第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第六章 もう親友には戻れない夜
越えた。やっと、越えた。
春休みが始まった。
講義がなくなって、キャンパスが静かになった。桜がまだ咲いていない、少し手前の季節。蕾がふくらみかけている、その間の時間。
桃花はその時間が、好きだった。
まだ咲いていないのに、もうすぐ咲くと分かっている。その手前の、静かな期待みたいなものが、好きだった。
今年の春は、その感覚と似ていた。
まだ何も動いていない。でも、もうすぐ何かが動く気がする。
春休みの最初の週、蓮から連絡が来た。
蓮:暇だったら、散歩しない?
散歩。
珍しかった。図書館でも、学食でも、カフェでもなく、散歩。
桃花:いいよ。どこを
蓮:灯凪町、適当に
適当に、という言い方が蓮らしかった。
桃花:何時
蓮:昼過ぎくらい
約束が決まった。スマホを置いて、桃花はしばらく天井を見た。
散歩。ふたりで、灯凪町を適当に。
(なんか、緊張する。)
いつもと変わらないはずなのに。
昼過ぎ、灯凪駅の前で待ち合わせた。
蓮は先に来ていた。桃花を見て、手を上げた。
「早いね」
「たまたま」
また同じやり取りだった。でも今回は言えた。「去年も同じこと言ってたね」と。
蓮が少し笑った。
「覚えてるんだな」
「覚えてるよ」
「俺も覚えてる」
ふたりとも覚えていた。
それが分かって、桃花は少し嬉しかった。
灯凪町を歩いた。
特に目的地はなかった。川沿いの道を歩いて、商店街を抜けて、海の方へ向かった。
話しながら歩いた。他愛ない話だった。春休みの予定、来学期の講義、最近読んだ本。
でも歩きながら、桃花は感じていた。
今日は、何かが違う。
いつもと同じ話をしているのに、空気が少し違った。
蓮が、何かを決めているような感じがした。
海沿いの道に出た。
風が来た。三月の海風は、まだ少し冷たかった。でも、二月より柔らかかった。
並んで歩きながら、しばらく何も話さなかった。
波の音だけが聞こえた。
「桃花」
蓮が言った。
「うん」
「聞いていい?」
「何を」
「ノートのこと」
桃花は少し止まった。
「ノート?」
「三冊、書いたって言ってたじゃん。全部、同じ人のことだって」
「うん」
「その人って」
蓮が少し間を置いた。
「俺のこと?」
波が来て、引いた。
桃花は前を向いたまま、蓮の言葉を受け取った。
その人って、俺のこと?
答えは、決まっていた。ずっと決まっていた。
でも声に出すことと、決まっていることは、違う。
(言う?)
言ったら、変わる。
でも変わらないままでいることの怖さが、変わることへの怖さを、今日はっきり越えた気がした。
桃花は息を一度吸った。
「うん」
小さな声だった。でも、ちゃんと届いたと思った。
蓮は何も言わなかった。
波の音が続いた。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
桃花は蓮の返事を待った。怖かった。心臓がうるさかった。
でも逃げなかった。
やっと言えた。三冊分の言葉を、一言に縮めて、言えた。
(振られても、仕方ない。)
そう思っていた。でも言えた。それだけで、何かが軽くなった気がした。
「桃花」
蓮が言った。
「うん」
「俺も」
桃花は蓮を見た。蓮は海を見ていた。
「俺も、ずっと桃花のことが気になってた。去年の夏から、もしかしたらもっと前から」
蓮の声が、いつもより少し低かった。
本音の時ほど、声が低くなる。大事な時ほど、言葉が短くなる。
「でも、ちゃんと向き合うのが怖くて。本気になったら変われない気がして」
「変われない?」
「変わることが、怖かった。本気になったら、今みたいにはいられない気がして」
今みたいにはいられない。
桃花は、その言葉を聞きながら思った。
自分と、同じだった。
変わることが怖くて、今のままでいようとしていた。でも今のままでいることが、しんどくなっていた。
「蓮」
「うん」
「私も、怖かった。変わることが」
「そっか」
「でも、今日言えた」
「うん」
「怖かったけど、言えた」
蓮がやっと桃花を見た。
真剣な顔だった。いつもの軽い顔じゃなかった。本気の時に、視線を合わせられない、と思っていたのに。今日は、ちゃんと見ていた。
「俺も」
蓮が言った。
「言う」
波の音が続いた。
風が来た。桃花の髪が揺れた。
蓮がそれをちらっと見た。
「好きだ」
声に出した。
桃花には、その言葉が海の音よりはっきり聞こえた。
(言ってくれた。)
胸の中で、何かがほどけた。
ずっとそこにあった固いものが、ゆっくりとほどけていった。
桃花はしばらく、その言葉を受け取っていた。
好きだ。
三冊のノートに書き続けてきた言葉の、返事みたいだった。
「私も」
桃花は言った。
「ずっと、好きだった」
蓮は何も言わなかった。
でも、少し笑った。
力の抜けた、素の笑い方だった。
もう親友には戻れない夜、とは少し違った。夜じゃなくて、昼間の海辺だった。
でもそういうことだった。
親友という言い訳が、ここで終わった。
やさしい嘘の練習が、ここで終わった。
名前をつけないでいた感情が、名前を持った。
帰り道、並んで歩いた。
さっきと同じ道を、さっきと少し違うふたりで歩いた。
特に何も変わっていないのに、全部が少し違って見えた。
海風が、さっきより温かかった。
街灯がまだ灯っていない昼間の道が、どこかきらきらしていた。
「蓮」
「うん」
「また、隣に座っていい?」
蓮が少し止まった。
それから、また歩き出した。
「当たり前だろ」
その一言が、全部だった。
その夜、桃花はノートを開いた。
今日のことを書こうとした。
でも、うまく書けなかった。
言葉が多すぎて、どこから書けばいいか分からなかった。
好きだ、と言ってもらえた。 私も、ずっと好きだったと言えた。 三冊のノートが、今日やっと届いた気がした。
それだけ書いた。
それだけで十分だった。
三冊のノートが、今日やっと届いた。
書きながら、少し泣きそうになった。泣かなかったけど、泣きそうだった。
嬉しいから、じゃなかった。
ずっとここにあったものが、ちゃんと受け取ってもらえたから。
好きだ、と言った。海の音より、はっきり聞こえた。




