第147話:【百人の足音】
【あらすじ】
欧州とはまるで違う、盛岡城南高校サッカー部の練習風景。百人を超える部員の中には、公式戦に出られない選手も多い。合理性では説明できない場所で、氏真は初めて「それでもサッカーを続ける理由」と向き合う。
1.密度の歪み
明青中等部の放課後を告げるチャイムが響くと、氏真は校舎を出た。
秋の冷たい風が吹き下ろす中、向かったのは東側に広がる高校サッカー部のグラウンドだった。
ネットの向こうへ踏み込んだ瞬間、足裏から伝わる微かな振動と、空気に満ちた音の密度に足を止めた。
音が、層になって押し寄せてくる。
最初に聞こえたのは、ボールを蹴る乾いた打球音だった。
一つではない。
高低の異なる革の破裂音が、グラウンドのあちこちで周期をずらしながら重なり合っている。
インサイドの滑らかな音。
インステップで叩く重い音。
ヘディングの短く鈍い音。
その合間を、乾いた土を噛み鳴らすスパイクの足音が走っていた。
ザッ、ザザッ、と土を削る音が、近づいては遠ざかる。
「一本! 集中していこう!」
「裏ケア! ライン上げろ!」
「ナイスボール!」
指示と叫びが交差し、混ざり合った声がグラウンドの上空に分厚い熱をつくっていた。
氏真は立ったまま、土の上を見渡した。
シウダ・エスポルティーバ――バルセロナの完璧に管理されたトレーニングセンターとは、別の世界だった。
あちらでは、カテゴリーや年齢によってピッチが厳密に分けられ、一箇所に集まる選手も限られていた。
道具の準備やライン引きまで、専門のスタッフが合理的に取り仕切っていた。
だが、ここには同じ練習着を着た少年たちが、一つのグラウンドの中にひしめき合っている。
ビブスの黄色。
練習着の紺。
キーパーの緑。
土の上に、多くの人間が散らばっている。
中央ではミニゲームが行われ、そのすぐ脇ではパス回しのグループが身を寄せ合っている。
ゴール裏ではヘディングの練習が繰り返され、さらにその外側を、ランニングの列が周回していた。
グラウンドの端では、数人の部員が木製のトンボを押し、
ざり、ざり、
と土を均していた。
その横を、用具カゴを満載したリヤカーを押す下級生が通り過ぎる。
車輪の軋む音と、重ねられたマーカーが触れ合う音が、ボールの打球音の裏側で鳴り続けていた。
ピッ、と笛が短く一度。
続いて、長い音が響く。
いくつもの練習、いくつもの作業が、仕切りもない一つの土の上で同時に回転していた。
プロを育成するための合理性という物差しを当てるなら、非効率で雑多な光景だった。
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2.九十人の理由
「中等部の初日はどうだった」
グラウンド脇のパイプ椅子に腰掛けた吉良剛が、手元の出席簿から顔を上げた。
「別に、何も変わらないよ」
氏真が答えると、剛は出席簿をパタンと閉じ、腕を組んでピッチに視線を向けた。
「改めて言っておくぞ、氏真。お前は今日から明青中等部三年生だ。高体連の規約上、来年の春に盛岡城南高校へ正式入学するまでは、高校サッカーの公式戦には一切登録できない。俺が認めたのは、あくまで放課後の練習参加だけだ」
「分かっている」
氏真は頷いた。
欧州ユースCLを制し、トップチームでゴールを決めた実績も、ここでは制度に阻まれる。
春が来るまでの半年間、自分は公式戦に出られない「ただの中学生」だった。
「剛叔父さん……ここにいる部員は、何人なんだ?」
「現在、百十一人だ」
剛は淡々と答えた。
「公式戦の登録枠は二十人。選手権の県予選だろうがインターハイだろうが、それは変わらん。つまり、残りの九十人以上は、公式戦のピッチに立つことなくシーズンを終える」
「九十人……」
氏真は眉をひそめた。
欧州の育成組織であれば、公式戦に出られない選手はカテゴリーを下げられるか、別のクラブへ移籍するのが当然だった。
試合に出られない環境に時間を費やすことは、選手としての価値を損なう。
「出られないなら……どうしてここにいるの?」
「ここでは、誰も移籍なんぞせん」
剛は膝を叩いて言った。
「公式戦に出られるかどうかにかかわらず、みんな三年間、ここでサッカーを続けていく」
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3.指し示された視線
「なぜ……?」
氏真には理解できなかった。
プロを目指す世界では、出場機会こそが全てだった。
試合に出られない場所にとどまる理由は存在しない。
「試合に出られないなら、ここにいる意味がないじゃないか。サッカーは、ピッチの上で結果を出すためのものだろう」
剛は答えなかった。
ただ、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がると、右手をまっすぐに突き出した。
言葉のないまま、剛の指先が夕暮れの赤みが差し始めたグラウンドの中央を指し示していた。
氏真は、その指先の先を追った。
指し示された先では、Aチームの紅白戦が行われていた。
ボールを追って滑り込む泥だらけのディフェンダー。
弾かれたボールを拾うため、必死の息遣いでスプリントをかけるボランチ。
そのすぐ目と鼻の先では、Bチームの部員たちがパス回しに没頭していた。
ミスをした部員が頭を抱え、周りが笑いながら背中を叩く。
さらにその外側では、下級生たちが枠を外れたボールを拾うために何度もダッシュを繰り返していた。
ボールを回収し、カゴへ戻し、声を張り上げる。
誰一人、手を抜いていない。
誰一人、腐ったような顔をしていない。
「どうして……」
氏真の口から声が漏れた。
「どうして……出られないのに、あんなに走れるんだ?」
剛の指が静かに下りた。
「その答えを言葉で教えても、意味はない」
剛の低い声が風に混じる。
「お前がこの場所で、自分の目で見つけるんだ」
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4.一つの背中
やがて笛が鳴り、練習の終わりが告げられた。
グラウンドを埋め尽くしていた部員たちが集まり、挨拶を交わすと、それぞれの道具を手に校舎や部室へと引き揚げていく。
賑やかだった声や足音が少しずつ遠ざかり、グラウンドに静寂が戻りはじめた。
氏真が踵を返そうとした時、土の上に残る人影に気づいた。
部員たちが姿を消したグラウンドの隅に、一人だけ残っている三年生がいた。
誰に指示されるでもなく、重いトンボを一人で引き、踏み荒らされた土の端を黙々と均している。
それが終わると、ボールカゴの横に屈み込み、泥のついたボールを一つずつタオルで拭き取り始めた。
擦り切れたボールを拭く手元には、迷いがなかった。
ふと、その三年生が手を止め、顔を上げた。
視線が交差した。
相手は氏真の姿を認めると、驚く風もなく、会釈すらしないまま、すぐに手元のボールへと視線を戻した。
何も言わず、ただ拭き続ける。
夕日が黒い土を深く赤く染め、その背中の影を長く伸ばしていた。
氏真は足を止め、立ち尽くした。
合理性では説明がつかない。
効率という言葉からも遠い。
理解はできなかった。
けれど――
氏真は、その背中から目を離すことができなかった。




