第143話:【鳳凰のタクト】
【あらすじ】
二点のビハインドを背負い、後半へ挑むバルシーノ。氏真はボールを持たず、立ち位置と身体の向きだけで相手守備に揺さぶりをかける。仲間たちは生まれた空間をどう活かすのか。そして、追い詰められた王者が最後に繰り出す一手とは――。
1. 狂い始めた座標
後半開始を告げる笛が、初夏のジュネーヴの空に響き渡った。
スコアは0―2。
二点ビハインドで迎えたバルシーノのキックオフ。
ボールを下げ、最終ラインのカレスからフェラン、そしてアンカーのサビエルへとボールが動く。
マンチェスター・イーストの陣形に淀みはなかった。
前半と同じく研ぎ澄まされた連動で、サビエルの前方を塞ぎにかかる。
アンカーのロドニー・クラークが中央の縦パスを遮断し、インサイドハーフのテイラーが鋭い出足でサビエルの右足を制限しに寄せてきた。
サビエルが身体を右へ開き、外側へ逃げようとする――。
その予備動作に合わせ、イーストの左ウイング、グラントが外側のパスコースへ先回りのステップを踏む。
だが、前半と決定的に違っていたのは、最前線の背番号29だった。
吉良氏真は、中央にいなかった。
前線に張るでもなく、ファルソ・ヌエベとして真後ろへ下りるでもない。
相手のセンターバックとサイドバックの間――右ハーフスペースの浅い位置へ、静かにポジションを移していた。
走らない。
急なダッシュもしない。
歩くような自然な足取りで、相手アンカー、クラークの視野の端へと身を滑り込ませる。
クラークの視線が、わずかに氏真の足元へ引かれた。
前半、氏真の落としを完璧に刈り取った記憶が、クラークの身体を無意識に反応させる。
クラークが半歩、氏真を警戒して右前へ体重を傾けた。
氏真はボールを要求しなかった。
呼ぶこともしない。
ただ、自らの身体の向きをゴール方向ではなく、右大外のレオンへとわずかに開いただけだった。
その姿勢に釣られ、相手センターバックのロックウェルも外側への警戒を一瞬強める。
中央のバイタルエリアに、ぽっかりと空白が生まれた。
「サビエル!」
鋭い声とともに、左サイドから中央の空間へ斜めに走り込んできたのは、背番号10――エステバンだった。
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2. 空白への突進
サビエルは氏真を見なかった。
氏真が動いたことで生まれた、その空間だけを見ていた。
テイラーが身体を寄せてくる直前、サビエルは右足のインサイドで、地を這うような鋭い縦パスを打ち込む。
ボールは、クラークが空けた中央のスペースを真っ直ぐに突き抜けた。
「絞れ! 中を締めろ!」
主将ヴィンセント・コールの怒号が飛ぶ。
だが、クラークは外側へステップを踏んだ直後だった。
中央へ戻る重心の切り替えが間に合わない。
フリーでバイタルエリアに侵入したのは、エステバンだった。
寄せてくるコールに対し、エステバンは迷わない。
受ける瞬間、右足のアウトサイドでボールを前へ持ち出し、コールの間合いの外側へ鋭く抜ける。
「行かせるか!」
コールの巨躯が横から覆いかぶさるようにチャージに来る。
だが、トップスピードに乗ったエステバンは身体を投げ出すように踏ん張り、ペナルティエリア手前から右足を一閃した。
鋭いインパクト音。
放たれたシュートは相手ディフェンスの足元をすり抜け、地を這う弾丸となってゴール右隅へ一直線に向かう。
GKジョー・ブレイクが決死の横っ飛びを見せた。
だが、濡れた芝で加速したボールは、伸ばされたブレイクの指先をすり抜け、サイドネットの内側を激しく揺らした。
バシュッ!
