第134話:【病室の笑顔】
【あらすじ】
スペイン国王杯を手に、氏真は病床の母・有理を訪ねる。ガラス越しに交わした言葉が、氏真の胸に新たな決意を刻んだ。母には母の戦いがある。ならば自分は、自分のフットボールを生きる。仲間とともに、次なる舞台へ向かう。
1. 朝の病棟
セビリアの夜空に舞った黄金の紙吹雪から、半日。
早朝のバルセロナは、熱狂の余韻を冷ますように静まり返っていた。
氏真は遠征用のバッグを背負い、黒い布で包まれた重みのある荷物を抱えて、カタルーニャ総合病院のエントランスをくぐった。
人のまばらなロビーを抜け、エレベーターで無菌管理フロアへと上がる。
受付で靴を履き替え、手洗いを済ませてマスクを着けた。
ガラス越し面会用の小部屋に入ると、空調装置が吐き出す低い風音だけが室内に満ちていた。
透明な仕切りの向こう。
白いシーツの中央に、母・吉良有理が横たわっていた。
腕には点滴のチューブが留められ、鼻には酸素カニューレが掛けられている。
肌は青白く、頬の肉も落ちていた。
だが、氏真が椅子を引いたわずかな気配に、有理のまぶたがゆっくりと持ち上がった。
ガラス越しに息子の姿を捉えた瞬間、母の唇がふわりと緩む。
氏真は胸元の布をほどき、銀色の塊を静かに持ち上げた。
スペイン国王杯のトロフィーだった。
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2. ガラス越しの戴冠
壁に掛けられたインターホンの受話器を取り、耳に当てる。
ガラスの向こうで、有理もまた細い手で受話器を取った。
『……おめでとう、氏真』
スピーカーから漏れてきたのは、掠れてはいるが、少しも曇りのない声だった。
『中継、病室のテレビで観ていたわ。最後まで……本当に、気高く、美しいフットボールだったわね』
「母さん……」
『ありがとう、氏真。あなたのプレーを見られて、本当によかった』
有理の目尻に、微かな光が滲んだ。
氏真はトロフィーを抱えたまま、ガラスの前へ一歩近づいた。
「みんなで、獲ったんだ」
氏真は言った。
「僕ひとりじゃ、届かなかった。仲間にボールを預けて、仲間が僕に預けてくれて……そうやって、最後にこじ開けたんだ」
有理は目を細め、小さく頷いた。
『ええ。画面越しにも伝わってきたわ。あなたはもう、ひとりで抱え込んでいない。……それが何より嬉しかった』
有理の息が乱れ、短く咳き込んだ。だがすぐに背筋を正し、微笑んだ。
その眼差しを見つめながら、氏真の胸の奥に、ある言葉がせり上がってきた。
(次の欧州も、僕が必ず勝って――)
母を安心させたい。
欧州ユースチャンピオンズリーグのトロフィーを持ち帰り、病気に立ち向かう力にしてもらいたい。
だが――。
氏真はその言葉を喉元で呑み込み、静かに唇を結んだ。
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3. 戦場の分離
言ってはならない。
それは、かつて自分が囚われかけた驕りだった。
母の病気は、母自身の戦いだ。
どれほど勝利を重ねようと、自分が病を引き受けることはできない。
母のために勝つのではない。
母の戦いを言い訳にせず、自分のフットボールを貫く。
それこそが、交わした約束だった。
氏真は受話器を握る手に少しだけ力を込め、ガラス越しに母の瞳を見つめた。
「母さん。明後日、スイスへ飛ぶよ」
有理の眉が、わずかに動いた。
「欧州ユースCLの準決勝。相手はイングランドのビートルズFCだ。簡単な相手じゃない。でも、僕の持てるすべてをピッチに置いてくる」
有理は静かに耳を傾けていた。
「母さんがここで戦っているように、僕も自分の持ち場から逃げない。……約束するよ」
受話器の向こうで、母が息を吸い込んだ。
そして、力強く頷いた。
『ええ。行ってらっしゃい、氏真。……私はここで、私の戦いをするわ。決して負けないから』
「うん」
氏真はトロフィーをサイドテーブルに置き、右手をガラス板に当てた。
有理もまたベッドから腕を伸ばし、ガラス越しに掌を重ねてくる。
触れ合うことはできない。
冷たいガラスの板が隔てている。
「行ってきます、母さん」
『ええ。あなたの足元を、生きなさい』
母の澄んだ声を聞き届け、氏真は受話器を置いた。
一礼し、部屋を出た。
