第127話:【預ける勇気】
【あらすじ】
母の病を前に、すべてを一人で背負おうとする氏真。だが、チームメイトとの紅白戦で、その心の揺らぎがプレーに現れ始める。仲間との衝突をきっかけに、氏真はこれまでとは違う「強さ」と向き合うことになる。
1. 微笑の防壁
地中海から吹き抜ける朝の風が、シウダ・エスポルティバの芝生を青く波打たせていた。
クラブハウスのエントランスホールで、氏真はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
早朝、エル・プラット空港で日本へ発つ愛と舞を見送ってきたばかりだった。
愛は搭乗ゲートの前で、自らの不安を押し殺すように背筋を伸ばした。
「日本側の骨髄バンクや医療情報の整理は、すべてわたくしが整えます」
舞もまた、小さな端末を抱きしめたまま、氏真の目を真っ直ぐに見つめてくれた。
「ピッチのデータ、全部送るからね」
そして今、クラブハウスのラウンジには、ルナとエレナが立っていた。
「ウジザネ、病院までの行き来や日用品の買い出しなら、私が手伝うわ」
ルナが記者証のストラップを指先で弄りながら、努めて気安い調子で言った。
「取材の合間なんていくらでも融通が利くし、一人で抱え込むことないんだから」
「私の方でも、今週からの栄養管理メニューを組み直した」
エレナも手帳を開き、びっしりと書き込まれた摂取カロリーの表を氏真に向ける。
「面会で練習後の補食が遅れるなら、クラブの厨房に掛け合って、持ち運べる高タンパクの補食を用意させる。コンディションを落とさせるわけにはいかない」
二人の言葉に、計算や打算は欠片もなかった。
差し伸べられた、温かく確かな手だった。
だが、氏真は首を小さく傾げ、完璧な角度で微笑んだ。
「ありがとう、ルナ、エレナ。気遣ってくれて本当に嬉しいよ。でも、大丈夫だから。母さんの身の回りのことは病院のスタッフも手厚くしてくれているし、僕の家のことだ。みんなの大切な時間を奪うわけにはいかないよ」
声には濁り一つなく、目元には柔らかな光すら湛えられていた。
誰も傷つけることのない、非の打ち所のない礼儀正しさ。
しかし、その笑顔の奥には、分厚く冷たい壁が張り巡らされていた。
(……巻き込むわけにはいかない)
他者に頼ることは、相手に自らの荷物を背負わせることだ。
前世、駿河を治めていた頃の記憶が、胸の奥底で苦く疼く。
家臣を頼り、支族を恃みにした果てに、裏切られ、奪われ、最後には母すら守れずにすべてを失った。
人に弱みを見せ、重荷を預けた瞬間から、破滅の綻びが生まれる――。
その強迫観念が、五百年経った今もなお、氏真の無意識を縛りつけていた。
母の病という、自分の力では一歩も動かせない現実に直面したからこそ、氏真はなおさら「自分の足元だけは自分で完璧に処理しなければならない」と、自らを孤独の檻へと追い込んでいた。
エレナが何かを言いかけ、わずかに眉を寄せた。
だが、氏真は、
「じゃあ、グラウンドへ行くね」
と静かに会釈し、背を向けた。
誰の手も借りない。
誰にも迷惑をかけない。
それが、自分にできる唯一の正しさのはずだった。
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2. 固まる軸足
散水されたピッチが、真昼の太陽を浴びて白く光っていた。
ジョゼップ監督の短い笛の音とともに、週末の国王杯決勝を見据えた主力組と控え組による紅白戦が始まった。
主力組の最前線、センターフォワードの位置に氏真が入る。
左にエステバン、右にレオン、中盤の底にはサビエルとダビアンが構える。
普段の氏真であれば、ピッチに立った瞬間に呼吸が整い、周囲の空間が自然と見通せるはずだった。
相手ディフェンスの重心の傾き、視線の向き、芝生を踏むスパイクの音。
それらを感じ取り、身体の力を抜いて最も滑らかなコースへ自らを運ぶ。
だが、この日の氏真の足元は、どこか狂っていた。
前半十分。
中盤でセカンドボールを回収したサビエルから、鋭い縦パスが氏真の足元へ入る。
控え組のセンターバック、屈強なカレスが背後から激しいプレッシャーをかけてくる。
いつもなら、氏真はボールの勢いを殺さず、ファーストタッチでわずかに角度を変えて味方へ叩くか、相手の突進力を受け流してワンタッチで前を向いていた。
しかし、氏真の右足はボールを足元にピタリと止めすぎた。
(僕が、前を向かなければ)
思考が先走る。
