第107話:【バルセロナの邂逅】
【あらすじ】
新年を迎えたバルセロナの街。冬休みを終えて帰国を控える愛・舞姉妹、そしてルナとエレナに囲まれる氏真。そこに現れたのは、マフリットで進化を遂げた宿敵・織田凱斗と妹の美月だった。美月を巡る場外乱闘の果てに、第7章の真冬の激闘が幕を開ける。
1. 新年のランブラス通り
地中海からの乾いた冬晴れの陽光が、バルセロナの目抜き通り――ランブラス通りのプラタナスの並木を黄金色に照らしていた。
元旦。
新年の祝祭ムードに沸く街には、大道芸人たちの賑やかな音楽と、焼き栗の香ばしい匂い、そして観光客の陽気な笑い声が満ちている。
その華やかな人混みの中、吉良氏真はピッチ上での激闘とはまったく異質の冷や汗を背中に滲ませていた。
「氏真様、こちらの焼きたてのチュロス、少しビターなホットチョコレートに浸して召し上がってみてくださいませ。体が温まりますわ」
右隣に寄り添う早川愛が、湯気を立てる紙包みをそっと差し出してくる。
淡いアイボリーのロングコートを上品に着こなした愛の佇まいには、周囲の喧騒を忘れさせるような凛とした気品と、柔らかく澄んだ温もりが宿っていた。
今夜の便で日本へ帰国する予定の愛と舞。その最後の休日を共にする散策の場には、当然のように「現地組」の二人も合流していた。
「ちょっとちょっと! バルセロナのチュロスなら、ゴシック地区の路地裏にある老舗のほうが外はサクサク、中はモチモチで絶品なんだから! ほらウジザネ、あっちの店にも行ってみましょ!」
左腕を引かんばかりの勢いで身を乗り出してきたのは、赤いベレー帽を被ったルナだった。首から提げた一眼レフカメラを揺らし、好奇心いっぱいの大きな瞳をキラキラと輝かせている。
さらにその後ろから、洗練された黒のジャケットを羽織ったエレナが、どこか不機嫌そうにコーヒーカップを揺らしながら歩み寄ってきた。
「甘いものばかり口にしてたら身体が重くなるわよ、ウジザネ。……まあ、午後から私の案内でモンジュイックの丘まで登るなら、良い有酸素運動にはなるでしょうけど」
「却下よ! 午後はウジ君の骨格・重心データ測定結果の最終フィードバックと、明日からの自主トレメニューのすり合わせが入ってるんだから! 余計な寄り道をする暇はありません!」
舞が手元のタブレット端末を掲げ、冷静かつ的確に割って入る。
四者四様の思惑が交錯する、静かで苛烈なポジショニング争い。
欧州屈指の守備ブロックを掻い潜ってきた氏真も、この四方から迫る包囲網ばかりは、どう重心を傾けても抜け出す道が見当たらなかった。
少し離れた歩道で、優雅にカフェラテを口に運んでいた母・有理が、クスクスと楽しげに目を細めている。
「ふふ、大人気ね、氏真。敵のマークを外すより難しそうだこと」
「母さん……笑ってないで助けてよ……」
氏真が苦笑いを浮かべ、チュロスを口に運ぼうとした――まさにその瞬間だった。
――
2. 異様な覇気と魔王の出現
ピリッ、と。
冬の澄んだ空気を切り裂くような、肌をチリチリと焼く殺気が、通りの前方から押し寄せてきた。
雑踏を行き交う観光客たちが、無意識に足を止め、両脇へと自然に避けていく。
その人波を割って堂々と歩いてきたのは、長身の身体を黒いレザージャケットに包んだ、一人の少年だった。
野性味を帯びた鋭利な眼光。獲物を品定めする肉食獣のように肩を揺らし、圧倒的な威圧感を放ちながら直進してくる。
――織田凱斗。
FCレアル・マフリット・カンテラ所属。
