第105話:【白鳥の飛翔】
【あらすじ】
2-3の劣勢から、反撃へ転じるバルシーノ。エステバンとフェリペの投入で試合は激しく動き始める。だが、前年欧州王者パリFCもまた、勝負を決める切り札を送り込む。両雄が激突する最終局面、氏真が選ぶ最後の一手とは――。
1. 盤面の再編と不測の風
後半開始を告げる主審のホイッスルが、シウダ・エスポルティバのピッチに鳴り響いた。
前半を終えて2―3。
1点を追うFCバルシーノに対し、前年王者FCパリはリードに慢心することなく、後半開始から守備ブロックをタイトに敷き詰めてきた。氏真への個別警戒を緩め、中央のスペースをゾーンで埋めてきた。
バルシーノの反撃が始まろうとした、後半4分のことだった。
サビエルからの縦パスに反応し、相手CBの背後へ猛烈なスプリントを仕掛けたレオン・ラインハルトが、ペナルティエリア手前で突如として右足を抑え、ピッチに崩れ落ちた。
「レオン!」
カレスは異変を察し、すぐさまボールをタッチラインの外へ蹴り出した。
ピィーッ!
主審の笛が鳴り、プレーが止まる。
前半からの激しい肉弾戦と度重なるフルスプリントにより、レオンの右ふくらはぎは限界に達していた。
ベンチ前で腕を組んでいたジョゼップ・カサス監督は、即座に鋭い指示を飛ばした。
「フェリペ、入れ! レオンと交代だ!」
本来ならテンテとの交代で投入するはずだったフェリペが、予定を繰り上げてピッチへ駆け込み、右インサイドハーフへ入る。
氏真が中央の最前線へ位置をスライドさせ、攻撃の基準点となった。
さらに後半10分、ジョゼップ監督は間髪入れずに勝負の交代カードを切った。
「エステバン、行くぞ!」
トップチームから合流した「王子」エステバン・ロサーノが、テンテに代わってピッチへ解き放たれる。
エステバンが左ウイングの位置に入り、左ウイングを務めていたイネス・カスティーニャが一列下がってインサイドハーフへ。中盤の底にはサビエルが単独のアンカーとして腰を据えた。
4-3-3の超攻撃的布陣。
「¡Vamos a ganar!(勝ちにいくぞ!)」
ピッチに入ったエステバンが、濡れた前髪を払ってギラついた瞳を輝かせた。プロの舞台を経験し、自らの価値を証明しようとする欲望が、その全身から立ち上っていた。
――
2. 落下地点の幾何学
布陣の再編が、バルシーノのパスの血流を一気に加速させた。
中央でフェリペとイネスが正確無比なダイレクトパスを刻み、サビエルが相手のカウンターの芽を鋭い読みで摘み取る。
後半18分。
右サイド深くでボールをキープしたフェリペが、相手SBのプレッシャーを受けながらも、中央へ鋭い楔のパスを打ち込んだ。
中央へ降りてきた氏真。
パリのCBローランが背後から激しく身体を寄せ、ボランチのマキシムが前方から挟み込みに来る。
だが、氏真はボールを収めない。
軸足の膝を柔らかく曲げてボールを右足のインサイドでわずかに弾き、左サイドからトップスピードで侵入してきたエステバンの走路へフワリと落とした。
エステバンがダイレクトで右足を振り抜く。
ドガンッ!
放たれた強烈なシュートを、パリのGKが身を挺して弾き返した。
高く宙へと舞い上がったクリアボール。
ペナルティエリアの手前、落下点に向かってパリの巨漢CBバティストが力強く跳躍しようと助走に入る。
だが――その巨漢DFの背後から、風のように滑り込んできた影があった。
吉良氏真である。
氏真はボールを見上げるのではない。
舞い上がるボールの放物線と、相手DFの跳躍の軌道を、水鏡のような感覚で捉えていた。
バティストが空中でボールに触れられず、わずかに頭上を越えて落下してくるその瞬間。
氏真は余計な力みをすべて削ぎ落とした脱力歩法で、バティストの影をすり抜け、ボールがバウンドする一点へと踏み込んだ。
芝生を優しく撫でるようなステップ。
左肩を下げ、身体の軸を斜めに倒しながら、右足を鞭のようにしならせる。
落ちてくるボールの芯を、右足の甲で捉えた。
パシィィンッ――!
乾いた金属音のような打球音が、スタジアムの空気を切り裂く。
放たれたのは、強烈な縦回転を帯びた極上のドライブボレー。
相手GKが横跳びで伸ばした両手の遥か上を通過したボールは、ゴール手前で急激に落下し、クロスバーの内側を叩いてゴールネットへ突き刺さった。
――ドガンッ!
