第126話:【僕にください】
【あらすじ】
母のもとを訪れた氏真を待っていたのは、これまで経験したことのない現実だった。どれだけ考えても、どれだけ努力しても動かせないものがある。揺れる心を抱えたまま、氏真は自らの足元を見つめ直すことになる。
1.介入不能の数値
診察室の蛍光灯は、夜のスタジアムを照らすカクテル光線とはまるで違う、熱のない青白い光で空間を満たしていた。
机の上の液晶モニターには、母・有理の血液検査データが表示されている。白衣を着た主治医マルティネスは、電子カルテの画面を見つめたまま、キーボードを叩く手を止めた。
「骨髄検査の結果が出ました」
医師の声は低く、平坦だった。日々の診察室で繰り返されてきた事実の伝達であり、そこには不要な感情の揺らぎは混じっていない。
「確定診断です。お母さんの病名は、急性骨髄性白血病――AMLです」
その単語を聞いた瞬間、氏真の思考が無意識のうちに急速に回転し始めた。
骨髄での異常な細胞の増殖。正常な造血機能の停止。これから行われる化学療法、寛解導入療法。感染症のリスク、抗がん剤の副作用、治療期間、退院までの見通し。
ピッチの上で相手ディフェンスの陣形を見つめる時のように、頭の中で散らばる情報を集め、整理し、道筋を見つけ出そうとする。
普段のピッチなら、それで次の一手が見えた。
相手の重心が右に寄れば、左へボールを逃がす。
ディフェンスラインが上がれば、その背後の空白へ味方を走らせる。
自分が半歩、身体の向きを変えれば、相手の視線も反応し、盤面は確実に動く。
「……先生」
質問を口にしようとして、喉の奥が引きつったように渇いていることに気づいた。肺に空気がうまく入ってこない。
「母さんの……治療は、どう進むんですか。僕たちに、何ができますか」
マルティネス医師は画面のスクロールバーを少し動かし、検査結果の一角をペン先で指した。
「これから無菌室での管理に入り、速やかに寛解導入療法を始めます。強い抗がん剤を使って、骨髄の異常な細胞を叩く治療です。ただ、その過程で正常な赤血球や白血球、血小板も著しく減少します。重い感染症や出血を起こさないよう、慎重に状態を管理しながら進める必要があります」
「その治療で……完全に治るんですか」
「まずは骨髄の中の異常細胞を減らし、正常な血液が作られる状態――寛解を目指します。詳細な病型やリスク分類の検査はまだ続いており、その結果や治療への反応を見極めながら、その後の治療計画や、将来的な造血幹細胞移植の必要性を判断していくことになります」
医師は一度、言葉を切った。
「……いま、吉良君が先々の結果をすべて計算することはできません」
医師の言葉が、机の硬い天板の上に落ちて静かに消えた。
画面に並ぶアルファベットと数値。
ピッチの上なら、目の前にある障害に対して足の運びを変え、身体を預け、ボールの置き所を変えることで局面を打開できた。
だが、この画面に並ぶ数字は、自分がどれほど目を凝らしても、どれほど思考を巡らせても、一つとして動かない。
自分が介入できる余白が、どこにも存在しなかった。
ツンと、鼻の奥を消毒液の鋭い匂いが突いた。
その瞬間、足元のアスファルトが抜け落ちるような感覚に襲われた。
消毒液の匂いが、冷たい記憶の切れ端を引きずり出す。
――雨の夜。
城を追われ、泥濘に足を取られながら、母も家臣も守れずにただ逃げ延びるしかなかった五百年前の感覚。
自分の足元からすべてが滑り落ちていく、あの冷え切った無力感が、指先からじわじわと這い上がってくる。
指先が冷たい。
どれほど知性を気取っても、本当に決定的な現実を前にしたとき、自分には何もできないのではないか。
胃の底に、重い石を呑み込んだような硬直が広がっていた。
---
2.震える指先
病棟の廊下には、空調装置が送り出す低い風音だけが一定のリズムで流れていた。
防護用のマスクを着け、氏真は特別面会室の透明なガラス戸の前に立った。
硝子の向こう側、白いシーツの中央に有理が横たわっている。
腕には点滴のチューブが留められ、輸液ポンプの小さなランプが淡く明滅していた。