前世において天下を焼き尽くさんとした「第六天魔王」の魂を宿し、今世では氏真の最大の宿敵としてスペインの地に渡った男。
6月のカデテリーグ最終節以来、約半年ぶりの再会であった。
「……ん?」
凱斗の獰猛な視線が、人混みの中に佇む氏真の姿を捉えた。
刹那、その野獣のような双眸が細められ、口元に獰猛な三日月が刻まれる。
「……おいおい。どこの優男かと思えば、バルシーノの温室でお上品にパス回しを嗜んでいる吉良じゃねえか」
重低音の効いた太い声が、通りのざわめきを一瞬で圧殺した。
だが、氏真の心拍数を跳ね上げたのは、凱斗の威圧感そのものではなかった。
その凱斗の背後から、ふわりと可憐に姿を現した一人の少女の存在だった。
「……あ、氏真様!」
透き通るような白銀の肌に、腰まで届く艶やかな黒髪。水仙の花のように凛とした美しさと気品を湛えた少女――凱斗の実妹、織田美月であった。
小学生時代の全日本U-12選手権大会の決勝以来となる再会。
美月は氏真の姿を認めた瞬間、それまで浮かべていた退屈そうな表情を一変させ、春の陽光のようにパッと顔を輝かせた。
「お久しぶりでございます、氏真様! カンテラでのご活躍、日本からずっと拝見しておりました……!」
美月が嬉しそうに駆け寄ろうと、一歩前へ踏み出す。
その瞬間――。
ドスッ!
凱斗の太い腕が、妹の行く手を遮るように立ちはだかった。
凱斗の額に、青筋がドクドクと浮かび上がる。
「み、美月ィッ! 待てッ! そいつに近づくんじゃねえッ! なんでコイツの顔を見ただけでそんなに嬉しそうなんだ!? 汚らわしい雅菌が感染るだろうがッ!!」
「お兄様、みっともないですからお静かにしてください。せっかくバルセロナで氏真様にお会いできたのですから」
美月が冷ややかに一瞥すると、凱斗は胸を押さえて「ぐはっ」と小さく悶絶した。
重度のシスコン。魔王の唯一にして最大の弱点が、白日の下に晒された瞬間だった。
――
3. 白き帝国の修羅場
「……フン。半年見ねえ間に、少しはマシな面構えになりやがったな、吉良」
凱斗は咳払いをひとつして体勢を立て直すと、腕を組んで氏真を睨み据えた。
その立ち姿、重心の落ち方。
身体の厚み、骨盤の角度。
氏真の黄金の瞳は、凱斗の身体から放たれる「質の変化」を一目で見抜いていた。
(……身体が、以前よりも遥かに分厚く、低く締まっている)
カデテ時代の凱斗は、理不尽なまでの個のフィジカルと爆発力だけで相手を粉砕する「孤高の暴力」であった。
だが、現在の凱斗の佇まいには、荒々しさの奥に、どっしりとした岩のような「安定感」が宿っていた。
――この半年間、白き帝国マフリットでの凱斗の道は、決して平坦なものではなかった。
鳴り物入りでFCレアル・マフリットのカデテに加入した凱斗だったが、当初はチーム戦術を無視した独善的な単独突破を連発し、戦術的規律を重んじるスペイン人指導者たちと激しく衝突を繰り返していた。
その鼻っ柱をへし折ったのが、1歳年上の怪物FW、クリストファーであった。
強靭無比な肉体、圧倒的なスプリント力、そしてピッチ上の全員をチェスの駒のように操る冷徹な戦術眼を兼ね備えた「コンプリート・フットボーラー」クリストファーの前に、凱斗の我流の暴力性は完膚なきまでに叩きのめされた。
『己の力しか信じられぬ獣に、この白きユニフォームを着る資格はない。味方のための壁になり、攻撃の起点となれ』
クリストファーに叩きつけられた言葉と、監督からの非情な指令。