後半19分。3―3!
同点!
「¡Golazo!(なんてゴールだぁぁぁッ!!)」
静まり返っていたスタジアムが、次の瞬間、割れんばかりの歓声に包まれた。
氏真は両手を広げ、駆け寄ってきたフェリペ、そして驚愕に目を見開くエステバンと拳を合わせた。
――
3. 逆転のタクト
試合の流れは、バルシーノへと傾き始めていた。
同点に追いつかれたパリFCは、勝ち点3を奪うべく前線の3トップを押し上げてプレッシングを強めてくる。
だが、氏真、フェリペ、エステバン、ダビアンが織りなすパスワークは、王者のプレスをことごとく空転させた。
そして後半31分。
逆転の瞬間が訪れる。
自陣深くでサビエルが相手の縦パスを鮮やかにインターセプト。
ボールは左サイドのエステバンへと渡る。
エステバンは得意の高速シザースで相手右SBを翻弄し、ペナルティエリア左角から中央へ切れ込んだ。
相手DF二人がエステバンのシュートを警戒して身体を寄せる。
エステバンは、そのまま自らゴールを狙う態勢に入った。
その瞬間、最前線にいた氏真が相手CBの背後へと鋭いダイアゴナルランを仕掛けた。
エステバンの視界に、氏真の走る純白の航路が浮かび上がる。
(そこだ、ウジザネ!)
エステバンの右足のアウトサイドから、相手DF二人の間を縫うような芸術的なスルーパスが放たれた。
完全なる抜け出し。
ペナルティエリア中央へ侵入した氏真は、飛び出してきたGKの位置を冷静に見極め、左足のインサイドでゴール右隅へと流し込んだ。
――ザシュッ。
後半32分。4―3!
バルシーノ、ついに逆転!
「¡Goooool!(逆転だぁぁッ!!)」
ベンチから控え選手たちが飛び出し、歓喜の輪が広がる。
2点差のビハインドを跳ね返し、前年欧州王者を相手にリードを奪い取った。
――
4. 怪物の降臨
だが――欧州の頂点に君臨する絶対王者は、このまま終わるような存在ではなかった。
後半40分。
パリFCのベンチが動いた。
「Marc, entre!(マルク、入れ!)」
ピッチサイドに立ったのは、15歳になったばかりの背番号19――マルク・ティエリーであった。
透き通るような白い肌と、しなやかな長身。
欧州中から「ファン・バステンの再来」と騒がれるフランスの超新星が、ピッチへと解き放たれた。
その怪物の本領は、投入からわずか2分後に炸裂した。
後半42分。
ハーフウェイライン付近でボールを受けたマルク・ティエリーは、寄せてきたサビエルを、背中を向けた状態からの極めて滑らかなターン一発で置き去りにした。
「なっ……!?」
サビエルが振り返る間もなく、マルクは長いストライドで加速する。
中央をカバーしようと飛び出してきたCBフェランを、右足のアウトでボールをわずかに押し出すだけの最小限のタッチでかわし去る。
そのまま30メートルを単独で独走。
ペナルティエリア手前、左45度の位置。
追いついたカレスがシュートコースを塞ぎに身体を投げ出した。
だが、マルク・ティエリーは走る歩幅を一切乱すことなく、左足をコンパクトに一閃させた。
ドガァァァンッ!!!!!
放たれた弾丸は、カレスの伸ばした足のわずか上を通過し、トニ・ラマジェが反応して伸ばした両手を弾き飛ばして、ゴール右上隅のサイドネットを破壊せんばかりに突き刺さった。
――バシィィンッ!
後半43分。4―4!
同点!
