。その前で、久保田誠が最後の一足を手に取っていた。
「久保田、まだ詰めてんのか。式より長えぞ」
「うるせえ。三年分あるんだよ」
畠山に言い返す久保田のほうへ、氏真は歩いた。
「久保田さん」
「おう、吉良。受かったんだってな。監督から聞いた」
久保田は手にしたスパイクの泥を、タオルで拭っていた。ポイントは、削れて丸くなっている。公式戦のピッチには、一度も立たなかった靴だった。それでも、底の減り方は、毎日走った人間のものだった。
「来月から、出るんだろ。公式戦」
「入学してからです。それまでは、出られません」
「出ろよ」
久保田はスパイクをバッグに入れ、ジッパーの端を指でつまんだ。
「あの日、『三年間ここにいたことは、嘘にはならない』って言っただろ。あれは本当だ。でもな、報われたとは言ってねえ。悔しいのは、今も悔しいままだ」
氏真は黙って聞いていた。
「出られる枠は決まってる。俺は、その中に三年間、一回も入れなかった。お前が出るってことは、誰かが出られないってことだ。そこは、悪いと思うな。思わねえのも、違う。……ただ、知っとけ。枠の外で、毎日ボール磨いてた人間がいたってことを」
「はい」
氏真は言った。
「背負う、とは言えません。でも、忘れません」
久保田は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「背負われても、重いだけだ。それでいい」
ジッパーを閉め、グラウンドの端に置かれたライン引きのほうへ、久保田は顎をしゃくった。
「あれ、石灰が湿ると固まって詰まる。使ったら必ず空にして、ブラシで払っとけ。……三年かけて覚えたのは、それと、あの石灰の匂いくらいだ」
冗談の形をしていた。ただ、言い終えた久保田の口元は、笑っていなかった。
氏真は一礼した。大げさにならない角度で、少しだけ長く。
「聞きました。覚えます」
「おう。じゃあな、吉良」
久保田はバッグを肩にかけ、校門のほうへ歩き出した。振り返らなかった。追いついた畠山が、その肩に腕を回す。後輩たちの拍手の中を、三年生たちが一人、また一人と門の外へ消えていった。
足音が遠ざかると、グラウンドには冷たい風だけが残った。氏真はライン引きの取っ手に手を置いた。金属は、手のひらに痛いほど冷たかった。
その週のうちに、氏真は監督の指示で、トップチームの練習に合流した。中等部の生徒が高校生に混ざるといっても、ボール回しの輪の中で手加減をする者はいなかった。初日から二日続けて、氏真は上級生にボールを奪われた。
入学前だから、公式戦には出られない。練習に混ざれることと、試合のピッチに立てることは、別の話だった。
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5.春休みの急襲
三月下旬の午後。川沿いの雪はほとんど消え、日陰にだけ灰色の塊が残っている。桜の枝は、まだ固かった。
吉良家の居間で氏真が入学前課題を広げていると、玄関の前で車の止まる音がした。窓から見ると、路地に黒塗りの車が横付けされている。盛岡駅から、早川家が手配したものらしかった。
玄関の引き戸が、勢いよく開いた。
「氏真様ぁーっ! 進学認定試験の合格、お祝いに参りましたわ!」
薄紅色のスプリングコートの裾を翻して、早川愛が飛び込んでくる。片手には金銀の扇子、もう片手には、紫の風呂敷に包んだ三段の重箱。その後ろから、リュックを背負った妹の早川舞が、タブレットを片手に上がってきた。
「姉さま、靴くらい揃えて。……ウジ様、超お久しぶり! 新幹線で来ちゃった。合格祝いと、高校生活の先行アナライズで、一週間滞在するよ」
「愛、舞……! どうして盛岡まで」
「お祝いは、直接言わなければ意味がありませんもの」
愛は胸を張った。重箱の風呂敷を握る手が、少しだけ強くなっているのを、氏真は見た。遠い静岡から、この日のために予定を空けてきたのだと分かる。
「来てくれて、嬉しいよ。ありがとう」
愛の頬が、ぱっと染まった。
そのとき、玄関でまた引き戸が鳴った。
「吉良くん、こんにちは。入学前課題の範囲、まとめ直したのを持ってきたんだけど……」
バインダーを抱えた栞が、居間の入口で足を止めた。
愛の扇子が、ぱちんと開いた。
「……あら。氏真様のお宅に、ずいぶん自然に上がっていらっしゃる方が」
「ひゃっ」
栞の肩が跳ねる。
「愛、こちらは八幡栞さん。クラスメイトで、試験のあいだ、僕の勉強を見てくれた人だ」
「勉強を……見て?」
扇子の骨が軋んだ。
「わたくしが静岡にいる間に、氏真様のお傍で……」
「はい、姉さま、落ち着いて」
舞がタブレットを栞のほうへ向け、画面をスクロールした。
「八幡栞さん。明青中等部の学年首席、城南の特進クラスに進学予定。ウジ様の誤答を分析して、合格ラインまで引き上げた。手腕は認めるよ。でも、高校からのウジ様のサポートは、ウチのデータ班が——」
「あの」
栞がバインダーを胸に抱えたまま、一歩前に出た。
「データは、持っていません。でも、吉良くんがどこで間違えるかは、ノート二冊分、あります」
舞の眉が、ぴくりと上がった。
「見せて」
「見るだけなら」
栞が差し出したノートを、舞は無言で数ページめくった。付箋の色、誤答の分類、解き直しの跡。タブレットを持つ手が、途中で止まる。
「……誤答の分け方、うちのより細かい。これ、写させて」
「写すのは、だめ」
