第153話:【スタンドの敗者】
【あらすじ】
欧州では、敗れても次の舞台が待っていた。だが、高校サッカーには「次」がない者たちがいる。スタンドから仲間を見つめる氏真は、これまで自分が積み重ねてきた勝利の意味を、初めて別の角度から見つめることになる。
1.秋晴れの防壁
十月下旬、盛岡南公園球技場。
木々の葉が赤や黄色に染まった丘の上を、冷たく澄んだ秋風が吹き抜けていた。
ピッチを囲むスタンドの最前列で、氏真はコンクリートの手すりに両手を預けていた。着ているのは、盛岡城南高校サッカー部の濃紺のウインドブレーカーだ。
すぐ隣では、三年生の久保田誠がメガホンを握りしめ、ピッチへ向けて声を張り上げていた。
「集中、足元から! 声出していこう!」
公式戦の登録枠二十人に入れなかった部員たちが、氏真と同じようにスタンドからピッチを見つめている。
中学生である氏真には、この境界線を越えることは許されなかった。
全国高校サッカー選手権・岩手県大会準々決勝。
対戦相手は、県南の実力校・県立北上高校だった。
キックオフの笛とともに始まった試合は、立ち上がりから重苦しい展開となった。
北上の布陣は4-5-1。
自陣深くに五人と四人のブロックを整然と敷き、中央のスペースを徹底して消してくる。
中盤の底でボールを受ける諸島憲二に対し、北上のアンカー・高橋悠真が素早く間合いを詰め、縦パスのコースを遮断する。
無理に通そうとすれば、中央の網に引っかかる。
北上の狙いは明確だった。
中央を固めて城南の攻め手を外へ追いやると、奪ったボールを迷わず前線へ蹴り込む。
その先には、北上のキャプテンを務める一トップ、佐々木隼人がいた。
「落とせ、隼人!」
前線へ放り込まれた浮き球に対し、佐々木は城南のセンターバック畠山壮太を背中で受け止めながら、泥臭く身体をねじ入れた。
ボールが胸に収まる。
畠山が激しく身体を寄せても、軸足を粘り強く踏ん張り、簡単には倒れない。
佐々木がタメを作ったわずかな時間に、北上の両サイドが迷いなく押し上げてくる。
派手な足技はない。
だが、相手を背負う身体の使い方、倒れまいと芝を踏む足の力強さには、三年間を前線で戦い続けてきた選手だけが持つ頑固さがあった。
「強いな……あのフォワード」
スタンドで誰かが呟いた。
氏真も無言でその動きを追っていた。
相手を背負い、味方の時間を作る。
ピッチの上で自分の役割を愚直に全うするその姿は、前線で身体を張る城南の主将・飯岡圭のプレーにも似ていた。
前半は互いに決定機を作れず、0-0で折り返した。
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2.立てない背中
試合が動いたのは、後半の二十五分だった。
北上の中盤がわずかに前がかりになった瞬間、諸島が動いた。
相手ボランチの身体の向きからパスのコースを先読みし、一歩早く身体を滑り込ませてボールを刈り取る。
奪った勢いを殺さず、そのまま右サイドの小野寺颯へ長い展開を通した。
北上の守備ブロックが横へスライドする。
そのわずかな隙間だった。
小野寺のグラウンダーのクロスに対し、ペナルティエリア中央へ飛び込んだのは飯岡だった。
北上のセンターバック、佐々木陸斗が足を投げ出してブロックを試みる。
だが、飯岡はその前へ身体を滑り込ませ、右足の先でコースを変えた。
ボールがネットを揺らした。
スタンドが一気に沸き立った。
久保田がメガホンを突き上げ、声を張り上げる。
城南が先制した。
残り十五分。
北上は長身選手を前線へ上げ、徹底して佐々木隼人へボールを集めてきた。
セカンドボールを拾い、ロングスローを投げ入れ、ゴール前へ人数をかける。
だが、城南の最終ラインも集中を切らさなかった。
畠山と佐々木拓海が競り合い、こぼれ球には諸島が身体を投げ出して飛び込む。
そして、長いホイッスルが三度鳴り響いた。
1-0。
城南の準決勝進出が決まった。
スタンドの部員たちが拳を突き上げ、隣同士で肩を叩き合う。
ピッチ上では、選手たちが安堵の息を吐きながら抱き合っていた。