『この半年間、お前には前線でのポストプレー以外のプレーを禁じる』
天性のストライカーである凱斗にとって、味方に点を取らせるための「黒子」に徹することは、死刑宣告にも等しい屈辱であった。
だが――凱斗の中にある「氏真を叩き潰す」という執念が、その屈辱を極上の劇薬へと変えた。
相手CBの強烈なプレッシャーを背中で受け止め、ボールを懐深く隠す技術。味方の攻め上がりを促すための身体の角度。一瞬のタメを作り、ワンタッチでサイドへ散らす視野の広がり。
個の暴力に、現代フットボールの「起点」としての知性が組み合わさった時、魔王の進化は加速した。
クリストファーとともにカデテからフベニルBへと駆け上がり、そしてこの新年――クリストファーは一足先にフベニルAへと引き上げられた。
凱斗がフベニルAのピッチへ降り立つ日も、そう遠くはなかった。
――
4. 場外のクラシコと交差する火花
「聞いたぜ、吉良。ユースCLで前年王者のパリを相手に、スタメンで大暴れしたらしいじゃねえか」
凱斗が獰猛な牙を剥くように口元を歪めた。
「だが、調子に乗るのも今のうちだ。クリストファーの野郎が一足先にAへ上がりやがったが……俺もすぐに追いつく。そして、フベニルAのクラシコでお前を徹底的に叩き潰す!」
「望むところだよ、凱斗くん。君との対戦なら、いつでも歓迎するよ」
氏真が穏やかに微笑み返すと、凱斗の眉根がピクリと跳ねた。
「笑ってられるのも今のうちだ! 美月に色目を使いやがって……! 美月、コイツの顔を見るな! 目が腐るぞ!」
「お兄様、氏真様を威嚇するような真似はおやめください」
美月が兄の袖を引いて窘めるように眉をひそめる。
その可憐な仕草に、氏真の背後に控えていた少女たちが、一斉に前へと踏み出した。
「まあ、ずいぶんと騒がしいお客様ですわね、織田家の御当主様」
愛が一歩進み出て、ふわりと首を傾げた。
「美月様、お久しぶりでございます。小学生の大会以来ですわね。……氏真様の生活と健康管理は、幼き頃よりお側におりますわたくしが万全を期しておりますので、遠国よりのご心配には及びませんことよ」
完璧な微笑みの奥にある、揺るぎない自負。
美月もまた、凛とした瞳で愛の視線を受け止めた。
「ご無沙汰しております、愛様。……ふふ、愛というものは戦で手繰り寄せるもの。氏真様を巡るお役目争いも、ピッチと同じくらい熱くなりそうですわね」
東西の名家の令嬢同士による、言葉の裏に刃を忍ばせた静かなる火花。
「ちょっと! 誰なのあの子、すっごく品があって可愛いじゃない! ウジザネ、いつの間にあんな美少女と知り合ってたのよ!?」
ルナがカメラを構えながら、美月と氏真を交互に見つめて地団駄を踏む。
「……吉良氏真。あの少女の登場以降、あなたの心拍数が平常時より上がっているわ。明確な動揺の証拠ね」
エレナが腕を組み、冷ややかなジト目を氏真へ向ける。
「データ上、精神的負荷による筋収縮の兆候が見られます。プロテインを追加投与します」
舞がタブレットを叩きながら、容赦なくサプリメントの袋を掲げて割り込んできた。
「ちょ、ちょっとみんな、落ち着いて……!」
ピッチ上のカテナチオよりも遥かに強固で、抜け出し不可能な包囲網。
四方向からの完璧な迎撃に、歴戦の魔王である凱斗すらも顔を引きつらせて後ずさりした。
「て、てめえら……! なんなんだこの取り巻きどもは!? おい美月、行くぞ! こんな魔境に長居できるか!」
