第144話:【欧州戴冠】
【あらすじ】
欧州の頂点を懸けた決戦は、最後の一瞬まで激しい攻防が続いていた。仲間が繋いだボールを託された氏真の前に、強大な守備者と最後の砦が立ちはだかる。母の言葉を胸に、少年は己のフットボールと向き合う。
1. 嵐の防波堤
後半44分。
スコアボードに刻まれた『2―2』の数字が、熱気を孕んだスタッド・ドゥ・ジュネーヴの空の下で激しく瞬いていた。
ピッチ上の全員が限界を超え、ユニフォームは泥と汗に塗れ、荒い呼吸が初夏の夕風に混ざり合っている。
「押し込め! 弾かれても拾え!」
マンチェスター・イーストのベンチから、喉を嗄らした叫びが飛ぶ。
同点に追いつかれたイングランドの王者は、誇りを懸けてバルシーノの陣内へ怒濤の圧力をかけていた。
その先頭に立つのは、終盤に投入された背番号20――アラン・ホーク。
百九十センチを超える巨躯が、地鳴りを立てるようなストライドで中央へと突進してくる。
中盤の底から、司令塔ケヴィン・ブルックが右足をコンパクトに振り抜いた。
ゴール前へ放り込まれる、滞空時間の長い正確なハイボール。
ペナルティエリア中央。
カレスとアレハンドロが二人がかりで身体をぶつけるが、ホークはその圧力を弾き飛ばすように跳躍した。
ドッ!
重い衝撃音とともに叩きつけられたヘディングシュート。
鋭くバウンドし、ゴール左隅へ向かう弾道へ、主将のトニ・ラマジェが決死の横っ飛びを見せた。
バシィッ!
ラマジェの右手が、わずかにボールの軌道を外側へ弾き出す。
こぼれ球に反応したセス・アーチャーが右足を振り抜くが、身を投げ出したフェランが太ももでブロック。
跳ね上がったボールが、ペナルティエリアの外へと転がり出た。
「セカンドボール!」
イーストのテイラーが猛然と走り込む。
だが、その落下点へ、泥まみれになった背番号7――サビエルが頭から突っ込んだ。
激しい衝突。
額で競り勝ったサビエルが倒れ込みながらも、ボールを前方の中盤へと押し出す。
こぼれた球を、交代出場のテンテが拾った。
テイラーのプレッシャーを受けながらも、テンテは身体を低く入れてボールを守り、前線へと顔を上げる。
イーストの最終ラインは、波状攻撃を仕掛けるためにセンターライン付近まで押し上げられていた。
背後には、広大な芝生が広がっている。
テンテは迷わなかった。
右足のインサイドで、相手の頭上を越す鋭い浮き球を中央へ蹴り出す。
「走れッ!」
ベンチから、交代したダビアンが身を乗り出して叫ぶ。
ボールの落ちる先には、青と臙脂の背番号29が走り出していた。
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2. 剛と柔
落下点を見極めながら、吉良氏真は自陣から一気にスピードを上げた。
前方には、広大なマンチェスター・イーストの無人の陣地。
だが、氏真の背後から、地鳴りのような足音が迫っていた。
背番号3、ヴィンセント・コール。
イーストの守備を束ねる屈強な闘将が、全速力で追走してきていた。
前を向かせない。
トラップの瞬間に背後から身体をぶつけ、力づくでボールごと刈り取る――コールの判断は、守備者として寸分の狂いもなく正しかった。
空中から落ちてくるボール。
背中に突き刺さるコールの気迫と重圧。
力で耐えようとすれば、確実に弾き飛ばされる。
だが、氏真の心は、水底のように静まり返っていた。
(……焦らない)
カタルーニャの病室にいる母の声が、静かに脳裏をよぎる。
『結果を急いではいけません。あなたらしく、美しく舞いなさい』
仲間たちが身体を張り、命懸けで繋いでくれたボールだ。
自分ひとりで背負い込む重圧は、もうどこにもなかった。
ただ、託されたボールを次の場所へ運ぶ。
その呼吸だけが身体を満たしていた。
氏真は、背後から迫るコールに対して踏ん張らなかった。
肩の力を完全に抜き、背筋を自然に伸ばしたまま、落下してきたボールの勢いを右足の甲で柔らかく殺す。
その瞬間、コールの分厚い胸板が、氏真の背中へと激突した。
ドシィッ!