後半八分。
1―2。
バルシーノ、一点差。
「よっしゃあぁぁぁッ!」
ネットを揺らしたエステバンが、コーナーフラッグへ咆哮しながら疾走する。
スタンドの青と臙脂のサポーターが一斉に総立ちとなり、ジュネーヴの空を割れんばかりの大歓声が揺らした。
駆け寄ってきたサビエルがエステバンの胸を強く突き、カレスが雄叫びを上げて背中に飛びつく。
その輪へ、氏真も弾むような足取りで駆け寄っていった。
エステバンが振り返り、白い歯を剥き出しにして笑う。
「見たか氏真! 言った通り、真ん中がガラ空きだったぞ!」
「ナイスシュート、エステバン! あんな体勢から決めきるなんて、さすがだよ」
氏真は少年の顔に戻り、心からの笑顔でエステバンの手を固く握った。
相手のアンカーを半歩動かして生まれた隙間。
そこを見逃さず、自らのトップスピードと力強いシュートでゴールへねじ込んだのは、エステバン自身の才能だった。
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3. 王者の修正
失点を喫したマンチェスター・イーストだったが、その動揺は長く続かなかった。
「ラインを保て! 29番の囮に釣られるな!」
主将のコールが手を叩き、最終ラインと中盤を引き締める。
失点の原因が、氏真の立ち位置によってクラークが外側へ吊り出されたことにあると、ピッチ上の選手たちは即座に理解していた。
リスタート後、イーストは守備の優先順位を素早く修正する。
氏真がハーフスペースへ下りても、クラークは中央のレーンを捨てない。
ゴール前への最短距離を固め、氏真への対応は周囲との受け渡しで冷静に処理し始めた。
さらに、攻撃のギアを一段引き上げ、バルシーノを押し込みにかかる。
司令塔のケヴィン・ブルックが中盤深くから長短のパスを配給し、右ウイングのフォードが鋭い仕掛けでサイドバックのキケを脅かす。
後半二十分。
ブルックの低弾道クロスから、エースのセス・アーチャーが放ったダイレクトボレーがクロスバーを直撃した。
跳ね返りをラマジェが必死に抑え込み、スタジアムに悲鳴のような溜め息が漏れる。
「耐えろ! ラインを押し上げろ!」
ラマジェの檄が飛ぶ。
スコアは依然として1―2。
一点を返したとはいえ、主導権を完全に奪い返すまでには至っていなかった。
バルシーノの守備陣にも、相手のハイペースな波状攻撃による疲労の色が濃くなり始めている。
後半三十分を過ぎ、ジョゼップ監督が動いた。
「テンテ、フェリペ、アレハンドロ。行くぞ!」
後半三十五分、三枚同時の交代。
運動量の落ちたダビアン、アントニ、キケを下げ、ピッチへ送り込まれたのはボランチのテンテ、インサイドハーフのフェリペ、そしてセンターバックのアレハンドロ。
最終ラインを三枚に再編し、中盤の底にサビエルとテンテを並べる[3-4-3]へシフトする。
ピッチに入った背番号25、フェリペが、右インサイドハーフの位置へダッシュで入った。
駆け寄ってきたフェリペに、氏真は短く言葉をかけた。
「フェリペ、右のポケットを狙い続けて。僕が相手を動かすから、自分のタイミングで迷わず走って」
「あぁ、任せろ!」
フェリペの瞳に、強い光が宿った。
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4. 逆サイドの歪み
リスタート。
バルシーノの後方からのビルドアップ。
サビエルから、投入されたばかりのテンテへ。
テンテは身体を張り、テイラーのプレッシャーを受け止めながら、右大外のレオンへ展開する。
ボールが右サイドへ動いた瞬間、イーストの守備ブロック全体が定石通りにボールサイドへスライドした。
中央を締め、外側へ追い込む連動。
そこで、氏真が動いた。
今度は右へ寄るのではない。
ボールの進行方向とは真逆――中央から左ハーフスペースの奥へ、静かに身体を滑り込ませる。
走らない。
歩幅を一定に保ち、脱力したまま、相手左センターバックのカーターとコールの中間地点へ立った。
(逆サイドへ振る気か……?)
