第149話:【Bチームの異物】
【あらすじ】
欧州で磨き上げた圧倒的な技術を胸に、盛岡城南高校のBチームへ加わった氏真。しかし、これまで当たり前だったプレーが、なぜか味方とかみ合わない。自分の強さとは何なのか。新たな環境で、氏真は初めて「仲間と戦う」という壁に直面する。
1.借りものの練習着
十月の盛岡は、夕方四時を回ると急激に陽が傾き、冷気が地面から這い上がってきた。
校舎の長い影が黒い土を覆い始める頃、氏真は第2グラウンドの脇で、借りもののトレーニングウェアの袖を引っ張った。
サイズがわずかに小さく、手首のところで生地が足りない。背中には白く「盛岡城南高校サッカー部」の文字がプリントされていた。
まだ、自分のものではない。
「集合!」
遠くAチームのコートから、主将の張りのある声が響いた。
その瞬間、グラウンドにいた部員たちが一斉に走り出した。誰一人として歩かない。ボールを持っていた者は、胸に抱えたまま駆け寄っていく。
氏真は一拍遅れ、その列の最後尾へ小走りで並んだ。
「お願いしまぁす!」
百人を超える部員たちの声が、グラウンドいっぱいに響いた。
氏真は口を開きかけたものの、声を合わせそびれた。
バルセロナのシウダ・エスポルティーバでは、練習は静かに始まった。コーチが笛を鳴らせば、選手たちはそれぞれの場所へ向かう。
ここでは違う。
挨拶ひとつ、集合の足取りひとつにも、部活という共同体の規律があった。
「よし、Bチームは手前のグリッドに入れ」
Aチームが奥のコートで戦術練習を始めるのを横目に、Bチームを担当する藤原コーチが手招きした。
四十代半ばの、無駄口を叩かない男だ。
氏真と目が合っても、軽く顎を引くだけだった。
移動する途中、背中に視線を感じた。
欧州帰りの天才。
監督の甥。
高校の公式戦には出られない、中学生。
すれ違いざまに視線を逸らす者がいる。わざとらしくボールの空気圧を確かめる者がいる。
ひそひそとした声は、氏真が振り返る前に止んだ。
悪意だけではない。
知らない人間が、自分たちの輪の中に入ってきた。その距離を、誰も測りかねている。
「八対八、十分ハーフ。タッチ制限なし。ビブスは自分たちで分けろ」
藤原はそれだけ告げると、グラウンド脇で腕を組んだ。
氏真は黄色のビブスを被り、右サイドへ入った。
(まずは、ピッチの上で見せるしかない)
息を吸い、吐く。
冷たい空気が肺に入る。
氏真は、身体の力を抜いた。
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2.噛み合わない歯車
笛が鳴り、ボールが動き出した。
最初の数分、氏真は味方の足の運びや身体の向き、ボールを扱う癖を見ていた。
個々の技術は悪くない。
不規則に土が跳ねるピッチでも、トラップは丁寧だった。基礎もしっかりしている。
ただ、リズムが違った。
十分に相手を引きつけ、安全を確認してから足元へつなぐ。
それが、この場での「丁寧さ」だった。
前半三分。
右サイドでボールが動いた。
相手左サイドバックの重心がわずかに前へ傾く。
背後が空いた。
氏真は迷わず走った。
相手の死角を突き、斜めにラインの裏へ抜ける。
ここだ。
ここに出れば、決定機になる。
欧州なら、ボール保持者が顔を上げた瞬間にはパスが来る。
だが、来なかった。
味方のミッドフィルダーはボールを持ったまま、足元で小さく持ち替えている。
氏真が完全にラインを抜けても、まだ出しどころを探していた。
氏真は急停止した。
振り返る。
目が合ったミッドフィルダーの眉が、わずかに動いた。
――なぜ、そんなところへ走ったのか。
そんな顔だった。
次は逆だった。
中盤の底でボールを受けた味方が、二人に囲まれた。
氏真は相手の視野の切れ目へ入り、ライン間の空いた場所に身体を滑り込ませる。
ここへ当ててもらえば、前を向ける。
半身になり、次のプレーに備えた。
だが、ボールは来なかった。
味方は氏真を見ず、後ろへ戻した。
氏真の立ち位置は、最初から選択肢に入っていなかった。
「吉良、もっと呼べ! 声出さねえと周りには分からんぞ!」
タッチラインの外から、藤原の声が飛んだ。
戦術を変えろとも、氏真に合わせろとも言わない。
ただ、起きていることを見ている。
氏真は呼吸を整えた。
自分が先に動けば、味方はついてこない。
パスを出せば、その意図が届かない。
では、自分が合わせればいいのか。
そうすると、今度は自分の判断の速さが消える。
欧州で、何も考えず共有できていた感覚が、ここでは通じない。
中盤でルーズボールを拾った氏真が、相手二人をかわしてミドルレンジからシュートを放った。
ボールはネットを揺らした。
だが、味方から上がった声はまばらだった。
戻る途中で交わしたハイタッチも、どこかぎこちない。
氏真は、それ以上何も言わなかった。
(自分は、ひとりでサッカーをしている)
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
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3.境界線
ハーフタイムを挟み、ゲームが終わる頃には、グラウンドはすっかり薄暗くなっていた。
