第109話:【激震のバスク】
【あらすじ】
国王杯2回戦、バオルビFC戦の後半。バスクの骨がきしむ肉弾戦に対し、氏真は相手の突進力を逃がす「脱力と理合」をピッチで実践。エステバン、フェリペとの高速ワンタッチ連動で逆転し、最後は優雅なバイシクルシュートで死闘を制する。
1. 布陣の再編と脱力
ビスケー湾から吹きつける冷たい海風が、雨に濡れたピッチをさらに冷やしていた。
スペイン・ユース国王杯2回戦、後半。
0―1のビハインドを背負ってロッカールームから姿を現したFCバルシーノ・フベニルAのイレブンは、前半の重苦しい沈黙を脱ぎ捨てていた。
ベンチ前で、ジョゼップ・カサス監督は後半開始と同時に二枚の交代カードを切った。
前半、激しい肉弾戦の中で警告を受け、消耗の色が見えたテンテとイネス・カスティーニャを下げ、背番号25のフェリペと、背番号17のマルクを投入した。
「フェリペ、前線の右で幅を取りつつ、氏真とエステバンの距離感を整えろ。マルク、中盤でボールの循環を速めるんだ。足元に止めるな。相手が身体を寄せる前に、ワンタッチで角度を変え続けろ」
「はい!」
フェリペとマルクが引き締まった表情で頷き、ピッチへと駆け出す。
最前線の中央に立つ氏真の左にはエステバン・ロサーノ、右にはフェリペが開き、中盤にはダビアン、サビエル、マルクが並ぶ。
氏真は、泥で汚れた右肩をゆっくりと回した。
前半、相手主将イケル・アランブルから受けたショルダーチャージの鈍痛は、いまだ筋肉の奥底に燻っている。
だが、氏真はその痛みに逆らうことをやめた。
痛む箇所をかばって身体を強張らせれば、そこから全身の連動が狂い、再び相手の剛力に粉砕される。
肩の力を抜き、肩甲骨を下げ、背骨から骨盤へと体重を滑らかに逃がしていく。
(……痛みも、衝撃も、すべては我が身を流れる波の一部)
相手の剛に対して、己の剛で立ち向かう必要はない。
相手の力が強ければ強いほど、その力が向かう方向を読み解けば、それは自らを加速させる力へと変わる。
ピーーーッ!
主審の鋭い笛が鳴り響き、運命の後半戦が幕を開けた。
――
2. 衝撃を推進力へ
後半開始直後から、1点をリードするバオルビFCは、前半と何ら変わらぬ獰猛さで襲いかかってきた。
「¡Presioa! ¡Ez eman tarterik!(圧力をかけろ! 隙を与えるな!)」
ガリコイツ監督の野太い怒号がピッチサイドに響く。
後半6分。
中盤の底でサビエルが激しいスライディングを躱して前を向き、中盤のマルクを経由して、右から斜めに絞ってきたフェリペへボールが渡る。
フェリペはボールを足元に止めず、ダイレクトで最前線中央の氏真の足元へグラウンダーの楔を差し込んだ。
濡れた芝の上を滑るボール。
その瞬間――。
ドス、ドス、ドスッ!
背後から地響きのような足音を立てて突進してきたのは、バオルビのCBイケル・アランブルだった。
前半、氏真を軽々と吹き飛ばしたあの重戦車のようなショルダーチャージ。
氏真がボールに触れる刹那、アランブルは軸足を踏み込み、全体重を浴びせた。ボールごと肉体を圧殺せんと、骨盤を低く落として右肩をぶち込んできた。
だが――氏真は、前半のように踏ん張らなかった。
氏真が右足のインサイドでボールに触れるその刹那、軸足である左足の膝と足首の力を完全に抜いた。
地面を踏みしめるのをやめ、自らの身体の軸を柔らかく解放する。
ドッ……!
アランブルの分厚い右肩が、氏真の左肩へと激突した。
しかし、硬質な衝突音は鳴らなかった。
氏真は接触の瞬間、アランブルの肩の進入角度に合わせて上半身を斜め前方へと滑らかに旋回させたのだ。
相手の突進する勢いに逆らわず、接触の衝撃を身体の回転運動へと逃がす脱力ターン。
「なっ……!?」
アランブルの目が驚愕に見開かれた。
頑強な壁に激突して相手を弾き飛ばすはずだった自らの質量が、まるで宙を掴んだかのように前方の空間へと抜けていく。
氏真は、アランブルの突進の勢いを背中で受け流し、その力を前への加速として利用した。
回転しながら前を向いた氏真の足元には、勢いを殺されたボールが吸い付くように収まっている。
相手の力を逃がし、自らの前進に変える理合。
アランブルが体勢を崩して前へ倒れ込みそうになる横を、氏真はトップスピードのまま一瞬で抜き去った。
「エステバン!」
氏真の右足のアウトサイドから、ペナルティエリア左のポケットへ向けて、滑るようなスルーパスが放たれた。
そこへ、矢のような初速で斜めに走り込んできた影があった。
背番号10――エステバン・ロサーノ。
「もらったぁッ!」
エステバンは寄せてくる相手カバーDFを一瞥すらせず、トップスピードのまま左足を一閃した。
ドガァァンッ!!!!!
