第148話:【陽の当たらない場所】
【あらすじ】
早朝のグラウンドで、誰もいないはずのピッチを整える三年生・久保田誠の姿を見つけた氏真。三年間、公式戦に一度も出場していない彼は、それでもなぜこの場所に残り続けるのか。氏真には理解できない価値観が、静かに心へ残っていく。
1.早朝の足跡
十月下旬の盛岡の朝は、息を吸い込むだけで胸の奥がすやりと冷えた。
明青中等部の制服に身を包んだ氏真は、登校途中で足を止め、校地東側に広がる高校サッカー部のグラウンドを見下ろした。
午前六時半前。
朝練が始まるまで、まだ一時間以上ある。薄く伸びた秋の光が、湿った黒い土をうっすらと照らし始めたばかりのピッチに、人影などないはずだった。
だが、広大な土の上に、一つだけ動く影があった。
昨日、全練習が終わった後の静寂の中で、一人残ってボールをタオルで拭いていた、あの三年生だった。
名前は、久保田誠。
久保田は白線引きのカートを押し、一歩ずつ確かめるようにピッチのサイドラインを引いていた。
白い石灰が、黒い土の上に一本の線を描いていく。
それが終わるとコーナー付近へ移動し、泥のついたフラッグを引き抜いて、垂直に刺し直した。
誰に指示されたわけでもない。
誰も見ていない早朝のグラウンドで、彼は黙々とピッチを整えていた。
肩の力は抜けている。動きにも迷いがない。
毎日、同じことを繰り返してきた人間の手つきだった。
氏真はフェンス越しに、その姿を見つめた。
欧州の育成クラブでは、ピッチの準備や管理は専門のグラウンドスタッフや用具係が担っていた。
選手は、整えられたピッチでプレーする。
それが、氏真にとっては当たり前だった。
自分たちの練習時間を削って、選手自身がグラウンドを整える。
そんな光景を、氏真は知らなかった。
(なぜ、自分でやるんだ……?)
胸に生まれた小さな疑問が、消えずに残った。
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2.公式戦の記録
放課後。
百人を超える部員たちがひしめくグラウンドで、氏真は再び久保田の姿を追っていた。
激しい練習が繰り広げられる脇で、久保田は絶えず動いていた。
Aチームの紅白戦でボールが大きく外へ弾かれれば、誰よりも早く走ってボールを拾う。
Bチームのパス回しが終われば、新しいマーカーコーンを運び、給水用のボトルを並べていく。
「誠さん、ビブス助かります!」
「おう。しっかり走れよ!」
後輩から声をかけられるたび、久保田は気さくに笑って応じていた。
練習の合間、氏真はグラウンド脇のベンチで書類を整理していた吉良剛のもとへ歩み寄った。
「剛叔父さん」
「ん? どうした、氏真」
「久保田さんは……Aチームのメンバー表にも、Bチームの記録にも名前がなかった。……久保田さんは、試合に出ないの?」
氏真の問いに、剛は持っていたペンを置いた。
「出ないんじゃない。出たことがないんだ」
「え……?」
「久保田が入部してから三年間、トップチームどころか、公式戦に一度も登録されたことがない。ユニフォームを着てベンチに入ったことすら、一度もない」
氏真は黙った。
三年間。
一度も公式戦に出ていない。
「今週末から、選手権の岩手県予選が始まる。だが……あいつが公式戦のピッチに立つことは、最後までないだろう」
高校最後の大会。
三年間、ボールを追い続けてきた選手が、その舞台に立つことなく終わる。
氏真には、それがどうしても腑に落ちなかった。
欧州のフットボールでは、出場機会を得られなければ、カテゴリーを下げたり、別のクラブへ移ったりする。
少なくとも、氏真が生きてきた世界では、それが選手として自然な選択だった。
試合に出られない場所で、三年間を過ごす。
それは、氏真には理解しにくい時間の使い方だった。
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3.「悔しくないわけ、ないだろ」
部活動が終わり、夕闇がグラウンドを包み込み始めていた。
部員たちが挨拶を終え、次々と部室へ引き揚げていく。
その中で、グラウンドの隅にある道具小屋の前には、今日も久保田の姿があった。
泥のついたボールを一つずつ水で洗い、タオルで丁寧に拭き取っている。
氏真は静かに近づくと、ボールカゴから濡れたボールを一つ拾い上げ、タオルで拭き始めた。
「ん? 吉良か。いいよいいよ、手伝わなくて」
久保田は驚いたように顔を上げ、手を振った。
「いいから。僕も拭くよ」
氏真は手を止めなかった。
濡れたボールの表面を拭い、乾いたところからカゴへ戻していく。
トン。
ボールがカゴの底に当たる音がした。