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4. 託される背中
病棟のエレベーターを降り、静まり返ったロビーへ出たところで、ポケットのスマートフォンが短く震えた。
画面に表示されたのは、日本にいる早川愛の名だった。
通話ボタンをスライドさせ、端末を耳に当てる。
受話口から、時差を感じさせない、いつもの落ち着いた声が届いた。
『氏真様。有理お母様にお会いできましたでしょうか』
「うん。トロフィー、見せられたよ。すごく喜んでくれた」
『左様でございますか。……良かったです』
愛の声に、微かな安堵が滲んでいた。続けて、書類をめくるような微かな摩擦音が聞こえる。
『お母様の今後の治療方針について、先ほど主治医、ならびに日本側の専属医療チームと確認を終えました。万全の手筈を整えております。スイス遠征中、氏真様が病院の手続きや実務に心を煩わせる必要はございません。ピッチの外のことは、すべてわたくしたちにお任せください』
「愛さん……ありがとう」
『礼には及びません。わたくしの役目は、氏真様が何の憂いもなくピッチに集中できる環境をお守りすることですから』
電話の向こうから、不意に舞の声が割り込んできた。スピーカー越しに元気を届けるような、張りのある声だった。
『ウジ様! ビートルズFCの最新スカウティングデータ、クラウド経由でクラブの分析班に共有しておいたからね。手強い相手だけど……今のウジ様たちなら、絶対に戦えるよ』
「ありがとう、舞ちゃん」
『はい。ご武運を、氏真様』
通話が切れる。
手の中の端末を見つめ、氏真は静かに息を整えた。
遠く日本にいる愛と舞もまた、それぞれの持ち場で戦い、自分を支えてくれている。
信頼し、互いの役割を預け合っているという確かさが、胸の奥を満たしていた。
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5. 次なる空
バルセロナ・エル・プラット国際空港の出発ゲート。
ロビーには、バルシーノ・フベニルAの遠征団が集結していた。
青と臙脂のチームジャージに身を包んだ仲間たち。
エステバンが搭乗口の前で伸びをし、サビエルが戦術ノートに目を落とし、カレスがトレーナーと脚の状態を確認している。
「よお、氏真! 遅かったじゃねえか」
氏真の姿を見つけたエステバンが、片手を挙げて笑いかけてきた。
「ごめん、少し寄るところがあって」
「トロフィーは置いてきたか? まさかスイスまで持っていく気じゃねえだろうな」
「ちゃんと預けてきたよ」
氏真が苦笑交じりに応じると、主将のトニ・ラマジェが歩み寄ってきた。
「コンディションはどうだ、氏真」
「問題ありません、カピタン」
ラマジェは氏真の瞳を見つめ、頷いた。
「よし。次はイングランドのビートルズFCだ。マフリットとはまるで違うサッカーをしてくる。……全員で勝ちにいくぞ」
「はい」
搭乗アナウンスが流れ、選手たちがゲートへと歩き出す。
ジョゼップ監督が先頭に立ち、選手たちを機内へ促していた。
ボーディングブリッジを渡り、窓側の席に腰を下ろす。
シートベルトを締め、背もたれに身を預けた。
やがて機体が滑走路を走り、静かに宙へと浮き上がる。
窓の外には、地中海の深い青と、見慣れたバルセロナの街並みが急速に遠ざかっていくのが見えた。
機体は白い雲の層を抜け、青空の中を水平飛行へと移る。
氏真は膝の上で静かに息を整えた。
母は今、病室で自分の命と戦っている。
自分はその痛みを肩代わりすることはできない。
ガラス越しに見た、母の笑顔を思い出す。
(だから僕も、僕のフットボールを全うする)
胸の内に、静かな覚悟が落ちていく。
雲海の向こう。
決戦の地、スイス・ニヨンが近づいていた。
【次回予告】
なぜ、あの瞬間に預けなかったのか――。見えていた。仲間も、スペースも。それでも氏真は、自ら前を向くことを選んだ。母への想いが、知らぬ間に判断を変えていたのか。後半、氏真が出す答えとは。
第135話:【CL準決勝・ビートルズFCの要塞】次なる天下へのパスを回せ!
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今後も氏真の物語を、温かく一緒に見届けてください。