濡れた空気を切り裂く強烈なライナーが、ニアサイドのクロスバー下を叩き、ゴールネットを激しく揺らした。
――バシィィンッ!
後半7分。1―1!
バルシーノ同点!
「¡Golazo! ¡Goooool!(決まったぁぁッ!!)」
静まり返っていたアウェイのベンチから、控え選手たちが一斉に飛び出して歓喜の声を上げた。
エステバンは雄叫びを上げながら、パスを供給した氏真へ駆け寄り、その胸元を力強く小突いた。
「ウジ……! お前、今どうやってあの巨漢を剥がしたんだ!?」
「相手が勢いよく来てくれたからだよ。エステバン、最高の抜け出しだった」
氏真は息を整えながら、少年らしい柔らかな笑みを浮かべた。
背後で立ち尽くすアランブルが、自らの両手を見つめ、信じられないといった表情で氏真の背中を睨みつけていた。
力でねじ伏せようとすればするほど、その力そのものが裏目に出る。
バスクの岩壁に、明確な亀裂が走った瞬間だった。
――
3. 三位一体の幾何学
同点に追いつかれたバオルビFCも、ただ黙って引き下がるチームではなかった。
ボランチのウナイが、アランブルの背後をカバーすべく一段低い位置を取り、氏真への楔が入った瞬間に前後の挟み込みを狙う形へと修正してきたのだ。
安易な反転を警戒し、間合いを半歩空けて進路を塞ぎにかかる。
だが、氏真はその守備の歪みを瞬時に感じ取っていた。
相手が中央の氏真へ意識を集中させ、間合いを詰めてくるならば、ボールを自分の足元に留める必要はない。
雨を含んで重くなったピッチ。
グラウンダーのパスは芝に捕らわれ、スピードが落ちる。
ならば――ボールを地上に置かなければいい。
後半18分。
自陣でボールを奪ったサビエルからパスを受けたマルクが、寄せてくる相手ボランチの足元をすり抜けるように、右足の甲でボールをフワリと浮かせた。
浮き球の楔を受けた氏真。
アランブルとウナイが前後から距離を詰めてくるが、氏真はボールを足元へ落とさず、右足の甲で後方へ優しくフリックする。
ボールは相手の頭上を越え、右から中央へ走り込んできたフェリペの胸元へ吸い付いた。
相手DFがフェリペを潰そうと猛然と突進してくる。
だが、フェリペはボールが胸から落ちる前に、右足のアウトサイドでダイレクトのロブパスを中央へ送った。
そこへ、左サイドから斜めに走り込んできたエステバン。
エステバンは相手CBを引きつけながら、ヒールで優しくペナルティエリア中央のスペースへボールを落とした。
ワンタッチ、ワンタッチ、ワンタッチ。
重い芝の摩擦を無効化する、ダイレクトパスと浮き球の連続。
バオルビの守備陣は、身体をぶつける間合いそのものを失い、ただ宙を舞うボールの残像に翻弄されるしかなかった。
エステバンの落としたスペースへ、最初にボールをフリックした氏真が、相手の死角をすり抜けて走り込んでくる。
慌ててカバーに戻ってきた相手右サイドバックに対し、氏真はシュートを打つ体勢を一瞬だけ見せ、軸足を抜いて右足インサイドでラストパスを右斜め前へ転がした。
完全なフリー。
外から中央へ鋭角に切れ込んできたのは、右ウイングのフェリペだった。
フェリペは冷静沈着に、飛び出してきた相手GKの重心の逆を突き、ゴール左隅へとボールを流し込んだ。
――ザシュッ!
後半19分。2―1!
バルシーノ、ついに逆転!
