第145話:【旅立ち】
【あらすじ】
欧州の頂点に立った氏真の前に、さらなる高みへの扉が開かれる。だが、その輝かしい未来の裏側で、少年が向き合うべき大きな選択が迫っていた。仲間たちとの絆を胸に、氏真が選ぶ次なる道とは――。
1. 速度の階梯
欧州ユースチャンピオンズリーグ戴冠、そして大会得点王。
ジュネーヴでの激闘の余韻が冷めやらぬまま、短いオフが明けた七月下旬。新シーズンの始動とともに、十五歳の吉良氏真に通達が下された。
「トップチームの練習へ合流しろ」
異例の特別指定だった。籍はフベニル(ユース)に置いたまま、週末の公式戦を戦い、平日はトップチームのセッションに帯同する。
シウダ・エスポルティーバのメイングラウンド。そこにあったのは、画面越しでは伝わらない世界屈指の基準だった。
低重心の鋭いターンで守備陣を切り裂くエリアス・ロルダン。遊び心ある足技で幻惑するレイナルド・ピント。そして中盤の底で、首を振るわずかな予備動作と最小限のタッチだけで相手のプレスを無力化するオリバー・ソレール。
ロンドに入った瞬間、突きつけられたのは圧倒的なテンポだった。
パスの走る速度、寄せの鋭さ、身体の厚み。ユースとは比較にならない圧力が四方から迫る。
だが、氏真の呼吸が乱れることはなかった。
速さに力で抗おうとすれば弾き飛ばされる。
相手の軸足と重心を見極め、脱力した立ち姿でパスラインを作る。寄せてくる巨躯に対し、半身で接触の衝撃を受け流しながら、バックフットでボールを次の足元へ逃がす。
大人のプレッシャーを水のようにいなし、淀みなくボールの循環に溶け込んでいった。
ユースの試合で結果を残し続けながら、トップの過密な練習をこなす日々。
二か月が過ぎた九月、指揮官はピッチを見つめたまま、コーチ陣へ短く告げていた。
「あの少年は、すでにトップのリズムで呼吸をしている」
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2. カンプ・ノウの五分間
九月下旬、ラ・リーガ第5節、レンシアFC戦。
堅牢な守備ブロックを誇る名門を迎え、本拠地カンプ・ノウのスタンドは熱気を帯びていた。
氏真に巡ってきた出番は、偶発的なものだった。
EU外選手枠を占める主力アタッカーが負傷離脱し、過密日程によるローテーションが重なった結果、ベンチの最後の一枠が十五歳の氏真に割り振られたのだ。
電光掲示板のスコアは『4―0』。
主力を中心に試合を掌握し、すでに勝敗の趨勢は決していた。
後半四十分。第四審判が掲げた交代ボードに、蛍光の背番号『29』が灯る。
「ウジザネ、行くぞ。ピッチを感じてこい」
監督に肩を叩かれ、氏真はタッチラインを踏み越えた。
場内アナウンスが少年の名を告げると、スタンドからどよめき混じりの拍手が湧き起こる。
笛が鳴り、試合が再開される。
トップリーグのピッチに立っても、氏真の足取りは変わらなかった。
相手の屈強なセンターバック、ロベルト・アヤルディが、新顔を潰そうと背後から鋭く身体を寄せてくる。
氏真は踏ん張ることなく、相手の胸板が触れる瞬間に半歩だけ重心を逃がし、バックフットでボールを叩いて味方へ戻した。
大人の体重が乗ったチャージを、最小限の身体操作で無力化する。
相手の視野の切れ目に立ち、ボール保持者の出口を作り続けて数分。
試合終了間際の後半四十四分、局面が動いた。
中盤の密集でボールを拾ったのは、ユースからともに戦ってきたダビアンだった。
前線へ視線を走らせた銀月の魔術師は、相手守備陣のわずかな隙間を見逃さない。
左足から放たれたのは、相手DFの頭上を越え、ふわりと落ちてくる柔らかなベルベットパスだった。
ペナルティエリア中央。
アヤルディのマークを、一瞬だけ外へ膨らむ動きで外し、フリーになった氏真の胸元へ、寸分の狂いもなくボールが収まる。
キーパーのセサル・オリバが間合いを詰めようと前へ出る。
だが、氏真は慌てない。
上半身を脱力させ、ボールの勢いを完全に吸い取る胸トラップ。
勢いを失った球が、絶妙な高さへと落ちる。
跳ね上がりを待たず、走る歩調を乱さないまま、右足をコンパクトに振り抜いた。
バシィッ!