だが、氏真の視線は、歓喜の輪とは別の場所へ向いていた。
ピッチの中央。
北上の主将・佐々木隼人が、緑の芝の上に両手をついたまま、動かなくなっていた。
立ち上がろうと身体を動かしても、膝に力が入らないように見える。
駆け寄ったチームメイトが背中に手を置いても、佐々木は頭を垂れたまま、芝を見つめていた。
肩が小刻みに揺れている。
氏真は、手すりから手を離せなかった。
さっきまで、あれほど強くボールを収めていた背中が、今はひどく小さく見える。
(……終わったんだ)
その言葉だけが、胸の奥に残った。
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3.伝統の風穴
数日後。
同じ盛岡南公園球技場で、準決勝が行われた。
空は鉛色に曇り、吹きつける風は秋のものとは思えない冷たさを帯びていた。
対戦相手は、遠野市立高校。
4-3-3の布陣を敷く遠野は、北上とはまったく異なるリズムを持つチームだった。
ピッチを広く使い、人とボールが絶え間なく動き続ける流動的なサッカー。
その中心にいたのが、一年生の双子、菊池蒼と菊池碧だった。
「来るぞ、右警戒!」
最終ラインから工藤一の鋭い指示が飛ぶ。
右ウイングの弟・菊池碧は、左利きの鋭い突破力を持っていた。
城南の左サイドバック千葉悠斗が間合いを詰めようとした瞬間、爆発的な初速で縦へ抜けていく。
そして、その碧の動き出しを捉えていたのが、インサイドハーフの兄・菊池蒼だった。
蒼はボールを受ける前から首を振っている。
相手の視線が外れた位置へ身体を置き、半身でボールを迎える。
中盤の中央で、諸島と菊池蒼のマッチアップが何度も発生した。
諸島が相手の身体の向きを見て踏み込み、鋭い出足で進路を塞ぐ。
対する蒼は、諸島の重心が沈む瞬間を見極め、ワンタッチで身体の向きとは逆へボールを逃がす。
力でボールを刈り取ろうとする諸島。
相手の力を利用して空間へボールを逃がす蒼。
互いの読みと身体操作がぶつかり合い、中盤は激しい攻防が続いた。
試合は一進一退のまま進んだ。
前半、菊池蒼のスルーパスから碧が抜け出して遠野が先制する。
しかし後半、諸島が泥臭く拾ったセカンドボールから八重樫隆生が裏へ抜け出し、同点弾を叩き込んだ。
一―一。
八十分を戦い終えてもスコアは動かない。
試合はそのまま、前後半各十分の延長戦へ突入した。
ピッチ上の選手たちの動きが、目に見えて鈍くなっていく。
足を攣らせて倒れ込む選手が出る中、飯岡は前線でボールを追い続け、諸島も泥だらけになりながら中盤のスペースを埋め続けた。
ベンチから交代選手が送り込まれる。
だが、交代枠には限りがある。
城南のベンチの隅では、三年生の控え選手たちがジャージ姿のまま、声を嗄らしてピッチへ叫び続けていた。
第2GKの阿部駿。
大型FWの吉田健人。
DFの藤井航。
彼らがこの大会でピッチに立つ時間は、もう残されていないかもしれない。
それでも、身を乗り出すようにして仲間へ声を送り続けていた。
延長戦の終了を告げる笛が鳴った。
一―一。
勝敗の行方は、PK戦へ委ねられた。
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4.静止した笛
灰色の空の下、冷たい静寂が球技場を包んでいた。
両チームの選手たちがセンターライン付近で肩を組み、ペナルティエリアを見守っている。
城南のGKは一年生の工藤一。
遠野のゴールマウスには、三年生の多田雄大が立つ。
城南、遠野ともに三人目までが成功させ、迎えた四人目。
城南のキッカーとしてペナルティスポットへ歩み出たのは、諸島だった。
延長戦まで中盤を走り抜いてきた一年生は、ボールをセットし、深く息を吐いた。
短い助走。
右足が振り抜かれる。
シュートはゴール左隅へ向かった。
だが、多田は先に動いていた。
伸ばした両手が、ボールを弾き出す。
鈍い音が響いた。
ボールが枠の外へ転がっていく。
スタンドから息を呑む音が漏れた。
諸島はその場に立ち尽くし、弾かれたボールの行方を見つめていた。
