第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第五章 気づいてしまった側の沈黙
ふたりとも、もう分かっていた。
二月の終わりになった。
進級まで、あと一ヶ月を切っていた。
桃花はそのことを、毎朝少しだけ意識していた。あと何週間、この形で隣に座れるんだろう、と。数えるつもりはなかった。でも気づいたら数えていた。
(また数えてる。)
自分に呆れながら、教室に向かった。
その日の講義は午前中だった。
教室に入ると、蓮はもう席にいた。いつもより早かった。
「早いね」
「たまたま」
去年の春、同じやり取りをした気がした。あの時は桃花が早くて、蓮が言った。今日は逆だった。
席に座りながら、桃花はそれを言おうとした。でも言わなかった。
言ったら、去年のことを覚えていると分かってしまう。
(覚えてるに決まってるんだけど。)
覚えている。全部覚えている。最初の会釈も、ノートを貸した日も、名前を覚えた日も。
ノートに全部書いてあるから、余計にはっきり覚えていた。
講義が始まった。
先生の声を聞きながら、桃花はノートを取った。
隣で蓮もノートを取っていた。字が丁寧だった。最初の頃から、そうだった。
(最初の頃から、知ってる。)
当たり前のことだった。一年以上、隣に座っているんだから。
でも今日は、その当たり前が少し重かった。
もうすぐ、この形が変わるかもしれない。来学期も同じ講義を取ればいいだけの話だ。でも、同じとは限らない。
(このまま、ずっと隣にいたい。)
思ってから、桃花は自分でも驚いた。
ずっと、という言葉を使ってしまった。
講義が終わった後、ふたりで廊下を歩いた。
いつもの帰り道だった。でも今日の蓮は、少し様子が違った。
黙っていた。
いつもは何か話しかけてくるのに、今日は黙って歩いていた。考え事をしているような、でも考え事じゃないような。
「蓮」
「うん」
「何か考えてる?」
「別に」
「また別に」
蓮が少し笑った。
「バレるな、もう」
「最初からバレてた」
「そうだったな」
また沈黙があった。今日の沈黙は、いつもの沈黙と少し違った。
何かを言おうとしている、でも言えない、という沈黙だった。
桃花にも、同じ沈黙があった。
ふたりとも、何かを持っていた。ふたりとも、まだ言えないでいた。
坂道の途中で、蓮が立ち止まった。
桃花も止まった。
「桃花」
「うん」
「来学期、どの講義取る?」
「まだ決めてない。蓮は?」
「俺も決めてない。でも」
蓮が少し間を置いた。
「また同じの取りたいな」
また同じの。
桃花は蓮を見た。蓮は海の方を見ていた。
また同じ講義を取りたい。それって、また隣に座りたい、ということだ。
「また隣に座るの?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「じゃあいい」
蓮はまた歩き出した。桃花も歩き出した。
ダメじゃない。むしろ、嬉しかった。でもそれを言えなかった。
言えないまま、並んで歩いた。
その夜、ノートを開いた。
また隣に座りたい、と言ってくれた。 ダメじゃない、と答えた。 嬉しかった、と言えばよかった。 でも言えなかった。 気づいてしまった側の沈黙は、こんなに長い。
書いてから、その最後の行を読み返した。
気づいてしまった側の沈黙。
ふたりとも、もう気づいている。
お互いが、お互いのことを特別に思っていることを、ふたりとも分かっている気がした。分かっているのに、言えないでいる。
なぜ言えないのか。
桃花には、まだその答えが出ていなかった。怖いからだ、というのは分かる。でもその怖さの中身が、最近少し変わってきていた。
失うことが怖い。それは変わらない。
でも今は、それよりも。
言えないまま終わることが、もっと怖くなってきていた。
三月になった。
最後の月が始まった。
桃花は毎日、少しだけそわそわしていた。あと何週間、という計算を、やめられなかった。
羽海に
「最近、落ち着かない顔してる」
と言われた。
「そう?」
「うん。何かあった?」
「何もない」
「嘘つくのが下手になったね、最近」
桃花は少し笑った。
「下手になったんじゃなくて、羽海が上手くなったんだよ」
「どっちでもいい。何かあるんでしょ」
「…もうすぐ今の形が変わるかもしれなくて」
「今の形って?」
「隣に座る形」
羽海はしばらく黙っていた。それから言った。
「言えばいいじゃん」
「何を」
「思ってること」
桃花は何も言えなかった。
言えばいい。そうだ、言えばいい。でもそれが難しいから、一年以上ノートに書き続けてきたんだ。
「怖いんだよ」
「何が」
「変わるのが」
羽海は少し考えた。
「でも、変わらないままでいることの方が怖くなってきてるんじゃない?」
桃花は黙った。
図星だった。
変わらないままでいることへの怖さが、最近、失うことへの怖さを追い越しそうになっていた。
三月の中頃、最後の講義があった。
今学期の、最後の日だった。
講義が終わって、教室を出た。廊下を歩いた。いつもの形で、並んで。
坂道を下りながら、桃花は思った。
(これで最後かもしれない。)
来学期も同じ講義を取れば、また同じ形になれる。でも今この瞬間は、今学期の最後だった。
何か言わなきゃ、という気持ちと、でもまだいいという気持ちが、ぐるぐるしていた。
「蓮」
「うん」
「今学期、ありがとう」
蓮が少し止まった。
「ありがとうって、何が」
「隣に座ってくれて」
蓮はしばらく何も言わなかった。
それから、前を向いたまま言った。
「こっちこそ」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった気がした。
その夜、ノートを開いた。
今日のことを書いた。
今学期、ありがとう、と言ったら、こっちこそ、と返ってきた。 それだけだった。 でも、それだけで何かが伝わった気がした。 気づいてしまった側の沈黙が、少しだけほどけた気がした。 まだ全部は言えていない。でも、言えそうな距離には来ている。
書いてから、桃花はノートを閉じた。
三冊目のノートは、まだ途中だった。終わっていなかった。
全部を言えた時に、終わるのかもしれない。
(あと少し。)
そう思った。
根拠はなかった。でも、あと少しという感覚が、確かにあった。
気づいてしまった側の沈黙は、まだ続いていた。
でも終わりが、少しずつ近づいていた。
言えそうな距離には、来ていた。