芯を捉えたダイレクトボレー。
至近距離から放たれたボールは、キーパーの伸ばした腕の上を抜け、ゴールネットを揺らした。
一瞬の静寂の後、スタジアムが歓声で爆発した。
後半四十五分。
5―0。
公式戦デビューから、わずか五分。十五歳の初ゴールだった。
「ウジザネッ!」
全速力で駆け寄ってきたダミアンが満面の笑みで飛びつき、ピントが相好を崩して少年の黒髪を乱暴に撫で回す。
スタンドを埋めた観衆が総立ちとなり、十五歳の背番号29へ惜しみない拍手を送っていた。
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3. 提示された未来、北国からの光
試合の熱気が冷めやらぬその夜。
バルセロナ市内のクラブオフィスの一室で、強化責任者が穏やかな笑みを浮かべて氏真を見つめていた。
「ウジザネ。君の才能は、すでに育成組織の枠を越えている。首脳陣とも協議を重ね、クラブとして君の将来を支える方針を固めた。……十六歳を迎える来年4月を目途に、君と正式なプロ契約――B契約を結びたいと考えている」
来年四月、十六歳でのプロ契約。
トップ昇格を前提とした、破格の打診だった。
バルシーノの未来を担う選手として歩む道が、今まさに少年の前に示されていた。
氏真が口を開きかけた、その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが鋭く振動した。
画面に表示された名を見て、氏真の指先が止まる。母・有理が入院するバルセロナ市内の病院からだった。
「……失礼。一本だけ、電話を取らせてください」
氏真の声音に宿る気配に、強化責任者も静かに頷いた。
席を立ち、窓際へと歩いて通話を繋ぐ。
受話口から聞こえてきたのは、主治医の沈痛な声だった。
『……ウジザネ君か。夜分にすまない。母上のことで、緊急の宣告がある。病状の進行が想定を超えている。率直に言おう。現在のここの医療体制では、母上の命をこれ以上繋ぎ止めることは極めて困難だ』
胸の奥が、冷たく締め付けられた。
『だが、道が完全に閉ざされたわけではない。日本のHAYAKAWAグループの令嬢である早川愛さんから、具体的な医療支援の提案が届いていた。国内屈指の高度医療設備が整った【明青国際大学附属病院・盛岡高度医療センター】への転院だ。最新の治療体制があり、受け入れ可能だという。だが……母上は、君の欧州でのキャリアを邪魔したくないと、これまで提案を頑なに断り続けておられたのだ』
受話器の向こうから、母の想いが伝わってきた。
病床でやつれた顔に笑みを浮かべ、自分を欧州へと送り出してくれた母。
自分のために、自らの命を繋ぐ道を拒もうとしていたのだ。
さらに、氏真の脳裏にひとつの縁が浮かび上がった。
転院先となる岩手県盛岡市には、一年前から叔父の吉良剛が明青大学附属盛岡城南高校サッカー部の監督を務めている。
母の命を救う環境と、信頼できる身内がいる場所。
すべてが一本の線となって繋がった。
「……先生、分かりました。母には、僕から話します」
通話を切ると、氏真は息を整え、スマートフォンをポケットに収めた。
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4. 静かなる決断
オフィスのテーブルへと戻る氏真の足取りに、迷いはなかった。
強化責任者が怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたんだね、ウジザネ。何かトラブルか?」
氏真はテーブルの前に立ち、姿勢を正して役員の目を真っ直ぐに見据えた。
「申し訳ありません。来年四月のプロ契約のお話は、お受けできません」
静かな、だが揺るぎない声だった。
「な……何を言っているんだ? 提示額や条件なら、いくらでも調整するぞ」
「条件の問題ではありません」
氏真は首を横に振った。
「スペインの医療では、母の命を救えなくなりました。母を救うため、十月に日本の盛岡にある高度医療センターへ転院させます。……僕は母とともに、日本へ帰国します」
部屋の空気が凍りついた。
「日本へ……? 待て、ウジザネ! 来年四月まであと半年だぞ!? 今ここを離れれば、トップチームの席は別の選手に埋まる! 将来を約束されたプロ契約を白紙にして帰国するなど、正気の沙汰ではない!」
責任者が椅子を蹴るようにして立ち上がり、声を荒らげた。