「¡Goooool!(逆転だぁぁッ!!)」
フェリペが吠え、エステバンと氏真が駆け寄って抱き合う。
ジョゼップ監督がベンチ前で力強く手を叩いた。
前線の三枚が流動的に位置を変え、相手の肉体的な圧力を一切触れさせずにすり抜ける、知性と技術の完全なる連携であった。
――
4. 白鳥のバイシクル
逆転を許したバオルビFCは、前線の大型FWヨンと最終ラインを極端に押し上げ、ロングボールを多用してパワープレーを仕掛けてきた。
だが、カレスとフェランのCBコンビが集中力を切らさず、サビエルとダビアンがセカンドボールを泥臭く回収し続けた。
後半30分、ジョゼップ監督はサビエルを下げ、ポージャン・ペレスを投入。中盤の運動量を補充し、盤面を完全に掌握しにかかる。
そして後半34分。
真冬のバスクの地を静まり返らせる、決定的な一撃が生まれた。
自陣深くでボールを奪ったポージャンが、右サイドのアントニへ展開。
フェリペが相手左SBを内側へ引き連れてサイドにスペースを空けたことで、アントニはフリーで敵陣深くへ侵入し、ペナルティエリア中央へ向けて高精度の浮き球クロスを放り込んだ。
雨を含んだ重いボールが、放物線を描いてゴール前へと落ちてくる。
ペナルティエリア中央。
高く舞い上がったボールの落下点に向かって、バオルビのCBアランブルとFWヨンが、雄叫びを上げながら跳躍の体勢に入った。
自らの制空権を死守せんとする、二つの巨大な肉体の壁。
だが――その二人の影の隙間へ、滑り込むように進入した白い影があった。
吉良氏真である。
氏真は相手と競り合うためにジャンプするのではない。
雨風の抵抗を受けながら落下してくるボールの放物線、そして相手DF二人が爆発的なジャンプのために重心を沈めた「その刹那」を見極めていた。
アランブルとヨンが空中で身体をぶつけ合い、ボールが頭上をわずかに越えて落ちてきた瞬間。
氏真は余計な力みをすべて捨て去り、左足で地面を滑らかに蹴り上げた。
重力を感じさせない、優美な跳躍。
身体を空中で真横へと倒し、背中から宙へと身を投げ出す。
一瞬、冷たい夜空の中で時間が静止したかのような錯覚。
落ちてくるボールの軌道に、右足の甲をしなやかな鞭のように振り上げた。
パシィィィンッ――!
水飛沫を散らしながら、乾いたインパクト音がスタジアムを切り裂いた。
オランダの伝説マルコ・ファン・バステンを彷彿とさせる、極限の優雅さと決定力を秘めたバイシクルシュート。
放たれた弾丸は、横跳びしたバオルビの巨漢GKの伸ばした指先を越え、ゴール右上隅のクロスバーの内側を叩いてネットを揺らした。
ドガンッ!!!!!
後半35分。3―1!
勝負あり!
「¡Golazo! ¡Golazo! ¡Madre mía!(なんてゴールだぁぁぁッ!!)」
敵地であるはずのスタジアムから、驚愕と称賛の入り混じったどよめきと拍手が湧き起こった。
濡れた芝の上に滑らかに着地した氏真は、ゆっくりと立ち上がり、天を仰いで息を吐いた。
泥だらけの背番号29。
剛の荒波を、己の理合によって完全に制した瞬間であった。
――
5. 荒波の鎮火とお役御免
3―1となった直後の後半38分。
ベンチ前で腕を組んでいたジョゼップ・カサス監督が、満足げに頷きながら交代の手を挙げた。
「アクセル、アレハンドロ、行くぞ!」
過密日程と過酷なピッチコンディションを考慮し、監督は氏真とカレスの交代を決断した。
背番号20のアクセルと交代するため氏真が、アレハンドロと交代するためカレスが、それぞれタッチラインへと歩みを進める。
その瞬間、スタンドのバスクのサポーターたちから、敵チームの14歳のストライカーへ向けて、まばらながら確かな敬意のこもった拍手が送られた。
力と誇りを重んじる彼らが、氏真の技に敬意を示したのだ。
ベンチへ戻った氏真の肩を、ジョゼップ監督が力強く叩いた。
「見事だったぞ、氏真。お前の脱力とパスが、チームを救った」
「ありがとうございます、監督」
氏真はベンチコートを羽織り、温かいタオルで顔の泥を拭いながら、ピッチを見つめた。
残された時間、アレハンドロが入った守備陣と、ポージャンが舵を取る中盤は落ち着きを取り戻し、バオルビの焦燥混じりのロングボールをことごとく跳ね返していった。
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーッ!
試合終了を告げる長いホイッスルが、冬のバスクの空に響き渡った。
3―1。
FCバルシーノ・フベニルA、逆境を跳ね除けてスペイン国王杯2回戦を突破し、ベスト16進出を決めた。
ピッチの中央で、泥まみれになった両チームの選手たちが健闘を称え合う。
氏真がピッチへ歩み寄ると、そこへバオルビの主将イケル・アランブルが、重い足取りで近づいてきた。
アランブルは泥にまみれた右手を無言で差し出し、氏真の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「完敗だ、バルシーノの29番」
アランブルの太い声に、悔しさと、純粋な敬意が混ざり合っていた。
「俺の突進をあんな風に躱されたのは初めてだ。……次は、力以外のすべてを鍛え直して待っている」
「ありがとう、アランブル。君たちの強さと激しさがあったから、僕も新しい扉を開くことができたよ」
氏真がその手をしっかりと握り返すと、アランブルは短くフッと笑い、去っていった。
冷たい雨が降りしきる中、バルシーノの選手たちの表情には、真冬の死闘を乗り越えた者だけが持つ、揺るぎない自信が宿っていた。
剛の洗礼を越え、白鳥の翼はまたひとつ、新たな強さをその身に刻み込んだ。
過酷なるシーズン後半戦の頂へ向けて、彼らの歩みはさらに加速していく。
【次回予告】
国王杯を突破し、再び激化する国内リーグ戦! エステバンと氏真のホットラインがさらなる進化を遂げる――!
第110話:【共鳴する切先】次なる天下へのパスを回せ!