遠野の四人目が冷静に成功させる。
3-4。
外せば敗退が決まる局面で、城南の五人目がペナルティスポットへ歩み出た。
キャプテンの飯岡圭だった。
飯岡はゆっくりとボールを置いた。
泥に汚れたユニフォームの背中。
何度も仲間を鼓舞してきた声が、今は聞こえない。
短く息を整え、助走に入る。
放たれた渾身の一撃は――
クロスバーを激しく叩いた。
乾いた音が、球技場に響いた。
ボールが冷たい空へ跳ね上がる。
その瞬間、遠野の選手たちが一斉に歓喜の雄叫びを上げ、GK多田のもとへ駆け出した。
ホイッスルが鳴り響く。
PK戦、3-4。
盛岡城南高校の選手権が、そこで終わった。
ピッチの中央で、諸島が膝をついていた。
両手を芝につき、顔を上げられない。
肩が小刻みに震え、荒い呼吸が白い息となって漏れていた。
普段の冷静な表情はどこにもない。
ただ、地面を見つめたまま動かない。
ペナルティスポットの近くでは、飯岡がその場に崩れ落ちていた。
両手で顔を覆い、芝に突っ伏している。
駆け寄った畠山がその背中に手を置くが、飯岡の身体の震えは止まらなかった。
ベンチの前では、出番のなかった三年生たちが立ち尽くしている。
ジャージを着たまま、動かないピッチの仲間たちを見つめていた。
誰一人として声を出せない。
ただ、冷たい風だけが、彼らの間を通り抜けていった。
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5.胸に落ちるもの
応援席の前へ、選手たちが歩いてきた。
泥と汗で汚れた顔を歪めながら、三年生たちがスタンドの部員たちに向かって頭を下げる。
「応援……ありがとうございました」
飯岡の掠れた声が響いた。
スタンドの久保田がメガホンを握りしめ、両目から涙をこぼしながら、誰よりも強く手を叩いた。
「胸張れ! 飯岡、胸張れよ!」
その声を皮切りに、スタンド全体から拍手が湧き起こった。
百人近い部員たちが、涙を拭いながらピッチの仲間たちへ拍手を送り続けている。
氏真は手すりを握ったまま、その光景を見つめていた。
拍手の音が、何度も耳に重なる。
その中で、準々決勝のあとに見た佐々木の背中が、ふいに蘇った。
あのとき、自分たちは勝った。
そして今日、自分たちは負けた。
勝者と敗者。
たった一試合で、その立場は入れ替わる。
氏真は、もう一度ピッチを見た。
そこには、さっきまで戦っていた選手たちがいる。
諸島。
飯岡。
畠山。
そして、最後までピッチに立てなかった三年生たち。
三年間。
それぞれが積み重ねてきた時間が、今日という一日で一区切りを迎える。
欧州にいた頃、氏真にとってフットボールは、いつも次へ続いていた。
週末のリーグ戦で負けても、翌週には次の試合がある。
シーズンが終われば、次のカテゴリーがある。
新しい契約を勝ち取り、別のクラブで自分を証明する道もある。
だから、あの頃の氏真は、勝ったときに歓喜することしか考えていなかった。
ジュネーヴの夜空。
欧州ユースCLのトロフィー。
仲間たちと抱き合った、自分の歓声。
その記憶の向こう側に――
今になって、別の景色が浮かんだ。
自分たちに敗れた選手たち。
ピッチに座り込んだ背中。
悔しさを飲み込み、握手をして、スタジアムを去っていった選手たち。
あのとき、自分はその顔を見ていただろうか。
覚えているだろうか。
氏真は答えを出せなかった。
ただ、胸の奥に重いものが残った。
「……吉良」
涙を拭った久保田が、氏真の肩にそっと手を置いた。
「戻るぞ。荷物、片付けねえとな」
「……はい」
氏真は短く答えた。
手すりから手を離す。
そのとき、ピッチでは飯岡が足を止めていた。
ゆっくりと振り返る。
誰もいなくなりつつあるグラウンド。
泥のついた芝。
三年間、何度も走った場所。
飯岡はしばらくその景色を見つめていた。
やがて、仲間のもとへ歩き出す。
氏真は、その背中を見つめ続けた。
言葉は出てこなかった。
ただ、拍手だけが残った。
冷たい風が、誰もいなくなりつつあるピッチを吹き抜けていった。