「あ、お兄様、引っ張らないでください! ……氏真様、ピッチでのご活躍、心より楽しみにしておりますね!」
凱斗は吐き捨てるように踵を返し、美月の手を引いて足早に人混みの中へと消えていった。
嵐のような遭遇が過ぎ去り、通りに再び穏やかな冬の風が吹き抜ける。
氏真は大きく息を吐き、額の汗を拭った。
(……ピッチの上より、余程に削られたな)
――
5. 冬空の誓いと次なる戦場
その日の夕暮れ。
バルセロナ・エル・プラット国際空港の保安検査場前。
愛と舞の帰国を見送るため、氏真は母・有理とともにロビーに立っていた。
夕陽が滑走路を黄金色に染め上げている。
「ウジ君、後半戦の全対戦相手のデータ、クラウドに共有しておいたからね! 毎朝ちゃんとプロテイン飲むのよ!」
舞がキャリーケースを引きながら、元気に手を振る。
そして愛が、氏真の目の前で足を止めた。
「氏真様」
愛はマフラーに顔を少し埋め、澄んだ瞳で氏真を見上げた。
「後半戦は、いよいよ国王杯、そしてユースCLの決勝トーナメントと、過酷な戦いが続きます。ですが……氏真様なら、必ずや自らの道を切り拓かれると信じております」
「ありがとう、愛さん。日本での支えがあるから、僕はここで前だけを向いて戦えるよ」
愛は嬉しそうに目を細め、小さく頷いた。
そして、少し離れた場所で微笑む有理のほうへすっと視線を落とした。
踏み出す右足にかかる、ほんの一瞬の不自然な間。そして、いつもよりわずかに遅い歩調。
愛は何かを言いかけ、わずかに唇を引き結んだが、すぐにいつもの柔らかな表情に戻り、氏真へ向けて静かに囁いた。
「……有理お母様のこと、よろしくお願いいたしますね」
その言葉に含まれた微かな重みを、氏真はしっかりと受け止めた。
「ああ、分かっているよ」
二人が保安検査場のゲートをくぐり、人波の中へと消えていく。
見送りを終え、空港の外へ出ると、地中海の澄んだ夜空には無数の星が瞬いていた。
隣に並んだ有理が、柔らかな眼差しを息子の横顔に向けた。
「騒がしいお正月だったわね、氏真」
「うん……ピッチで九十分間走り続けるより疲れたよ」
氏真が苦笑すると、有理は静かに微笑んだ。
「でも、織田君の顔つき……引き締まっていたわね。あの子もまた、自分の弱さと向き合って、新しい強さを手に入れようとしている」
「……そうだね」
氏真は、冬の夜空を見上げた。
凱斗の肉体から漂っていた、あの重厚な気迫。
味方を生かし、組織の起点となる術を身につけた魔王は、間違いなく以前よりも厄介な怪物へと進化している。
だが、氏真自身の歩みもまた、止まることはない。
束の間の休息は終わった。
明日から、シーズン後半戦の幕が上がる。
最初の試練は、一発勝負のトーナメント――スペイン・ユース国王杯2回戦。
対戦相手は、スペイン北部バスク地方の伝統ある強豪、バオルビFC・ユース。
岩のように強靭な肉体と、荒れ狂うビスケー湾の如き激しいインテンシティを誇る北の雄。
(……来るなら、来るといい)
氏真の黄金の瞳の奥で、静かに、だが熱く闘志の火が揺らめいた。
相手の力を受け流し、組織の歪みを突く「理合」のフットボール。
真冬の激闘を越えて、白鳥は更なる高みへと羽ばたいていく。
【次回予告】
スペイン国王杯2回戦! 立ち塞がるはバスクの誇り高き荒鷲バオルビFC! 骨と骨が軋む極限のインテンシティの中、氏真の「雅」が激動のピッチを切り裂く!
第108話:【国王杯開幕:バオルビFC】次なる天下へのパスを回せ!