自分が局面を打開しなければならない。
自分がマークを剥がし、自分がシュートコースを作り出さなければならない。
そんな気負いが、無意識に筋肉を強張らせていた。
背後のカレスの圧力を感じながら、氏真は強引に右肩を引いてターンを試みた。
だが、踏み込んだ左の軸足に余計な力が入っている。
脱力できていない身体は滑らかな回転を生み出せず、カレスの頑丈な胸板に引っかかった。
さらに、相手ボランチのテンテが素早く挟み込みに寄せてくる。
左サイドでは、エステバンがマークを剥がしてフリーで手を挙げていた。
シンプルにそこへボールを逃がせば、決定的なチャンスになる場面だった。
視界の端にエステバンの姿は映っていた。
だが、氏真の足はパスを選択しなかった。
(僕のところで奪われるわけにはいかない。僕がキープして、僕が――)
もう半歩、右足のアウトサイドでボールを突いて逃れようとした瞬間、テンテの伸ばした足先がボールを突いた。
乾いた音とともにボールがこぼれ、控え組のカウンターが発動する。
「ちっ……!」
戻りながら舌打ちしたのは、左サイドで孤立させられたエステバンだった。
一度だけではなかった。
二十分過ぎ、ダビアンからの浮き球のパスを収めた場面でも、氏真はすぐに右のレオンへ展開せず、密集の中へ自らドリブルで侵入しようとして引っかかった。
判断が一拍、遅い。
ボールを持った瞬間に周囲の動きを止め、自らの足元に抱え込んでしまう。
攻撃のテンポを殺し続ける異物と化していた。
ピーーーッ!
ジョゼップ監督の長い笛が鳴り、給水のための短い中断が入った。
氏真は肩で息をしながら、膝に手を置いた。
足首が重い。
太腿の裏側が張っている。
昨日、病院を出た時に感じたあの冷たい鉛が、まだ肉体から抜け落ちていなかった。
(身体が、思うように回らない……)
俯く氏真の視界に、荒々しい足取りで近づいてくる黒いスパイクが映った。
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3. フットボーラーの尊厳
ぐい、と首元を引き寄せられた。
氏真の胸ぐらを、エステバンが鷲掴みにしていた。
練習着の襟が喉に食い込み、荒い息がかかる。
「おい、ウジザネ」
エステバンの浅黒い顔が、怒りで歪んでいた。
双眸の奥で、褐色の火花が散っている。
「お前、さっきから誰とサッカーやってんだ」
周囲の空気が一瞬で凍りついた。
給水ボトルのキャップを開けようとしていたレオンが動きを止め、サビエルとダビアンが息を呑んで視線を向ける。
氏真は驚きに目を見張り、それからすぐに、いつもの穏やかな表情を作ろうとした。
「すまない、エステバン。僕の判断が少し遅れて――」
「嘘つけよ!」
エステバンは掴んだ胸ぐらを乱暴に揺さぶった。
「判断が遅れたんじゃねえ! 最初から俺たちを使う気がねえんだよ! パスコースが空いてんのに、何で一人で突っ込んで自滅してんだ! お前、ピッチに立ってんのに、頭の中じゃ別の世界に閉じこもってんだろうが!」
痛烈な指摘だった。
取り繕おうとした笑みが、氏真の顔から剥がれ落ちていく。
「……僕の、問題だ」
氏真の口から、低く硬い声が漏れた。
「母さんのことで、チームに迷惑をかけるわけにはいかない。僕が集中して、僕が結果を出せば済む話なんだ。僕一人でちゃんとやれるから――」
「知るかよ!」
エステバンは怒声を浴びせ、氏真の胸をドンと突き放した。
よろめいた氏真の足元に、砂埃が舞う。
「叔母さんの病気のことなんて、俺には分かんねえよ! 医者でもねえ俺たちに、そんなもんどうにかできるわけねえだろ!」
残酷なまでの現実だった。
だが、エステバンの瞳にあったのは冷淡さではなかった。
「ピッチの外のことは知らねえ! だけどな、この白い線の中に入ったら、俺たちはチームメイトだろ! なんで隣に立ってる俺たちを無視して、一人で全部背負い込んで自爆してんだよ!」
エステバンは自分の胸を強く拳で叩いた。
「お前が俺たちを信用しねえで、一人で勝手に溺れてるようなチームで、マフリットに勝てるわけねえだろ! 母のために勝ちてえなら、ピッチの中で仲間を信じてボールを預けろ! 一人でサッカーやる気なら、今すぐユニフォーム脱いで病院へ帰れ!」
同情など微塵も含まれていなかった。
それは、同じエンブレムを背負い、ピッチで命を削り合うフットボーラーとしての、剥き出しの尊厳を問う一撃だった。
氏真の喉が詰まった。
(……予が、信用していない……?)