「C'est magnifique!(なんて美しさだ!)」
パリのベンチが熱狂に包まれ、スタジアム全体が息を呑んだ。
異次元のスピード、力感のない優美な身のこなし、そして理不尽なまでの決定力。
氏真が技と知略を積み重ね、ようやく辿り着いた「雅」の境地。マルクは、それを呼吸するように体現していた。
ピッチ上の空気が、一変した。
――
5. 最後の選択
4―4。
残り時間は、アディショナルタイムの3分間のみ。
引き分けでも、バルシーノのグループ1位通過は確定する。無理に攻めず、自陣でボールを回して時間を稼ぐのが、セオリー通りの選択であった。
だが、ピッチ中央で肩で息をする氏真の瞳に、引き分けで満足する色は微塵もなかった。
(もう逃げて守る天下など、どこにもない)
氏真はエステバン、フェリペ、ダビアンと視線を交わした。
言葉はなかった。
だが、交わした視線の奥には、同じ火が燃えていた。勝利を、最後の一瞬まで奪いに行くという意志が。
後半45分
勝負を決める、最後の攻撃が始まった。
自陣深くでトニ・ラマジェが放ったロングキックを、中盤でダビアンが競り勝ち、頭で前方のフェリペへ落とす。
フェリペは寄せてくる相手ボランチをワンタッチでかわし、前線の氏真へ鋭い縦パスを通した。
ペナルティエリア手前の中央。
ボールを収めた氏真の前に、パリのCBローランとバティストが壁のように立ちふさがる。
背後からは猛然とボランチが挟み込みに来ていた。
シュートコースは完全に消されている。
誰もが、氏真が強引に振り抜くか、あるいは時間を消費するためにキープすると予想した。
だが――氏真は右足を大きく振り上げるシュートモーションに入りながら、左斜め奥のスペースへ視線を一切向けずに、右足のインサイドでボールの底を優しく擦り上げた。
ノールックパス。
相手DF二人が氏真のシュートブロックのために身体を投げ出した、その足元の隙間を、ボールが静かに滑り抜けていく。
その先へ走り込んでいたのは、背番号10――エステバン・ロサーノだった。
完全なフリー。
相手GKと一対一。
エステバンの脳裏に、電撃のような衝撃が走った。
(……俺に、打たせたのか……!)
氏真は、自らが最後の一撃を決める道を捨てた。
エステバンの身体の奥底から、魂の叫びのような熱いエネルギーが沸き上がった。
迷いは消え去っていた。
エステバンは右足をコンパクトに振り抜き、飛び出してきたGKの脇下を鋭く射抜いた!
――ザシュッ!!!!!
後半45分+3分。5―4!
劇的な勝ち越しゴール!
「¡Golazo! ¡Golazo! ¡Gooooool!(決まったぁぁぁッ!!)」
スタジアムが地鳴りのような咆哮に包まれ、エステバンは雄叫びを上げながら氏真へと突進した。
「ウジザネぇぇぇッ!」
エステバンが氏真を抱き上げ、ピッチの上で絶叫した。
「お前って奴は……! 本当に、とんでもない奴だよ!」
「君が決めてくれると信じていたよ、エステバン」
氏真は少年の柔らかな笑顔を浮かべ、エステバンの背中を強く叩いた。
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーッ!
直後に鳴り響いた長いホイッスル。
5―4。
FCバルシーノ、欧州王者FCパリとの壮絶な死闘を制し、ユースCLグループステージ5勝1分、勝ち点16。
堂々のグループ首位通過を決めた瞬間であった。
――
6. 12月の空港と予兆の影
激闘から数日が過ぎた、12月下旬。
カンテラの前半戦全日程が終了し、バルセロナの街はクリスマスの華やかなイルミネーションに彩られていた。
冷たい冬の澄んだ空気が広がる、バルセロナ・エル・プラット国際空港の国際線到着ロビー。
自動ドアの向こうから姿を現した二人の少女を見て、迎えに来ていた氏真は目を細めた。
「氏真様!」
冬物のコートを身に纏い、柔らかな笑みを浮かべて駆け寄ってきたのは、冬休みを利用して日本からやってきた早川愛だった。
その隣では、妹の舞がキャリーケースを引きながら、不敵な笑みを浮かべて手を振っている。
「ウジ君、待たせたわね! 前半戦の全データと、決勝トーナメントの仮想敵のシミュレーション、全部持ってきたわよ!」
「愛さん、舞。長旅お疲れ様。よく来てくれたね」
氏真が温かく迎え入れたその時だった。
ロビーの反対側から、カメラを首から提げたルナと、洗練された私服を着こなすエレナが小走りで駆け寄ってきた。
「ウジザネーッ!」
「初めまして。氏真様の食事と健康管理をお預かりしております、早川愛と申します」
愛とルナの視線が交錯する。
氏真が苦笑いを浮かべる中、愛の聡明な瞳が、少し離れた柱の陰から歩み寄ってくる母・有理の姿を捉えた。
有理は笑顔で手を振っている。
だが――愛の視線は、有理が右足を踏み出す際のほんのわずかな躊躇、そしていつもより明らかに遅い歩行速度を見逃さなかった。
愛の伏せられた睫毛が、微かに揺れる。
地中海の冬風の中、氏真たちの次なる戦いは、静かにその幕を開けようとしていた。
【次回予告】
冬休みのバルセロナで勃発する波乱のオフシーズン!
そして、愛が感じ取った「小さな異変」の正体とは――!?
第106話:【地中海の火花】次なる天下へのパスを回せ!