藤原が短く笛を鳴らす。
「終わり。片付け」
部員たちは散らばり、手際よく動き始めた。
トンボを引いて土を均す者。
ゴールを運ぶ者。
マーカーコーンを拾う者。
氏真は近くのボールカゴへ手を伸ばした。
泥のついたボールを拾おうとした、そのとき。
「あ、いいから」
一年生の部員が、すっとカゴを引き寄せた。
「俺らの仕事だから」
声に棘はなかった。
それでも、線ははっきりしていた。
氏真は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……すみません」
盛岡に来てから、初めて口にした謝罪だった。
部員たちが挨拶を交わし、部室棟へ引き揚げていく。
足音が遠ざかる。
氏真は片隅に残されたボールを一つ拾い、無人のゴール前へ歩いた。
西の空に、夕焼けの残りがわずかに滲んでいる。
汗の引いた首筋を、冷たい風が撫でた。
ボールを置く。
右足を振る。
乾いた音とともに、ボールがゴール左隅のネットを揺らした。
もう一本。
同じコースへ。
もう一本。
技術に狂いはない。
足元の感覚も、身体の軸も、何も変わっていない。
それなのに、蹴るたびに胸の奥が重くなった。
「お前は、いいよな」
背後から声が落ちてきた。
氏真は蹴り足を止め、振り返った。
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4.ここしかない場所
Bチームの三年生、岡田が立っていた。
練習着の膝についた黒い泥を大雑把に払い、手には部室の鍵を持っている。
笑ってはいない。
怒ってもいない。
ただ、一日を走り抜いたあとの疲れが、そのまま目に残っていた。
「最初から、別の場所へ行けるんだからさ」
氏真は黙って岡田を見た。
「さっきのスルーパス、凄かったよ。あんな場所に出せる奴、うちにもそういない」
岡田は苦笑した。
「でも、俺の頭じゃ追いつかないんだわ。お前とやってると、自分が下手なのを見せつけられてるみたいで……正直、きつい」
氏真の胸が締まった。
「……すみません。僕が、合わせるべきでした」
「合わせる?」
岡田は自分のスパイクを見下ろした。
「お前が俺らに合わせてどうすんだよ」
少し間を置いて、黒い土をスパイクの先で叩く。
「俺たちはさ、ここしかないんだよ」
その一言だけで、氏真には分からない重さがあった。
「ここで三年間やって、Aチームに上がれなくて、公式戦にも出られなくて……それでも毎日ここに来る。泥だらけになって、走って、片付けて。それでも、ここが俺たちの全部なんだ」
岡田は氏真を見る。
「でも、お前は違うだろ」
「……」
「中学生で、ヨーロッパで結果を出して。来年になれば高校生にもなる。ここでうまくいかなかったとしても、お前には次がある。別の場所へ行ける」
氏真は口を開いた。
自分だって必死だった。
欧州で競争にさらされ、毎日の練習で何度も自分を削ってきた。
簡単に手に入れたものなど、一つもない。
そう言いたかった。
だが、言葉にならなかった。
岡田の三年間を前にして、自分の努力を並べることが正しいとは思えなかった。
「お前が俺たちに合わせる必要なんてないよ」
岡田は少しだけ笑った。
「たぶん、最初から住んでる場所が違うんだ」
岡田は鍵をポケットにしまった。
「じゃあな。ボール、終わったら用具小屋に戻しといてくれ」
背を向ける。
足音が、少しずつ遠ざかっていった。
氏真は、その場に残った。
手元のボールを見る。
中学生である以上、今季の高校サッカー公式戦には出られない。
それは最初から知っていた。
知っていたはずなのに。
今日、初めてその意味が分かった気がした。
ピッチに立つことと、戦いの中にいることは、同じではない。
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5.一人きりのキック
夜の帳がグラウンドを覆い始めていた。
遠くの街灯だけが、黒い土をぼんやり照らしている。
氏真は、足元のボールを見つめた。
(自分は、強い)
そこだけは疑わなかった。
欧州で積み上げてきたものまで、今日一日で嘘になるわけではない。
ファーストタッチも。
身体の使い方も。
相手を見ることも。
局面を読むことも。
全部、自分の中にある。
それでも――。
(それだけで、チームを勝たせられるのだろうか)
今日、何度も正しいと思った場所へ走った。
何度も、正しいと思った場所へボールを出した。
それなのに、味方とはつながらなかった。
自分が見ている景色と、周りが見ている景色が違う。
その違いを、どう埋めればいいのか。
氏真には、まだ分からなかった。
ボールをセットする。
ゴールを見る。
右足を振り抜いた。
ドッ、と鈍い音がした。
ボールはいつもの軌道を描かなかった。
ゴールの枠を大きく外れ、夜のグラウンドの奥へ消えていく。
ネットは揺れない。
氏真は動かなかった。
拾いに行く気力もなかった。
そのとき――。
ザッ。
背後で、乾いた土を踏む音がした。
岡田のような疲れた足音ではない。
軽い。
迷いがない。
一定のリズムで、こちらへ近づいてくる。
氏真は、ゆっくりと振り返った。
暗がりの向こうに、人影があった。