自分は迷惑をかけないようにしていたつもりだった。
重荷を背負わせまいと、傷つけまいとしていただけのはずだった。
だがそれは、裏を返せば、
「お前たちには、この重荷を預ける価値がない」
と、仲間を突き放していたことと同義ではなかったか。
サビエルが静かに氏真の肩に手を置いた。
ダビアンもまた、何も言わずに氏真の目を見つめている。
ジョゼップ監督は笛を口にくわえたまま、腕を組んでその光景を見届けていた。
練習を止める素振りは見せない。
「……再開するぞ!」
エステバンが背を向け、荒々しい足取りで左サイドの定位置へと戻っていった。
氏真は深く息を吸い込んだ。
胸の奥に、ざらりとした痛みが残っていた。
だが、その痛みによって、先ほどまで麻痺していた身体の感覚が、少しずつ熱を取り戻し始めていた。
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4. 預ける理合
試合が再開された。
ピッチの中央、ダビアンが相手のパスをカットし、前を向く。
最前線の中央で、氏真が動き出す。
(預ける……)
エステバンの言葉が頭を打つ。
氏真はダビアンからのグラウンダーのパスを呼び込んだ。
背後からは、先ほどと同じようにカレスが巨躯を寄せてくる。
足元にボールが届いた瞬間、氏真は無理に前を向こうとせず、左サイドから斜めに走り込んできたエステバンの足元へ、ダイレクトで楔のパスを叩いた。
――預けた。
だが、次の瞬間、ガシィンという鈍い音が響いた。
ボールを受けたエステバンに対し、控え組の右サイドバックが背後から激しく身体をぶつけ、そのままボールを外へ掻き出したのだ。
攻撃は、あっけなく潰れた。
エステバンがピッチを叩いて悔しがる。
氏真はその場に立ち止まり、自らの足元を見つめた。
(……違う)
氏真の頭脳が、ピッチ上の現象を冷徹に分解し始める。
失敗の原因は、エステバンのトラップのミスではない。
自分の出し方にあった。
(僕は、ただ責任を投げ出しただけだ)
相手を引きつけていなかった。
ただパスを出しただけで、自分自身はボールを手放した瞬間に足を止めていた。
自分が動かないから、相手守備陣の視線とマークの基準がエステバン一点に完全に固定され、相手は迷うことなくエステバンを潰すことができたのだ。
ボールを預けるとは、責任を放棄することではない。
他者に委ねるとは、自分を消すことではない。
自分が相手を引きつけ、預けた後も動き続けることで、相手の守備を動かす。
その循環を作らなければ、パスはただの逃避にすぎない。
「もう一本!」
氏真が声を張り上げた。
いつもの柔らかな声ではない。
空気を震わせる、鋭い意志を宿した声だった。
エステバンが顔を上げ、氏真を睨み返す。
その瞳に、獰猛な光が宿っていた。
再び、主力組がボールを奪い返す。
サビエルが中央へ運び、相手ボランチのテンテが間合いを詰める。
氏真は最前線から、わずかに中盤へと降りる動きを見せた。
サビエルから鋭い縦パスが放たれる。
背後からカレスが突進してくる。
前からはテンテが挟み込もうとコースを限定してくる。
先ほどボールを奪われたのと全く同じ、過密な密集地帯だった。
氏真はボールを迎える直前、あえて身体の向きを外側――左サイドのエステバンが見える方向へ大きく開いた。
そして、ボールを足元に引きつけ、トラップする素振りを見せながら、相手ボランチが足を出そうと重心を沈めた刹那、半拍遅らせて左足のインサイドでボールを押し出した。
エステバンの足元へ、鋭いグラウンダーが滑り込む。
今度は、ただ預けただけではない。
パスを放つと同時に、氏真は軸足に入っていた余計な力を抜いた。
脱力。
目の前のテンテがボールの軌道に釣られて顔を向けたその瞬間、氏真はテンテの背中側――視野の完全に切れた死角、ブラインドサイドへと、音もなく身体を滑り込ませた。
ボールを受けたエステバンが、背後から迫る相手DFのチャージを強靭な体幹でガチリと受け止める。
相手ディフェンスの意識、そしてカバーに入ろうとしたカレスの視線が、ボールをキープするエステバンへと一斉に収縮した。
守備の基準が、エステバンへと固定される。
そのわずかな間――。
