第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第七章 まだ恋と呼ばれないままの確信
四冊目のノートが、今日始まった。
翌朝、目が覚めた時、最初に昨日のことを思い出した。
好きだ、と言われた。私も好きだったと言えた。
夢じゃなかった。
桃花はしばらくベッドの中で天井を見ていた。
(本当に、言えたんだ。)
三冊分のノートを書き続けて、ずっと引き出しの奥にしまっていて、いつか言える気がすると書いて、その「いつか」が昨日来た。
なんか、呆気なかった。
大きな決意があったわけじゃない。覚悟を決めたわけでもない。ただ、蓮に聞かれて、うん、と答えた。それだけだった。
(でも、それで良かったんだな。)
大きな言葉じゃなくてよかった。小さな、うん、だけで良かった。
春休みの間、ふたりは何度か会った。
付き合った、という話をしたわけじゃなかった。でも何かが変わっていた。
変わったというのは、大げさなことじゃなかった。
帰り道、少しだけ距離が近くなった。話す時、少しだけ蓮がこちらを向く時間が増えた。それだけのことだった。
でも、それだけのことが、全然違った。
ある日、ふたりで海沿いの道を歩いていた。
昨日と同じ道だった。風が少し温かくなっていた。
蓮が言った。
「桃花、あのノート、まだ書いてる?」
「書いてる」
「今も俺のこと?」
桃花は少し笑った。
「今も」
「見せてくれない?」
「まだダメ」
「いつならいい?」
「もう少し先」
蓮は「そっか」と言った。
いつもの「そっか」だった。待っている、みたいな「そっか」。
桃花はその「そっか」を聞きながら、少し考えた。
もう少し先。
三冊目のノートが終わったら、見せようかな。そう思っていた。全部が揃ってから。言えなかった時間の全部を、言えた今の自分が渡す。
それが、ちゃんとした形な気がした。
四月になった。
新しい学期が始まった。キャンパスに新入生が増えた。去年も、一昨年も、同じ景色を見た。でも今年は、全然違う気がした。
講義室に入ると、蓮がいた。
目が合った。蓮が少し笑った。桃花も笑った。
隣に座った。
去年と同じだった。一昨年と同じだった。でも全然違った。
隣に座ることの意味が、変わっていた。
当たり前の形は同じだけど、その中身が違った。
講義が始まる前、蓮が言った。
「また隣になったな」
「またね」
「来学期も取る?」
「取る」
「じゃあまた隣だな」
桃花は少し笑った。
また隣。来学期も、その次も。当たり前みたいに言う。
(嬉しいな。)
思って、前を向いた。
その日の帰り道、いつもの坂道を下りながら、蓮が言った。
「桃花」
「うん」
「最初、会釈しただけだったな」
「覚えてるの?」
「覚えてる。最初の講義で隣になった時」
桃花は少し驚いた。
蓮も、最初の会釈を覚えていた。
「なんか、遠かったな」
「遠かった?」
「隣に座ってるのに、遠かった。桃花が言ってた、ガラスがある感じ、俺の方でも分かる」
自分にもガラスがあった。誰に対しても、深く触れないようにしていた。
「今は?」
「今はない」
「どこ行ったんだろう、ガラス」
「桃花が溶かしたんだろ」
(溶かした。)
桃花は、その言葉を聞きながら胸が温かくなった。
溶かしたわけじゃなかった。ただ、隣にいただけだった。でも蓮にとっては、それが溶かすことになっていたのかもしれない。
ただ隣にいることが、誰かにとって何かになることがある。
家に帰って、ノートを開いた。
三冊目のノートの、最後の方のページだった。もうすぐ終わりそうだった。
今日のことを書いた。
ガラスを溶かした、と言ってくれた。 溶かしたわけじゃない。 ただ、隣にいただけだった。 でもそれが、誰かにとって何かになることがある。 蓮の隣にいたことが、私にとっても何かだった。 強がりの私が、少しずつ正直になれた場所。 名前のなかった感情が、名前を持てた場所。
書いてから、ノートを閉じた。
三冊目のノートが、もうすぐ終わる。
終わったら、蓮に渡そう。そう思った。全部読んでもらおう。言えなかった時間の全部を、ちゃんと知ってもらおう。
怖くなかった。
以前は、読まれることが怖かった。でも今は、怖くなかった。
全部知ってもらいたかった。春の夜に最初の一行を書いた時から、全部。
三冊目のノートが終わったのは、四月の終わりだった。
最後のページに、桃花はこう書いた。
三冊、終わった。 全部、蓮のことだった。 全部、ここに書いてきた。 言えなかった時間が、たくさんあった。 でも言えた。 ずっと引き出しの奥にしまっていたものが、やっと外に出られた。 これを蓮に渡す。 全部、知ってもらう。 それが、ちゃんとした終わりになる気がするから。
書いてから、三冊のノートを並べた。
一冊目、二冊目、三冊目。
同じ紺色の表紙が、三つ。
夏の夜から始まって、秋を越えて、冬を越えて、春になった。
全部でひとつの物語だった。
まだ恋と呼んでいなかった時間が、ほとんどだった。名前をつけないで、引き出しの奥にしまって、気にしすぎと言い聞かせ続けた時間が。
でも全部、確かにそこにあった。
確信は、ずっと前からあった。恋と呼ぶ前から、もう決まっていた。
まだ恋と呼ばれないままの確信が、三冊のノートに詰まっていた。
翌日、蓮に会った。
「これ」
桃花は三冊のノートを差し出した。
「読んで感想教えて」
声が、少しだけ震えた。
蓮はノートを受け取った。
「全部、俺のこと?」
「全部」
蓮はしばらく三冊のノートを見ていた。
それから、桃花を見た。
「ありがとう」
「まだ読んでないのに」
「読む前から、ありがとう」
(読む前から。)
渡したことへの、ありがとう。言えなかった時間を、形にして渡してくれたことへの、ありがとう。
桃花はその「ありがとう」を、胸の中にしまった。
蓮がノートを読んでいる間、桃花は普通に過ごした。
普通にしようとした。
でもやっぱり、少し落ち着かなかった。
三冊分の夜が、今頃蓮の手の中にある。最初の一行から、全部。強がりを認めた夜も、痛いと書いた夜も、好きだとはっきり書いた夜も。
全部、読まれている。
(怖い。)
やっぱり少し怖かった。
でもそれより、早く感想が聞きたかった。
数日後、蓮からノートが返ってきた。
「読んだ」
「どうだった」
「詩って言うより、物語みたいに感じた」
桃花は少し笑った。
物語。そうかもしれない。詩を書いていたつもりだったけど、実際は一つの物語だった。
「俺のこと好きなんだろう?」
そう言って、蓮が笑った。
「今さら何を言うの」
「確認したかっただけ」
「もう確認したじゃん、海辺で」
「もう一回」
桃花は呆れながら、でも笑った。
「好きだよ」
「俺も」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
春の光の中で、ふたりは並んで歩いた。
灯凪町の桜が、満開だった。
去年の春も、この道を歩いた。でも去年は、まだ名前のない関係だった。
今年は、並んで歩くことの意味が、全然違った。
春の隣席から始まって、ここまで来た。 名前のなかった時間が、一番長かった。 でもその時間が、全部、ここに繋がっていた。
それが、四冊目のノートの最初の一行だった。
桃花はペンを置いて、窓の外を見た。
灯凪町の夜が、静かに広がっていた。
まだ恋と呼ばれないままだった長い時間が、今は確かに恋だった。
最初からそうだったのかもしれない。
会釈から、全部が始まっていた。
春の隣席から始まって、全部がここに繋がっていた。