氏真は久保田の横顔を見つめた。
「どうして、そこまでやるの?」
「え?」
「朝も一番に来てラインを引いて、今も一人でボールを拭いている。……誰かがやらなきゃいけない仕事だとしても、久保田さんは公式戦に出られるわけじゃないのに」
踏み込みすぎた問いだった。
久保田の手が止まった。
洗いかけのボールを抱えたまま、擦り減った自分のスパイクへ視線を落とす。
「……そりゃさ」
声から、いつもの軽やかさが消えていた。
「悔しくないわけ、ないだろ」
氏真は息を呑んだ。
「一年のときも、二年のときも、本気でレギュラーを狙ってたよ。居残りで走って、自主トレもして……でも、上には上がいる。自分の限界を思い知らされて、一度は本気でサッカーを辞めようと思った」
久保田は、土の染み込んだ自分の手を見た。
「でも、辞められなかった。このチームが好きだったし……ここで過ごした三年間を、ただの無駄だったなんて思いたくなかったんだ」
しばらく、ボールを拭く音だけが続いた。
「試合に出たい気持ちは今でもある。応援席からピッチを見てると、胃が痛くなるくらい悔しいよ」
久保田は苦笑した。
「でもさ。俺たちには、俺たちの役割があるから」
「役割……?」
「そう。ピッチで点を取る奴もいれば、ベンチで声を出す奴もいる。俺みたいに、道具を揃えてグラウンドを整える奴もいる」
久保田は、拭き終えたボールをカゴへ収めた。
「俺がボールを拭けば、明日みんなが気持ちよく蹴れる。俺が白線を引けば、少しでも良い練習ができる」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……それも、俺の三年間なんだよ」
氏真は何も言わなかった。
久保田の手には、土が残っていた。
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4.平行線
『俺たちには、俺たちの役割があるから』
その言葉が、氏真の中に引っかかった。
どうしても、納得できない。
フットボールとは、ピッチの上で己の価値を示し、勝利を掴み取るものではないのか。
自分が試合に出る可能性が消えても、同じチームに残り、道具を整え、グラウンドを整備する。
氏真には、その考え方が理解できなかった。
もし試合に出られないのであれば、戦う場所を変える。
それが、自分の知っているフットボールだった。
「……分からないよ」
氏真の口から、言葉が漏れた。
「え?」
「分からないんだ、久保田さん。試合に出られないなら……自分の力で戦える場所へ行くのが普通じゃないのかな」
氏真は言葉を探した。
「どうして試合に出られないことと、サッカーを続けることが、同じ場所で一緒になれるの?」
怒りではない。
見下しているわけでもない。
ただ、本当に分からなかった。
久保田は氏真の顔を見つめ、一瞬だけ目を見開いた。
それから、柔らかく笑った。
「分かんなくて当然だよ。お前はすごい選手なんだろ? 吉良監督から聞いてるよ」
久保田は立ち上がり、ボールカゴを持ち上げた。
「お前みたいなすごい奴が、春から入ってきて試合で勝ってくれたらさ……」
一度、カゴの中へ視線を落とす。
「俺たちが拭いてるボールも、全部意味があったんだって思えるんだよ」
そして氏真を見る。
「だからさ。お前は思い切ってプレーしろ」
久保田はボールカゴを道具小屋に納めた。
重い鉄の鍵が、ガチャリと鳴る。
「じゃあな、吉良。風邪ひくなよ」
そう言って手を振ると、久保田は暗くなり始めた校舎の方へ歩いていった。
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5.背中と予感
一人残されたグラウンドで、氏真は立ち尽くしていた。
からりと乾いた秋風が吹き抜け、足元の土をさらさらと鳴らす。
夕闇がグラウンドを覆っていく。
その中を遠ざかっていく久保田の背中を、氏真は見つめていた。
出場できないことと、サッカーを続けること。
その二つが、なぜこの場所では両立するのか。
答えは出なかった。
ただ、久保田の言葉だけが残っていた。
――それも、俺の三年間なんだよ。
氏真は、まだその意味を理解できない。
けれど、その背中から目を逸らすこともできなかった。
「……吉良氏真」
暗がりの中から、声をかけられた。
振り向くと、城南高校Bチームのコーチを務める藤原が立っていた。
「吉良監督から聞いている。明日から、お前にはBチームの練習に入ってもらう」
「……分かりました」
氏真は短く答え、ジャージのファスナーを上まで引き上げた。
胸に残った答えのない問いを抱えたまま、氏真は高校生たちの待つピッチへと、一歩を踏み出した。