相手守備陣の背後に、広大なエアポケットがぽっかりと口を開けた。
エステバンは前を向くことなく、自らに群がる敵を引きつけたまま、背後も見ずに左足の踵で柔らかなリターンを流し込んだ。
「――ウジザネ!」
そこには、完全にフリーとなった氏真が走り込んでいた。
相手ディフェンスの視界から消え去っていた氏真の足元へ、ボールが吸い付く。
目の前には、ゴールキーパーと一対一の空間。
自分一人でドリブルを仕掛けていた時には決して存在しなかった、広大なシュートアングルがそこにあった。
氏真は右足をコンパクトに振り抜き、GKの重心が固まった逆サイドのネットへ、ボールを正確に沈めた。
パシュッ、とゴールネットが心地よい音を立てて揺れた。
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5. 通い合う足元
静寂が、ピッチを包んだ。
誰も、すぐには声を出さなかった。
氏真は立ち止まり、自らの足元を見つめた。
足首の強張りが、跡形もなく消え去っていた。
肺の奥深くまで、冷涼で新鮮な空気が満ちていく。
(……そうか)
ボールを預けるとは、責任を丸投げすることではない。
他者に委ねることで、相手の視線と重心を動かし、自分一人では絶対に作れなかった時間と角度を作り出す技術なのだ。
一人で背負う必要など、最初からなかった。
自分を信じ、仲間を信じてボールを託すことこそが、ピッチ上の全員を最も生かす選択肢だったのだ。
「へっ……やっとまともなパスを寄越しやがったな」
エステバンが肩を上下させながら歩み寄ってきて、氏真の背中をバチンと平手で叩いた。
手のひらの熱が、ユニフォーム越しにじんわりと背中に広がる。
「悪かったね、エステバン。……ありがとう」
氏真が微笑んだ。
今度の笑顔には、あの礼儀正しい防壁はどこにもなかった。
少年の、年相応の、照れと感謝の入り混じった自然な笑顔だった。
エステバンは気恥ずかしそうに鼻を鳴らし、「次は外すなよ」
そう吐き捨てて、背を向ける。
「あぁ……次も、外さないよ」
氏真は少しだけ笑ってから、付け加えた。
「でも、次も君に預けるからね」
「……ったく」
エステバンは一瞬だけ口元を緩めた。
「それなら、外すんじゃねえぞ」
「だから、さっき入れたってば」
「うるせえ!」
遠くから、サビエルやダビアンが小さく頷き、レオンが白い歯を見せてサムズアップを作っている。
練習が終わる頃には、西の空が燃えるような茜色に染まっていた。
選手たちが引き揚げていく中、氏真はピッチの端のベンチに座り、スパイクの紐をほどいて結び直していた。
母の病気という現実は、何一つ解決していない。
明日も、明後日も、母はあの白い部屋で苦しい治療に耐えなければならない。
胸の底にある痛みや不安が、完全に消えたわけではなかった。
だが、もう立ち止まることはない。
「おい、ウジザネ」
クラブハウスへ戻りかけていたエステバンが、ボールを小脇に抱えて足を止めた。
氏真は立ち上がり、足元に転がっていたボールに右足を乗せた。
そして、何気ない動作で、芝生の上を滑らせるようにエステバンへとグラウンダーのパスを転がした。
エステバンは無言のまま、右足の足裏でピタリとボールを止める。
そして、ニヤリと不敵に笑うと、鋭いインサイドキックで氏真の足元へ蹴り返してきた。
パチン、と乾いた音が夕暮れのグラウンドに響き、ボールが氏真の足元に吸い付く。
ボールの重みを受け止めた氏真の右足に、迷いはなかった。
鉛のように固まっていた筋肉は、しなやかに解き放たれていた。
他者を信じ、委ねる強さを手に入れた十四歳のストライカーは、次なる決戦の舞台を見据え、澄んだ瞳を前へと向けていた。
【次回予告】
国王杯決勝を前に、氏真が目にした凱斗の姿は、かつての「白き魔王」とは別人だった。なぜ、あの凱斗が「預ける」プレーを? だが氏真は、すぐに気づく。――「同じだ。いや……違う」
第128話:【二人のストライカー】次なる天下へのパスを回せ!
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今後も氏真の物語を、温かく一緒に見届けてください。