あと半年で、トップチームの席に手が届く。
そのすべてを、この十五歳の少年は今、自ら手放そうとしている。
だが、氏真の瞳の奥にあったのは、後悔でも未練でもなかった。
かつて、すべてを失った記憶がある。
地位も、領国も、世間からの名声も。
それでも、愛する家族とともに生きた人生の価値まで奪われたわけではなかった。
栄光や富は、生きるための飾りに過ぎない。
「僕にとって、フットボールは生きることそのものです。だからこそ……母の命より重いものなんて、どこにもありません」
氏真は深く頭を下げた。
「これまで育てていただいた恩は、決して忘れません。ありがとうございました」
礼を終え、氏真は一度も後ろを振り返ることなく、オフィスの扉を開けて歩み去っていった。
その夜、氏真は病院へと向かった。
病室のベッドで青白い顔を横たえる母・有理の手を、両手で優しく包み込む。
自分の将来を案じて帰国を拒もうとする母の瞳を、氏真は見つめた。
「母さん、盛岡へ行こう。僕のサッカーは、どこへ行ったって終わらないよ。盛岡には剛叔父さんもいる。母さんが生きていてくれること以上に、僕に必要なものなんてないんだ」
息子の迷いのない言葉に、有理の目から涙がこぼれ落ちた。
母は小さく頷き、息子の手を強く握り返した。
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5. 北国への翼
十月。バルセロナ・エル・プラット国際空港。
秋の気配が混ざり始めた朝の光が、出発ロビーのガラス天井を白く照らしていた。
母の医療搬送の準備が進む搭乗口の近く、ボストンバッグを肩にかけた氏真の前に、仲間たちが駆けつけていた。
エステバン、サビエル、フェリペ、カレス――そして、ルナとエレナの姿もあった。
「……本気なのかよ、氏真」
エステバンが、悔しさとやるせなさに顔を歪めながら、氏真の胸ぐらに手を伸ばしかけて止めた。
「欧州獲って、トップでも点取って……これから俺たちで、世界中を驚かせるんじゃなかったのかよ!」
「エステバン」
氏真は微笑み、その肩に手を置いた。
「君たちと戦った時間は、僕の誇りだ。何も失ってなんかいない。……僕は、僕が守るべきもののために行く」
サビエルが一歩前へ出て、静かに氏真の手を握った。
「氏真……君が僕たちに教えてくれたフットボールは、胸に生き続ける。君の選んだ道を、僕たちは尊重するよ」
「ありがとう、サビエル。エステバン、フェリペ、カレス……みんな、カンプ・ノウで輝いてくれ」
「当たり前だ!」
エステバンが腕で乱暴に目元を拭った。
「お前がどこへ行こうと、俺たちの中心はお前だった。絶対に追いついてみせるからな!」
ルナが一歩歩み出た。
大きな瞳に涙を溜めながら、懸命に笑顔を作っている。
「ウジザネ……日本に行っても、有理お母様のこと、絶対に治るって信じてる。あなたのサッカーを、ずっと応援してるから」
エレナもまた、穏やかな眼差しで氏真の前に立った。
「有理さんのこと、私たちもバルセロナから祈っているわ。……ウジザネ、日本の空でも、あなたらしく舞ってみせて」
「ありがとう。みんなの言葉を、胸に刻んでいくよ」
搭乗のアナウンスがロビーに響き渡る。
氏真は仲間たち一人ひとりと視線を交わすと、母のストレッチャーが待つ搭乗ゲートへと足を踏み出した。
機体に乗り込み、窓側の席に腰を下ろす。
エンジンが重く唸りを上げ、機体がバルセロナの大地を離れて青空へと舞い上がっていった。
窓の外に広がる、青く輝く地中海と、遠ざかっていくカタルーニャの街並み。
欧州の頂点を制した若き鳳凰は、栄光に溺れることなく、自ら東の空へと向かった。
目的地は、日本。
母の新たな療養先であり、本州北部の冷涼な大地――岩手県、盛岡市。
そこには、最先端の戦術理論も、完璧に整備された天然芝のピッチも存在しない。
待っているのは、土埃の舞うグラウンドと、荒削りな高校生たちの剥き出しの情熱。
少年は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
Adiós, Barcino, adiós, España.
(さようなら、バルシーノ。さようなら、スペイン)
新たな戦いが始まろうとしていた。
第8章 急 ~ユースCL王道編~ 完
(第9章 ~青春という名のもう一つのフットボール編~ へ続く)