コールの意識が、左奥の氏真の立ち位置へ引きつけられる。
氏真の身体の向きは、いつでも左サイドから飛び込んでくるエステバンへボールを落とせる角度を作っていた。
これ以上中央を空けまいと、クラークもわずかに左へ重心をスライドさせる。
その瞬間、右サイドでボールを持っていたレオンが、強引な縦突破をやめた。
マークについていたウォーレンの間合いを一瞬のステップで外し、斜め後方のテンテへ戻す。
右から、中央へ。
テンテが前を向いた。
その先に、右ペナルティエリア脇のスペースが見えた。
そこへ、トップスピードで斜めに飛び込んできた影がある。
背番号25、フェリペ。
氏真に言われたからではない。
「今だ」と自ら判断した瞬間、迷いなくスプリントを開始していた。
「しまっ――!」
左サイドの氏真を警戒して絞っていたイーストの守備陣が、一斉に逆サイドへ首を振る。
だが、もう遅い。
重心が左へ流れた守備ブロックの死角へ、フェリペが飛び込んだ。
テンテの右足から、鋭いグラウンダーのスルーパスが放たれる。
フェリペの足元へ、寸分の狂いもなく届いた。
ペナルティエリア右深く。
飛び出してきたGKブレイクが、コースを消すために身体を広げて間合いを詰める。
フェリペに迷いはなかった。
絶妙なファーストタッチでボールを前方へ置く。
そして、右足を躊躇なく振り抜いた。
ドッ!
ニアサイドの上隅を狙った強烈なシュート。
ブレイクの右腕を弾き飛ばしたボールが、ゴール天井のネットへ突き刺さった。
バシィィィッ!!
後半三十八分。
2―2。
バルシーノ、同点。
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5. 咆哮と予感
スタジアムが、地鳴りのような歓声で爆発した。
「うおおおおおおっ!」
同点ゴールを叩き込んだフェリペが、両拳を突き上げて咆哮する。
ベンチから選手たちが飛び出し、ピッチ上の仲間たちが折り重なるようにフェリペへと飛びついた。
エステバンがフェリペの頭を乱暴に撫で回し、サビエルが歓喜の叫びを上げる。
ベンチ前のジョゼップ監督が力強くガッツポーズを繰り出し、スタンドのサポーターが青と臙脂の旗を振り乱していた。
二点差を追いついた。
前半、完璧に封じ込められていたチームが、後半わずか三十数分の間に、イーストの守備網を二度にわたって内側から突き崩した。
歓喜の中心へ、氏真も弾むような足取りで駆け寄った。
もみくちゃにされているフェリペの肩を抱きしめる。
「フェリペ、素晴らしい抜け出しだった!」
「ウジザネ……! 見事だ!」
フェリペが興奮で紅潮した顔を輝かせる。
氏真は嬉しそうに頷いた。
自分が空けた空間へ、迷わず自らの意志で飛び込んでくれた仲間が、誇らしかった。
センターサークルへ戻る途中、氏真は強い視線を感じて顔を上げた。
数メートル先。
マンチェスター・イーストの主将、ヴィンセント・コールが立ち尽くしていた。
屈強な闘将の顔には、苛立ちと、状況を理解しようと努める険しい光が宿っている。
ボールに触れていない。
ドリブルで抜かれたわけでもない。
それなのに、背番号29が位置を変えるたび、自分たちが信じてきた連動が逆手に取られ、二つのゴールを奪われた。
(……何者だ、あいつは)
コールがわずかに眉を寄せ、鋭い眼差しを向けてくる。
その時、イーストのベンチ前で、第四審判が交代ボードを掲げた。
トラックジャケットを脱ぎ捨て、ピッチ脇に姿を現したのは、百九十センチを超える屈強な体躯を誇る背番号20――アラン・ホーク。
ピッチへ踏み出す一歩一歩が、重く芝を踏みしめる。
冷徹な組織力に、個の圧力を上乗せする――イーストが最後に切ったカードだった。
残り時間は、アディショナルタイムを含めて七、八分。
追いつかれた王者が、誇りを懸けて牙を剥こうとしていた。
狂乱のスタジアムの中、十四歳のストライカーは静かに呼吸を整え、来るべき決着の瞬間を見据えていた。




