第128話:【二人のストライカー】
【あらすじ】
国王杯決勝を目前に控え、氏真はライバル・凱斗の新たな姿を目の当たりにする。かつてとは違うそのプレーに、氏真は自らが掴んだ「預ける」という感覚との共通点を見出す。だが、二人のストライカーが辿り着いた答えは、決して同じものではなかった――。
1.モニターの青い光
シウダ・エスポルティバの戦術分析室は、遮光カーテンで外光を遮られ、薄暗い静寂に沈んでいた。
正面の大型モニターが放つ青白い光が、パイプ椅子に並ぶ選手たちの横顔を照らし出している。
画面に映し出されているのは、週末に迫ったスペイン・ユース国王杯決勝の対戦相手――レアル・マフリット・フベニルAの準決勝、FCセニョール戦の映像だった。
画面右上のスコアボードは、前半終了時点で『2―0』を示している。
「……相変わらず、無駄がねえな」
最前列で腕を組んでいたエステバンが、低く息を吐き出した。
前半のピッチを支配していたのは、白い背番号10――クリストファーだった。
相手のボランチとセンターバックの間、いわゆるライン間のわずかな隙間に音もなく立ち続け、ボールを受けると最小限のステップで相手の守備網をずらしていく。
二十分の先制点は、ハーフスペースへ侵入して放ったグラウンダーのミドル。
三十五分の追加点も、飛び出してきたゴールキーパーの重心を見極め、逆を突いて流し込んだものだった。
セニョールの屈強な守備陣は、クリストファーの立ち位置一つに翻弄され、前半だけで足を止められていた。
「前半はクリストファーの個と配球で二点だ」
リモコンを手にしたジョゼップ監督が、抑揚のない声で言った。
「だが、マフリットの監督はハーフタイムでシステムを変えた。[4-2-3-1]から[4-4-2]へ移行し、前線に一枚を投入している。……ここからを見ろ」
早送りされた映像が、等速再生に戻る。
後半開始のピッチへ、白い背番号9が歩み出てくる。
太い首、厚みのある胸板、短く刈り込んだ黒髪。
画面越しにも伝わってくる重い圧力が、分析室の空気を一段低く沈めた。
織田凱斗。
氏真は、膝の上で組んでいた指先を静かにほどいた。
全日本のピッチで対峙したときの記憶が、肌の奥でかすかに蘇る。
かつての凱斗は、自陣深くまでボールを要求しては、力任せの突破で相手をなぎ倒そうとする、剥き出しの暴走機関だった。
だが、画面の中の凱斗は違っていた。
大声を上げてパスを要求することもない。
強引に下がることもしない。
相手の二枚のセンターバックの間にあるわずかなスペースへ、どっしりと身体を置いていた。
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2.固定される基準点
後半十二分のプレーだった。
マフリットのアンカーから、前線へ低く速いロングフィードが蹴り込まれる。
ボールの落下地点へ、凱斗がわずかに下がりながら入る。
背後から、セニョールの主将を務める百九十センチ近い巨漢センターバックが、雄叫びを上げて突進してきた。
「潰される――」
右サイドバックのアントニが、思わず息を呑んだ。
だが、吹き飛んだのは凱斗ではなかった。
ドシッ。
鈍い衝撃音がスピーカーから響く。
凱斗は相手の突進に合わせて骨盤を沈め、スタンスをわずかに広げていた。
そして、背中に強烈なチャージを受ける瞬間、上半身の力をふっと抜く。
相手の勢いを真正面から受け止めるのではなく、身体全体で受け流す。
そのまま落ちてきたボールを、右足のインサイドで柔らかく足元へ収めた。
(……相手の重心を、背中で固定した)
氏真の目が細くなる。
凱斗は反転しようとしなかった。
力尽くで押し返そうともしない。
ただ、相手CBの身体を背中で受け止めたまま、そこから離れない。
相手CBはボールを奪おうと、凱斗へ密着する。
その瞬間、セニョールの最終ラインに歪みが生じた。
CBが一枚、凱斗に引きつけられて足を止めたのだ。
そこへ、後方から前向きのスピードで走り込んできた影があった。
クリストファーだった。
凱斗は首を振って確認することすらしなかった。
背後から近づく足音だけで位置を把握しているかのように、右足の足裏でボールを後方へチョンと引く。
柔らかなレイオフ。
ボールが、トップスピードで前を向いたクリストファーの走路へ滑り込んだ。
「なっ……」
分析室の誰かが声を漏らす。
前向きのクリストファーがボールを拾う。
セニョールのボランチと、もう一枚のCBが、シュートコースを塞ぐために中央へ絞った。
守備陣全体の視線が、ボールを持つクリストファーへ集まる。
その瞬間だった。
ボールを落とした直後、凱斗が動く。
密着していた相手CBの身体が、クリストファーへ意識を向けたわずかな隙。
凱斗はその背後へ滑り込むように、相手の視界から消えた。
中央へ絞った守備陣の背後。
ぽっかりと空いたゴール前へ、最短距離で走り込んでいく。
クリストファーの右足から放たれたのは、シュートではなかった。
相手DFの足元を抜く、鋭いスルーパス。
完全にフリーで抜け出した凱斗の足元へ、ボールが滑り込む。
キーパーと一対一。
凱斗は躊躇なく右足を振り抜いた。
ズバァンッ!
