第154話:【引退の日】
【あらすじ】
大会を終え、三年生たちの引退の日が訪れた。公式戦に出られなかった久保田が語った「三年間は嘘にはならない」という言葉に、氏真の価値観が揺れる。そして、新たな主将に指名された諸島は、春に向けてチームを動かし始める。
1.畳まれた濃紺
大会から明けた月曜日の放課後、盛岡城南高校サッカー部の部室には、いつもと違う匂いが満ちていた。
乾いた土と染み込んだ汗の匂いの奥に、洗濯洗剤と柔軟剤の清潔な香りが混ざり合っている。
部屋の中央にある木製の長机の上には、皺ひとつなく端を揃えて畳まれた公式戦用のユニフォームが並べられていた。
背番号『1』から『20』まで。
濃紺の生地の胸元にプリントされた白い校名が、天井のLED照明の白い光の下で規則正しく並んでいる。
キャプテンの飯岡圭が、一番上に置かれた『10』のシャツの襟元を、指先で静かに整えた。
準決勝のピッチで泥まみれになり、クロスバーを叩いたシュートの後に芝へ突っ伏していたあの姿は、もうどこにもない。
泣き腫らした瞼の赤みだけを残し、太い首を引いて静かに佇んでいた。
部屋には三年生十人と、新チームの軸となる二年生、一年生の姿があった。
「佐々木」
飯岡が呼ぶと、二年生のセンターバック・佐々木拓海が一歩前に進み出た。
飯岡はジャージのポケットから、塗装の剥げかけた真鍮の鍵を取り出した。
部室の南京錠と、グラウンド脇の用具小屋を開けるための鍵束だった。
「これ、預けるぞ。戸締まりとボールの空気圧、毎朝確認しろよ」
「……はい」
佐々木の両手が、その重みを受け止める。
隣では、副キャプテンの畠山壮太が二年生の千葉悠斗の肩を無言で引き寄せ、背中を一度だけ叩いていた。
右サイドバックの菊池陸は、自分が三年春から使っていた革製のレガース止めを、同じポジションの後輩のバッグの上に置いた。
「あとは頼む」
「遠野に、借りを返せよ」
交わされる言葉は短く、声の調子も平坦だった。
昨日のピッチですべてを出し切ったからこそ、この部屋に残っているのは、淡々とした日常の引き継ぎだけだった。
氏真は壁際に立ち、積まれたパイプ椅子の脇から、その様子を見つめていた。
欧州の育成組織では、シーズンの終わりは常に個人の問題だった。
契約が更新されるか、別のクラブへ移籍するか、あるいはユースからトップチームへ昇格するか。
ロッカーを片付ける選手は私物をボストンバッグに詰め、スタッフと握手を交わして、一人で去っていく。
一つの代が丸ごとピッチを去り、全員で道具と場所を次の代へ手渡す光景を、氏真はこれまでに見たことがなかった。
高校サッカーの「引退」という区切りが、物の受け渡しを通して静かに進んでいた。
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2.嘘にならない時間
部室の最も奥、スチールロッカーの前で荷物を整理している三年生がいた。
久保田誠だった。
大会の登録枠二十人に入れず、三年間、一度も公式戦のピッチに立つことがなかった選手だ。
久保田は後輩たちに小さく笑いかけながら、段ボール箱に荷物を詰めていた。
ロッカーの奥から取り出したのは、底のポイントが完全に削れ落ちた一足のスパイクだった。
アッパーの革は黒い靴墨を何度も塗り重ねたせいでひび割れ、つま先には土の粒子が硬く固着している。
「おい、何を突っ立ってんだよ」
久保田がふと顔を上げ、氏真に気づいて目を細めた。
「昨日は応援ありがとな。一番前で見てたろ」
「……はい」
氏真は久保田の手元へ視線を落とした。
久保田の指先は太く、爪の隙間には、どれだけ洗っても落ちない黒土の筋が残っていた。
毎朝六時に来てラインを引き、石灰で荒れた手だ。
氏真は胸の奥で引っかかり続けていた問いを、そのまま口にしていた。
「悔しくなかったんですか」
部屋のざわめきが、ふっと薄らいだ。
「久保田さんは、一度もあのピッチに立てなかった。ベンチに入ることすらできずに、三年間が終わった。……どうして、そんなふうに笑って道具を片付けられるんですか」
不躾な問いだった。
ピッチの上で結果を出すことを何よりも重視してきた氏真にとって、出場機会のない環境に三年間とどまり続けることは、時間を失うことと同義だった。
ピッチの上で何も証明できなかった三年間に、一体何が残るというのか。
久保田の指が止まった。
すり減ったスパイクの底を撫でていた指先が固まり、視線が靴底の溝へと落とされる。
薄暗い部室の換気扇が、カラカラと小さな音を立てて回っていた。
