表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桃色の夜に、きみがいた  作者: Noct


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/42

第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第四章 言葉より先に積み重なっていた時間

言葉にする前から、全部が積み重なっていた。

一月になった。

新しい年が始まって、初詣に行った。

ふたりで、というわけじゃなかった。慎吾も羽海もいて、何人かのグループだった。灯凪町の神社は、お正月になると人が増える。露店が並んで、甘酒の匂いがして、参道に提灯が灯る。

去年も来た。でも去年は、これほど人のことを意識しなかった。

ふたりの前に、おみくじがあった。

 「引く?」

蓮が言った。

 「引く」

ふたりでおみくじを引いた。

桃花が先に開いた。

 「何だった?」

 「小吉」

 「どんなこと書いてある?」

桃花は少し読んだ。

 「恋愛運。もうすぐ動きがある、って」

蓮は何も言わなかった。

桃花も何も言わなかった。

もうすぐ動きがある。

その言葉が、ふたりの間に静かに置かれた。


蓮のおみくじは、中吉だった。

 「何て書いてあった?」桃花が聞いた。

 「待て、と書いてある」

 「待て?」

 「焦らず待てば、自ずと道が開ける、みたいな」

桃花が少し笑った。

 「蓮らしい」

 「俺らしいって何が」

 「焦ってないでしょ、いつも。待つのが上手そう」

待つのが上手。

蓮はその言葉を聞きながら、そうかもしれないと思った。待つのは上手かった。でもそれは、怖くて動けなかっただけかもしれない。

 「桃花こそ、もうすぐ動きがある、って書いてあったじゃん」

 「そうだね」

 「どう動くつもりなの」

桃花は少し考えた。

 「分からない。でも、動く時が来たら、動く気がする」

動く時が来たら、動く。

その言葉が、蓮の中に残った。


一月の中頃、大学が再開した。

新学期の講義が始まって、また同じ講義で隣に座った。

もう三度目だった。一年生の春から、ずっと同じ場所に座り続けている。

当たり前になっていた。

でも今年は、当たり前の意味が少し変わっていた。

去年は、当たり前が怖かった。当たり前を失う怖さが、常にどこかにあった。

でも今年は、当たり前がただ温かかった。


講義が終わった後、廊下を並んで歩いた。

蓮はふと、出会いの頃のことを思い出した。

最初の会釈。ノートを借りた日。名前を覚えた日。自販機で同じコーヒーを選んだ日。図書館で詩を書いていると話してくれた日。

全部、何でもなかった。

でも全部が、ここに繋がっていた。

 「なあ」

蓮が言った。

 「うん」

 「最初、俺のことどう思ってた」

 「最初?」

 「講義で隣になった頃」

桃花は少し考えた。

 「感じの良い人、って思ってた」

 「それだけ?」

 「でも、なんか遠い感じもした」

遠い感じ。

 「遠い?」

 「うん。近いのに、どこか触れていない感じ。ガラス一枚隔てた向こうにいる人みたいな」

蓮はしばらく黙った。

正確だった。あの頃の蓮は、確かにそうだった。誰とでも仲良くなれたけど、誰にも深く触れていなかった。

 「今は?」

桃花は少し考えた。

 「今は、違う」

 「どう違う」

 「ガラスがない感じ」

蓮は歩きながら、その言葉を受け取った。

ガラスがない。

一年かけて、そこまで来たのかもしれない。


一月の終わり、雪が降った。

灯凪町では珍しい、本物の雪だった。朝起きたら、うっすら白くなっていた。

大学への坂道を上りながら、桃花が言った。

 「雪だ」

 「珍しいな」

 「好き、雪。なんか特別な感じがして」

特別な感じ。

桃花はよく、特別な感じ、という言葉を使った。夏の夜の空気も、特別な感じがすると言っていた。

(桃花にとって、特別な感じがするものが多いんだな。)

そう思って、少し嬉しくなった。

特別な感じがするものを、ちゃんと特別だと感じられる人。それが桃花だった。

 「転ぶなよ」

 「転ばないよ」

 「坂道で雪は危ない」

 「大げさ」

 「大げさじゃない」

そう言いながら、蓮は桃花の少し前を歩いた。

転んだ時に、支えられるように。

考えてからしたわけじゃなかった。気づいたら、そうしていた。

桃花は気づいていなかったかもしれない。

でも蓮の体は、正直だった。


二月になった。

講義の帰り道、ふたりで歩いていた。

蓮はふと、去年の二月のことを思い出した。

あの頃、慎吾に「好きな子でもできたら変わるんじゃない?」と言われた。

好きな子。

あの時は、よく分からなかった。好きと、好きな子は、違うのかもしれないと思った。

今は、分かる気がした。

好きな子というのは、こういうことだったんだ。

未読通知があるだけで落ち着かない。連絡が来ると、思ったより嬉しい。隣にいると、世界に色が入る。当たり前になることが、怖いんじゃなくて温かい。

全部、桃花のことだった。


その日の帰り道、桃花が言った。

 「最近、ノートが三冊目に入った」

 「そっか」

 「三冊分、書いた」

三冊分。

 「全部、同じ人のこと?」

蓮が聞いた。

桃花は少し止まった。

 「……うん」

 「ずっと、その人のことが好きなの?」

桃花はしばらく何も言わなかった。

 「好き、って言葉にしたのは最近だけど。ずっと前から、何か溜まってたんだと思う」

何か溜まってた。

蓮はその言葉を聞きながら、自分のことみたいだと思った。言葉にしていなかったけど、ずっと何かが溜まっていた。

 「その人に、言えそう?」

 「分からない。でも、いつか言える気がする」

いつか言える気がする。

桃花が前を向いたまま言った。その横顔を、蓮は見ていた。

言葉より先に、たくさんのことが積み重なっていた。

一年以上かけて、静かに、確かに。

名前をつけていなかった時間が、全部ここに繋がっていた。


その夜、蓮は部屋にいた。

窓の外の街灯が、いつもみたいに点々と灯っていた。

いつか言える気がする、と桃花が言った。

俺も、いつか言える気がする。

でも「いつか」がいつなのか、まだ分からなかった。

ただ、一つだけ分かっていることがあった。

言葉より先に積み重なっていた時間が、本物だということ。

会釈から始まって、ノートを貸して、名前を覚えて、自販機で同じコーヒーを選んで、図書館で並んで座って、夏の海で並んで立って、金木犀の匂いを同じように懐かしいと言って、イルミネーションの前で少しだけ正直になって。

全部が本物だった。

全部が、ここに繋がっていた。

やけに静かな夜だった。

でもその静けさが、今夜は温かかった。

本物だということだけが、確かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