鋭い音とともに、ボールがネットを揺らす。
スコアは『3―0』へと変わった。
画面の中で、凱斗は吠えなかった。
駆け寄ってきたクリストファーと短く拳を合わせ、淡々と自陣へ小走りで戻っていく。
さらにその十分後。
左サイドからのクロスに対し、凱斗が相手CBの上から叩きつけるようなヘディングを決め、四点目。
結果は『4―0』。
後半の二得点は、いずれも途中出場した織田凱斗によって生み出されていた。
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3.二つの連携、二つの思想
「……嘘だろ」
レオンが椅子の背もたれに身体を預け、呆れたように呟いた。
「あの織田凱斗が、味方にパスを出してポストプレーだと? あんなの、あいつのサッカーじゃないだろ」
「プレースタイルを変えたのか……?」
ダビアンも眉をひそめ、画面を見つめている。
かつて知られていた凱斗の悪評――独善的で、周囲を使わず、己の力だけで局面を壊そうとする暴君という姿とは、あまりにもかけ離れていた。
室内に困惑が広がる中、ジョゼップ監督が無言でリモコンを操作した。
映像が一時停止する。
画面には、クリストファーへボールを落とした直後、相手CBの死角へ抜け出そうとする凱斗の姿が静止している。
氏真の右足の爪先が、ピクリと小さく動いた。
(……同じだ)
昨日、ピッチでエステバンとの間に掴んだ、あの身体感覚。
相手を引きつける。
ボールを預ける。
自分は相手の死角へ抜ける。
一人でボールを抱え込んでいたときには生まれなかった時間と角度を、味方との連動によって作り出す。
氏真が身体で掴んだ感覚と、画面の中で凱斗が実行しているプレー。
そこには、確かに同じ構造があった。
(……いや、違う)
氏真の胸の奥で、何かが静かに弾けた。
形は同じ。
だが、その根にあるものは違う。
自分は、母の言葉に打たれ、仲間の怒りに向き合い、他者を信じて弱さを預けた。
一人で背負いきれないものを、仲間と分け合うためにボールを託した。
だが、凱斗は違う。
凱斗は、エゴを捨てたのではない。
一人で突っ込んでも、欧州の屈強なCBに囲まれれば、自分の力を最後まで出し切れない。
だから、味方を使う。
自分を止めようとする相手を引きつけ、クリストファーに前を向かせる。
そして、自分がゴールへ入るための時間と場所を作る。
クリストファーも同じだった。
凱斗を自由にすることで、自分のパスを決定機へ変える。
互いに相手へ身を預けているわけではない。
互いの武器を理解し、自分のゴールへつなげるために、徹底して使い合っている。
信頼と利用。
出発点は、正反対だった。
それなのに――。
ピッチの上では、同じ場所へ辿り着いている。
「ウジザネ」
ふいに、隣からエステバンの低い声が飛んできた。
エステバンはモニターを見つめたまま、口の端をわずかに歪めている。
「お前には、あいつがどう見えてる」
分析室の視線が、氏真へ集まった。
氏真はゆっくりと息を吐き出す。
余計な言葉は、いらなかった。
「……あいつ、前よりもずっと、ストライカーになってる」
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4.疼く右足
「ミーティングは以上だ」
ジョゼップ監督がモニターの電源を落とした。
暗転した黒い画面に、部屋の灯りと選手たちの輪郭がぼんやりと映り込む。
「明日は国王杯決勝前日。スタジアムで公式練習を行う。各自、身体のケアを怠るな。解散」
選手たちが立ち上がり、ざわめきとともに部屋を出ていく。
カレスやサビエルはマフリットの攻撃陣について小声で言葉を交わし、レオンはどこか苛立ったように首を回していた。
氏真は最後に席を立ち、廊下へ出た。
窓の外には、バルセロナの夕暮れが広がっている。
西の空が、紫と朱に染まっていた。
カタルーニャ総合病院の白い部屋で、今この瞬間も治療を受けている母の姿が、胸をかすめる。
母の病気という現実は、何一つ解決していない。
明日も、明後日も、母は戦い続ける。
その現実は、何も変わっていない。
だが、今の氏真の足元に、あの夜のような鉛の重さはなかった。
氏真は立ち止まり、右手をそっと持ち上げる。
指先が、かすかに震えている。
恐怖だけではない。
胸の奥で、ドクン、ドクンと心臓が激しく脈打っていた。
血が熱い。
身体の奥から、力がせり上がってくる。
(怖いな……)
氏真は小さく息を吸った。
あんな怪物が、味方を使う術まで身につけて待っている。
一つの判断の遅れが、そのまま失点につながるかもしれない。
(だけど――)
口元に、ふっと笑みがこぼれた。
十七歳の選手たちに囲まれていても、抑えきれない。
十四歳のストライカーとしての、純粋な飢えだった。
(たまらなく、面白い)
他者を信じることで新しい可能性を開いた自分。
他者を使うことで、自分の力をさらに引き出す織田凱斗。
同じ連動という答えに、正反対の道から辿り着いた二人。
どちらのフットボールが、このピッチで上を行くのか。
早く戦いたい。
仲間たちと共に、進化したあいつと真正面からぶつかりたい。
「……待っててよ、凱斗君」
夕闇の迫る廊下に、少年の呟きが溶けていく。
氏真は歩き出した。
右足のスパイクが、リノリウムの床を一度だけ強く踏む。
母の願い。
仲間たちの想い。
そして、ストライカーとしての剥き出しの闘志。
すべてを胸に抱えたまま、氏真は決戦前夜のスタジアムへ向かって歩いていった。
【次回予告】
セビージャの夜、氏真の前に現れたのは、欧州でさらなる進化を遂げた宿敵・織田凱斗。
「二人のストライカー」が、再び相まみえる。
二人が辿り着いた、それぞれの答えとは――。
第129話:【国王杯決勝前夜:宿命の再会】次なる天下へのパスを回せ!