「……悔しいよ」
久保田の声は低く、乾いていた。
「悔しくないわけ、ないだろ。あの緑の芝の上でさ、何千人もいるスタンドの前で、城南のユニフォーム着て走りたかったよ。交代のボードに自分の番号が出る瞬間を、俺だって何百回も想像した」
久保田はスパイクの紐をゆっくりと結び直した。
「でもさ」
顔を上げた久保田の瞳には、湿り気のない、確かな光があった。
「俺が毎朝引いたラインの上を、あいつらが走ったんだよ。俺が磨いたボールで、あいつらがパスを繋いで、一点取った。俺がここで三年間ボールを蹴って、あいつらと一緒に泥だらけになった時間は……誰にも消せない」
久保田は氏真の目を、正面から見据えた。
「公式戦に出られなかったからって、ゼロになるわけじゃない。……三年間ここにいたことは、嘘にはならないからな」
その言葉の響きが、耳の奥に残った。
氏真は何も言えなかった。
勝つために最適な環境を選び、結果を出し、数字と勝利によって己の価値を証明し続けてきた。
それがフットボールにおける唯一の正理だと信じて疑わなかった自分にとって、結果として残らない時間に価値を見出すその言葉は、未知の言語のように響いた。
理解はできなかった。
けれど、すり減ったスパイクを抱える久保田の佇まいに、一片の虚飾もないことだけは、まぎれもない事実として伝わってきた。
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3.指名とはなむけ
ガラリ、と音を立てて部室の引き戸が開いた。
監督の吉良剛が入ってきた。
部屋の空気が一瞬で張り詰め、三年生も下級生も一斉に背筋を伸ばした。
剛は長机の前に歩み寄り、腕を組んで、並べられた二十着のユニフォームを見つめた。
それから視線を上げ、ユニフォームを着て戦った者たち、そしてスタンドで声を嗄らした者たちを含め、三年生全員の顔を一人ずつゆっくりと見据えた。
「三年生、ご苦労だった」
剛の声は低く、部室の隅々までよく通った。
「お前たちの三年間を、『いい思い出だった』なんて安っぽい言葉で片付けるつもりはない。昨日のPK戦で負けた悔しさも、最後までピッチに立てなかった悔しさも、全部誤魔化しようのない本物だ。その痛みを無理に美化する必要はない」
剛は机の上のユニフォームに視線を落とし、静かに続けた。
「だがな、勝った奴だけが何かを得て、負けた奴や試合に出られなかった奴の手には何も残らないなんてことは、フットボールの世界には絶対にない。お前たちがこの土の上で泥にまみれ、自分の限界と向き合って、それでも最後まで仲間のために身体を張った時間は、これからの人生で誰にも奪えない、お前たち自身の血肉になる」
剛は顔を上げ、飯岡を見つめ、そして久保田を見つめた。
「結果が出なかった責任は、監督である俺にある。だが、お前たちがここで過ごした三年間は、誰に対しても胸を張って誇れ。城南のサッカー部員として最後までやり抜いたお前たちを、俺は誇りに思っている。……次の場所でも、自分の足で真っ直ぐ立て。以上だ」
わずかな沈黙の後、飯岡が深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
三年生全員の声が重なり、壁を揺らした。
その声には、敗戦直後の震えはもうなかった。
剛は短く顎を引くと、下級生たちが並ぶ列へと視線を向けた。
「これより、新チームを始動させる。新人戦、そして来年のインターハイと選手権を見据え、新キャプテンを指名する」
部員たちの視線が、自然と二年生の中心選手たち――佐々木拓海や八重樫隆生、千葉悠斗へと向けられた。
だが、剛の口から発せられた名前は、その場にいた全員の予測を外れるものだった。
「新主将は、諸島憲二だ」
部室が静止した。
一年生をキャプテンに据える。
それは城南高校サッカー部において、前例のない決定だった。
しかし、二年生の誰からも不満の呟きは漏れなかった。
佐々木も八重樫も、驚きに目を見張ったのは一瞬で、すぐに何かを噛みしめるように深く頷いた。
昨日の準決勝、延長戦の最後まで中盤の底で身体を張り続け、相手の攻撃を一人で堰き止めようと戦い抜いた男の姿を、誰もが見ていたからだった。
「諸島、前へ」
呼ばれた諸島は、顔色ひとつ変えずに一歩前へ出た。
昨日の試合後、ピッチの中央で膝をつき、顔を上げられずにいた姿は消えていた。
骨盤をしっかりと立て、ブレのない重心を保ったまま、剛の正面に立つ。
「引き受けます」
低く、落ち着いた声だった。