日頃、会社のデスクで背筋を伸ばし、歯切れのいい声で笑っていた母の姿はそこにはない。
頬の肉は削げ、皮膚の下の青い血管が薄く透けて見えていた。
「……母さん」
壁のインターホンのボタンを押し、呼びかける。
有理の瞼がゆっくりと持ち上がった。
ガラスの向こうに息子の姿を認めた瞬間、青白い唇がわずかに緩んだ。
『……氏真。試合……勝ったのね。おめでとう』
スピーカーから届いたのは、掠れて途切れそうな声だった。
自分の身体が重大な病に冒されているというのに、母が最初に口にしたのは、ピッチの上の結果だった。
氏真はガラス越しに母の手へ自分の手を重ねた。
驚くほど冷たい。
「どうして……もっと早く言ってくれなかったの。愛さんから聞いたよ。ずっと前から眩暈がして、ペンを持つ手も震えてたって。僕が……僕がもっと早く気づいていれば……」
『いいのよ、氏真』
有理は首をわずかに振ろうとしたが、その動作だけで息が乱れ、後頭部を枕に沈め直した。
『あなたの大事な時期に、余計な心配をかけたくなかったのよ。それにね……』
有理の視線が、シーツの上を彷徨った。
氏真の手に触れていないほうの左手が、シーツの布地をぎゅっと握りしめている。
爪の生え際が白くなるほど、指先に力が込められていた。
その細い手が、震えている。
『……怖かったのよ』
スピーカーの向こうから、聞いたことのない母の弱音が漏れた。
『朝、起き上がれなくなって……階段を上がるだけで息が止まりそうになって。病院に行ったら、取り返しのつかないことを言われるんじゃないかって、怖くてたまらなかったの。……先生から、聞いたでしょう? 明日から、強い薬を使うって』
有理の唇が乾いた音を立てて震えた。
『痛いのかな……。熱も、出るのかな。髪も抜けちゃうのかな。会社の仕事も、どうなっちゃうんだろう。私……これから、どうなっちゃうのかな、氏真』
そこにあったのは、完璧な母の姿ではなかった。
先が見えない暗闇を前にして、寒さと痛みに怯える、ひとりの生身の人間が横たわっていた。
その震えを見た瞬間、氏真の胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
---
3.傲慢な身代わり
「もういいよ、母さん!」
氏真は思わず身を乗り出した。
「僕、サッカーを辞める! 明日、監督に話してユースの契約を解除してもらう。国王杯の決勝も、これからの試合も、全部いい。僕がずっと病院のそばにいて、身の回りのことも手続きも全部やるから」
有理の目が、大きく見開かれた。
「だから、母さんが一人で怖がることはないんだよ!」
自分の未来を差し出せばいい。
ピッチの上で計算できないのなら、自分の人生のすべてを代償として差し出せば、この救いのない現実を埋め合わせることができるのではないか。
「……その病気を、僕にください」
その言葉が、震える唇からこぼれた。
「母さんが苦しむくらいなら……僕が全部引き受けるから」
自分の無力さを直視することに耐えられない、追い詰められた十四歳の衝動だった。
『――吉良氏真』
スピーカーから落ちた冷たい響きに、氏真の言葉が途切れた。
有理の顔から、さっきまでの怯えが消えていた。
母は浅い息のまま、氏真が触れていた右手をシーツの上から引き抜いた。
そして、その手の甲をパシリと乾いた音を立てて叩き落とした。
力など入っていない、骨ばかりの痛々しい手だった。
だが、その手のひらから伝わってきた拒絶の冷たさに、氏真の息が止まる。
『……私の病気を理由に、あなたの人生を止める気?』
「母さん……?」
『答えなさい!』
マイクが微かに割れるほどの鋭い声だった。
有理の肩が激しく上下し、乱れた呼吸がスピーカーを通じて耳朶を打つ。
『私が一番怖いのはね、病気で苦しむことじゃないわ。私のせいで……私の病気を言い訳にして、あなたが自分の未来を投げ捨てることよ!』
「言い訳なんかじゃない! 僕は母さんを助けたくて――」
『何が助けるよ!』
有理の言葉が、氏真の弁明を叩き伏せた。