鈍い衝撃がピッチに響く。
だが、氏真は倒れなかった。
接触の瞬間、身体を固めず、コールの突進を受け流すように右足を踏み替える。
その勢いを自らの回転へとつなげ、相手の力が向かってきた方向へ、身体を滑らせるように身を翻した。
「なっ……!?」
コールの瞳が見開かれた。
全開の力でぶつかったはずの感触が、ふっと霧のように消え去る。
渾身のチャージを空振らされたコールは、自らの前進の勢いを制御できず、足をもつれさせて前方の芝生へと手をついた。
無駄な力を使わず、相手の重心と勢いを利用して入れ替わる。
完全に背後を断ち切った氏真の前に、ペナルティエリアへと続く一本の道が切り拓かれた。
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3. 弧を描く
「行け、氏真ッ!」
ピッチ脇のジョゼップ監督が腕を振り下ろして叫ぶ。
氏真は前を向き、流れるような歩幅でボールを前方へと運んだ。
残る障壁は、あと一人。
イーストのゴールを守る最後の砦、ジョー・ブレイク。
獰猛な気迫をみなぎらせた大柄の守護神が、猛然と間合いを詰めて飛び出してきた。
両腕を大きく広げ、身体を投げ出すようにして低く構え、シュートコースを完全に塞ぎにかかる。
一瞬でもモーションが大きくなれば、その強靭な反応で弾き出される。
後ろからは、体勢を立て直したコールが死に物狂いで追いすがってきていた。
だが、氏真の視野は澄み渡っていた。
ブレイクの足元。
飛び出してきたキーパーが、至近距離からの強打に備え、グッと重心を落として両足を芝に沈めた――そのわずかな硬直。
氏真は足を振りかぶらなかった。
力強く踏み込むこともしない。
走るリズムを崩さないまま、右足の甲でボールの下を薄く捉える。
すくい上げるように、滑らかに撫でた。
トン、と乾いた小さな音が響いた。
「……しまっ」
ブレイクの顔から血の気が引いた。
放たれたボールは、緩やかな回転を帯びながら、ふわりと夕暮れの空へ浮き上がった。
ブレイクの伸ばした指先の、わずか上。
触れることの叶わない高さへと舞い上がり、茜色に染まり始めたジュネーヴの空に綺麗な弧を描いていく。
スタジアムを埋め尽くした三万人を超える大観衆が、息を呑んだ。
重力に引かれて静かに落ちていくボール。
クロスバーのわずか下。
誰の手も届かない空間をすり抜け、ボールは吸い込まれるようにゴール天井のネットを揺らした。
パサッ。
微かな、だが確かな音が、ジュネーヴの静寂を切り裂いた。
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4. 欧州戴冠
次の瞬間、スタジアムが地鳴りのような咆哮に包まれた。
後半アディショナルタイム三分。
3―2。
バルシーノ、勝ち越し。
ピピッ、ピピィィィッ――――!!
センターサークルへ向かって走る主審が、両手を高く空へと突き上げ、試合終了の長い笛を吹き鳴らした。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
ベンチから選手、スタッフ全員がピッチへと雪崩れ込んでくる。
エステバンが、サビエルが、フェリペが、全速力で氏真へ向かって突進してきた。
「氏真ぁぁぁぁッ!」
エステバンが雄叫びを上げながら飛びつき、氏真を抱き留めるように芝生へと倒れ込んだ。
その上からサビエルが、カレスが、ベンチから走ってきたダビアンが重なり、歓喜の叫び声を上げながら氏真をもみくちゃにする。
スタンドの青と臙脂のサポーターが、涙を流しながらクラブの歌を叫ぶように歌い上げていた。
ベンチ前ではジョゼップ監督がコーチ陣と固く抱き合い、主将のラマジェはピッチに膝をついて顔を覆っている。
仲間たちの温かい重みの中で、氏真はゆっくりと息を吐き出した。
芝生の匂い。
吹き抜ける爽やかな夕風。
仲間たちが身体を張って守り、走り、信じて前へ蹴り出してくれたからこそ、最後の道が開かれた。
託されたボールを、ゴールへ届けることができた。
起き上がった氏真の前に、一人の男が歩み寄ってきた。
ヴィンセント・コール。
泥にまみれたイーストの闘将は、荒い息を吐きながら氏真を見つめていた。
その表情には痛烈な悔しさが刻まれていたが、瞳の奥にあった険しさは消え、澄んだ敬意が宿っていた。
コールは無言のまま、右手を差し出した。
氏真もまた、しっかりと背筋を伸ばし、その大きな手を握り返した。
「……見事だったよ、背番号29」
コールが低く、だが確かな声で言った。
「お前のフットボールが、俺たちの誇りを上回った」
「ありがとう。あなたたちと戦えて、本当によかった」
十五歳の少年らしい、飾らない言葉だった。
薄暮の空の下、ピッチの中央に表彰台が設営されていく。
夜の帳が下り始めたスタジアムに照明が灯り、降り注ぐ無数の紙吹雪の中で、主将のラマジェと氏真の手によって、銀色に輝くトロフィーが高々と掲げられた。
割れんばかりの歓声が、夜空を揺るがす。
かつて遠い歴史の陰影を背負い、異国の地で、孤独の中、戦っていた少年は、仲間を信じ、仲間に託す強さを知った。
傷つきながらも立ち上がり、仲間とともに欧州の頂点へと羽ばたいたその姿は、誇り高き鳳凰そのものだった。
ジュネーヴの夜空の向こう。
遠く離れた母へ届けるように、少年はトロフィーの重みを胸に抱きしめた。
そして、誇らしげに微笑んだ。