剛は頷き、机の端に置かれていた黄色のキャプテンマークを手に取ると、諸島の手のひらの上へ載せた。
「目標は一つだ。全国へ行く」
「はい」
諸島が短く頭を下げた。
引き戸が再び開かれ、剛が無言のまま部室を出ていった。
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4.春への約束
ミーティングが解散となり、三年生たちが荷物をまとめて、一人、また一人と部室を出ていった。
「諸島、しっかりまとめろよ」
「飯岡さん、お疲れさまでした」
短い挨拶が交わされ、足音が廊下の向こうへと遠ざかっていく。
氏真が壁際から離れ、外へ出ようと扉に手をかけた時だった。
「吉良」
背後から声をかけられた。
振り返ると、キャプテンマークをジャージのポケットに収めた諸島が立っていた。
諸島は氏真の前まで歩いてくると、その顔をまっすぐに見据えた。
昨日の敗戦の残滓が、二人の間にわずかな緊張感を生む。
だが、諸島の眼光には、過去を引きずる色など微塵も残っていなかった。
「お前は、四月まで公式戦のピッチには立てない」
諸島は淡々と切り出した。
「その間、俺たちは新人戦を戦って、冬の土の上でチームを作り直す。……春にお前が入ってくるまでに、もっと強くなるぞ」
挑発ではなかった。
中学生という身分に縛られ、ピッチの外側に留まらざるを得ない氏真に対する、対等なフットボーラーとしての言葉だった。
お前が合流する場所を、負けたままのチームにしておくつもりはない。
その意志が、飾りのない言葉の裏側に宿っていた。
氏真は視線を逸らさず、諸島の目を受け止めた。
「……僕も、同じ場所に立ち止まっているつもりはありません」
「そうだな」
諸島は短く息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「待ってるぞ」
それだけ言うと、諸島は背を向け、新チームの集合場所となっているグラウンドの方へと歩き出した。
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5.誰もいない土の上
部室棟を出た氏真は、校舎の角を曲がり、第2グラウンドのフェンス際へと歩いた。
十一月の夕暮れ。
日はすっかり沈み、西の稜線の上にわずかな残光が滲んでいるだけだった。
冷え切った秋の風が吹き抜け、足元の黒い土をさらさらと鳴らす。
部員たちの姿はもうなかった。
新チームの初練習を終え、すでに全員が引き揚げたあとのピッチだった。
ボールの打球音も、スパイクが土を噛む音も、百人の掛け声も聞こえない。
ただ、冷え切った大気の中に、静寂だけが広がっていた。
グラウンドの中央には、今朝、久保田が引いたのであろう白い石灰の線が、薄暗がりの中でまっすぐに伸びていた。
ゴールネットは風を孕んで小さく揺れ、トンボで丁寧に均された土の上には、乱れた足跡ひとつ残っていない。
氏真はフェンスの隙間を抜け、ピッチの中へと足を踏み入れた。
スパイクではなく、通学用のスニーカーが土を微かに踏みしめる。
センターサークルのあたりまで歩き、足を止めた。
勝つこと。
結果を出すこと。
ピッチの上で自分の価値を証明すること。
ヨーロッパの育成組織で叩き込まれ、自分自身の芯として疑わなかったその価値観は、今も間違っているとは思わなかった。
フットボールが勝負である以上、勝つための選択をすることに何の後ろめたさもない。
だが――この北のグラウンドには、その物差しだけでは測れない時間が、確かに流れていた。
公式戦に出られないまま泥にまみれ、「嘘にはならない」と言い切って去っていった久保田の三年間。
敗北の瞬間に芝から立ち上がれなかった飯岡たちの背中。
そして、そのすべてを受け止めて前を向いた、諸島の眼差し。
(僕は……まだ知らない)
氏真は胸の内で呟いた。
三年間という限られた季節の中で、誰かのために走り、誰かの時間を背負い、結果が出なくても自分の歩みを肯定できる、その感情の正体を。
自分にはまだ、分からない。
けれど、かつてのように「非合理だ」と切り捨てる気持ちは、もうどこにも残っていなかった。
分からないという空白を、そのまま自分の中に留めておく。
その空白を埋めるための時間が、春が来れば、この土の上で始まるのだ。
風が止み、ピッチの上に深い静寂が降りてきた。
見上げた夜空には、冬の始まりを告げる星が、冷たく、白く瞬いていた。
氏真は深く息を吸い込み、冷気を肺の底まで満たすと、誰もいないグラウンドを背にして、歩き出した。