『あなたがピッチを捨てて私の枕元に座り込んでいたら、私の血液の異常が消えるの!? 消えないわよ! あなたはただ、苦しむ母親を見ていられないから、自分の夢を差し出して、悲劇の身代わりになって自分を納得させたいだけじゃない!』
言葉が出なかった。
自分の指先が、ガラスの手前で宙に浮いたまま強張る。
見透かされていた。
何もできない無力感から逃げるために、自分を犠牲にするという安易な解決策に飛びつこうとしていた己の浅ましさが、剥き出しにされていた。
『息子の未来を奪った母親として、私を死なせる気?』
有理の目から、大粒の涙が頬を伝って枕へ落ちた。
だが、その眼差しは逸らされなかった。
『病気とは、私が戦うの。痛くても、髪が抜けても、熱が出ても……私が、私の身体で戦うのよ。これは私の人生の戦いなの。あなたに肩代わりなんてさせないわ』
母の声は掠れていたが、その底には決して折れない芯があった。
有理は小さく息を整え、ガラスの向こうの息子を真っ直ぐに見据えた。
『……だから氏真。あなたが背負うべきなのは、私の命じゃないわ。あなたが背負うべきなのは、あなた自身の足元だけよ』
「僕の……足元……」
『そうよ。あなたが立っているその場所で、あなたが選んだ場所で、あなたのフットボールをしなさい。……それだけが、私がこのベッドの上で戦うための、光なんだから』
有理は力尽きたように瞼を閉じ、浅い呼吸を繰り返した。
それ以上、言葉は紡がれなかった。
氏真はガラス戸の前に立ったまま、動くことができなかった。
母を救うための計算式など、どこにもない。
自分がサッカーを辞めようと、どれほど身を引き裂こうと、病気の現実は微動だにしない。
すべてを自分で背負い、制御できると思い込んでいた己の傲慢さが、母の震える手と涙の前に、音を立てて崩れ去っていた。
---
4.鉛の右足
病院の重い自動ドアを抜けたとき、深夜の冷たい風が頬を打った。
練習着の上に羽織ったベンチコートの裾が、夜風に煽られてバタバタと音を立てる。
頭上には厚い雲が広がり、バルセロナの街明かりを鈍く反射していた。
耳を澄ませても、スタジアムの歓声は聞こえない。ボールが芝を叩く音も、仲間たちの呼ぶ声も届かない。
遠くの幹線道路を走るトラックの走行音だけが、低くアスファルトを震わせていた。
(……どうすればいい)
答えは出なかった。
母の身体の中で異常な細胞が増え続けている現実は変わらない。明日から過酷な治療が始まることも変わらない。
自分には、その進行を止める力がない。
一人で背負うことの無力さを思い知らされ、それでも「自分の足元を生きろ」と突き放された。
その厳しさが母の愛情であると理解できても、胸の底にぽっかりと開いた冷たい穴は塞がらなかった。
氏真は一歩、前へ足を踏み出そうとした。
だが、右足が動かない。
ピッチの上なら、ボールの芯を捉え、どれほど狭い密集でも軽やかに重心を移動させてきた右足が、まるで冷え切った鉛の塊に変わってしまったかのように、アスファルトの上に張り付いて持ち上がらなかった。
母の病気に対して、自分は何一つ介入できない。
最適解は見つからない。
それでも明日、自分はこの足でピッチに立たなければならないのか。
冷たい夜風の中、十四歳の少年は、鉛のように重い右足をじっと見下ろしたまま、暗い車寄せに立ち尽くしていた。
【次回予告】
母の病を背負い、すべてを一人で抱え込もうとする氏真。だが、その姿勢にエステバンが激怒する。「お前、俺たちを信用してねえだろ!」――孤独を選んだストライカーに、仲間を信じる覚悟が問われる。
第127話:【預ける勇気】次なる天下へのパスを回せ!
ーーーーお願いーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
もし今日、ほんの少しでもこの物語に心を動かされたなら――、ちょと面白いと思ったら――
投げ銭はいりません。
その代わり、せめて、評価☆☆☆☆☆を一つ、何卒、そこをなんとか置いていってくださいませ(笑)。
今後も氏真の物語を、温かく一緒に見届けてください。