「ケチ」
「だめです」
栞の声は小さいままで、少しも揺れなかった。
愛は扇子で口元を隠したまま、そのやり取りを見ていた。やがて、扇子をゆっくり閉じる。
「……わたくしには、氏真様の勉強を見て差し上げることはできませんでした」
栞が目を丸くした。
「そこは、感謝いたしますわ。栞さん」
「えっ、あ、はい……!」
「ただし」
愛は扇子の先を、栞に向けた。
「氏真様の初戦の応援席は、わたくしが一番に押さえますわよ」
「私も、応援に行きます。席は、早い者勝ちです」
氏真は、三人の顔を順に見た。愛は、熱を前に出す。舞は、目で見て考える。栞は、手を動かして積む。
「愛が遠くから来てくれたのは、嬉しい。八幡さんに助けられたのも、事実だ。舞の調べ物も、きっと役に立つ。どれも本当で、順番はつけられない」
「順番を、つけてくださらないの?」
「つけない」
「ウジ様、それ、いちばん怖い答え方だよ」
気を取り直した愛が風呂敷を解くと、重箱が現れた。一段目から、四人分には収まらない量の祝い膳が詰まっている。三段目では、鯛の姿焼きの頭が、蓋に当たっていた。
「姉さま、鯛、新幹線に乗せたの」
「保冷は、してありますわ」
「八幡さんも、食べていってくれ」
氏真が言った。
「僕一人では、一日かかる」
「え、私も……いいんですか」
「お箸なら、わたくしが並べて差し上げますわ!」
愛はそっぽを向いたまま言った。耳が赤かった。
四人分の箸が並んだところで、氏真は小さく笑った。
「いい春休みになりそうだ。雅、というやつだな」
「どこが雅ですの! わたくし、まだ納得しておりませんわよ!」
「ウジ様の雅、相変わらず基準が分かんない」
「あの……その言葉、何の意味で使っているんですか……?」
栞が真顔で尋ねたのが、決め手だった。愛は扇子で顔を隠して肩を震わせ、舞はタブレットを抱えて壁にもたれて笑い、氏真は笑いをこらえきれずに咳き込んだ。
それからの一週間、三人の支え方は、最後までかみ合わなかった。愛は連日、ホテルから「必勝」と筆書きした半紙と差し入れを届けさせた。舞は、昨季の城南の試合を見た所見を一枚にまとめ、氏真が入る場合に空く動線に印をつけて寄越した。栞は、入学前課題の範囲を、一日ごとの分量に割り直して渡した。声の大きさも、手の動かし方も、三人はまるで違った。氏真は、そのどれも、受け取る側に回った。
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6.春を待つピッチ
三月最後の日曜、午前九時。
盛岡城南高校の第2グラウンドは、夜の冷え込みで表面だけが凍り、日が当たるにつれて、足の下から黒くぬかるんでいく。北側のフェンス際には、灰色に汚れた雪が、まだ小さな山を作っていた。
新シーズン最初の全体集合だった。部員は、およそ百十人。前列にトップチーム、その後ろにBからDまでの各チームが、カテゴリーごとに並んでいる。氏真が三月上旬からトップの練習に加わっていることは、全員が知っていた。ただ、全部員の前に立つのは、これが初めてだった。
吉良監督は、ベンチの前で腕を組み、何も言わなかった。前に出たのは、新主将の諸島憲二だった。
「三年生が抜けた。新しいシーズンが始まる」
低く、落ち着いた声だった。一人ひとりの顔を順に見るだけで、列のざわめきが引いていく。
「トップに残る者も、上がってくる者も、条件は同じだ。出られる枠は限られている。それを全員が分かったうえでやれ」
それから、諸島は氏真のほうを向いた。
「吉良。前へ」
氏真は列から出て、一歩前へ進んだ。
「入学式は来週。リーグの開幕は四月だ。入学を済ませるまで、お前は公式戦に出られない。だが、それまでの練習は、全員が見ている。そのつもりでいろ」
「はい」
氏真は部員たちに向き直った。
「吉良氏真です。入学は来週ですが、練習には先に参加させてもらっています。足りないところは、教えてください。よろしくお願いします」
前列で、数人が頷いた。腕を組んだままの二年生が一人、目を合わせないまま、氏真の足元から顔までを視線で測った。中ほどの列では、「あれが」と囁く声が漏れる。最後列では、ビブスの束を抱えた下の学年の部員が、列の端を興味なさそうに見ていた。百十人のうち、リーグ戦のピッチに立てるのは、ごく一部だ。そこにいる誰もが、それを知っていた。
「以上。ウォーミングアップ」
諸島の一声で、集合は解けた。
最初のメニューは、ボール回しだった。
氏真の足元に、パスが来る。ぬかるんだ土の上で、ボールは芝より早く勢いを失った。芝のつもりで置けば、一歩ぶん遅れる。氏真は足を出す前に、接地する場所の土の状態を確かめた。氷は、滑る前にざらつきで知らせてきた。この土は、踏み込んだ足が沈む感触で、地面の状態を知らせてくる。踏み込みを短くし、トラップを身体に近い位置へ寄せ、次の一歩を引き抜ける深さにとどめた。
輪の外から、腕を組んでいたあの二年生が詰めてくる。氏真は一歩目を短く踏み、身体を半身に開いてボールを逃がした。相手の足が空を切る。
三回目に、その二年生にボールを奪われた。
「甘い」
短く言い捨てて、二年生は輪に戻っていく。
「はい」
氏真は答えて、自分の位置に戻った。悔しさより先に、足が次のボールを待っていた。
笛が鳴る。ボールが、また氏真の足元へ転がってきた。
北側のフェンス際の雪は、昼前には、少しだけ小さくなっていた。




