第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第四章 言葉より先に積み重なっていた時間
言葉にする前から、全部が積み重なっていた。
一月になった。
新しい年が始まって、初詣に行った。
ふたりで、というわけじゃなかった。慎吾も羽海もいて、何人かのグループだった。灯凪町の神社は、お正月になると人が増える。露店が並んで、甘酒の匂いがして、参道に提灯が灯る。
去年も来た。でも去年は、これほど人のことを意識しなかった。
ふたりの前に、おみくじがあった。
「引く?」
蓮が言った。
「引く」
ふたりでおみくじを引いた。
桃花が先に開いた。
「何だった?」
「小吉」
「どんなこと書いてある?」
桃花は少し読んだ。
「恋愛運。もうすぐ動きがある、って」
蓮は何も言わなかった。
桃花も何も言わなかった。
もうすぐ動きがある。
その言葉が、ふたりの間に静かに置かれた。
蓮のおみくじは、中吉だった。
「何て書いてあった?」桃花が聞いた。
「待て、と書いてある」
「待て?」
「焦らず待てば、自ずと道が開ける、みたいな」
桃花が少し笑った。
「蓮らしい」
「俺らしいって何が」
「焦ってないでしょ、いつも。待つのが上手そう」
待つのが上手。
蓮はその言葉を聞きながら、そうかもしれないと思った。待つのは上手かった。でもそれは、怖くて動けなかっただけかもしれない。
「桃花こそ、もうすぐ動きがある、って書いてあったじゃん」
「そうだね」
「どう動くつもりなの」
桃花は少し考えた。
「分からない。でも、動く時が来たら、動く気がする」
動く時が来たら、動く。
その言葉が、蓮の中に残った。
一月の中頃、大学が再開した。
新学期の講義が始まって、また同じ講義で隣に座った。
もう三度目だった。一年生の春から、ずっと同じ場所に座り続けている。
当たり前になっていた。
でも今年は、当たり前の意味が少し変わっていた。
去年は、当たり前が怖かった。当たり前を失う怖さが、常にどこかにあった。
でも今年は、当たり前がただ温かかった。
講義が終わった後、廊下を並んで歩いた。
蓮はふと、出会いの頃のことを思い出した。
最初の会釈。ノートを借りた日。名前を覚えた日。自販機で同じコーヒーを選んだ日。図書館で詩を書いていると話してくれた日。
全部、何でもなかった。
でも全部が、ここに繋がっていた。
「なあ」
蓮が言った。
「うん」
「最初、俺のことどう思ってた」
「最初?」
「講義で隣になった頃」
桃花は少し考えた。
「感じの良い人、って思ってた」
「それだけ?」
「でも、なんか遠い感じもした」
遠い感じ。
「遠い?」
「うん。近いのに、どこか触れていない感じ。ガラス一枚隔てた向こうにいる人みたいな」
蓮はしばらく黙った。
正確だった。あの頃の蓮は、確かにそうだった。誰とでも仲良くなれたけど、誰にも深く触れていなかった。
「今は?」
桃花は少し考えた。
「今は、違う」
「どう違う」
「ガラスがない感じ」
蓮は歩きながら、その言葉を受け取った。
ガラスがない。
一年かけて、そこまで来たのかもしれない。
一月の終わり、雪が降った。
灯凪町では珍しい、本物の雪だった。朝起きたら、うっすら白くなっていた。
大学への坂道を上りながら、桃花が言った。
「雪だ」
「珍しいな」
「好き、雪。なんか特別な感じがして」
特別な感じ。
桃花はよく、特別な感じ、という言葉を使った。夏の夜の空気も、特別な感じがすると言っていた。
(桃花にとって、特別な感じがするものが多いんだな。)
そう思って、少し嬉しくなった。
特別な感じがするものを、ちゃんと特別だと感じられる人。それが桃花だった。
「転ぶなよ」
「転ばないよ」
「坂道で雪は危ない」
「大げさ」
「大げさじゃない」
そう言いながら、蓮は桃花の少し前を歩いた。
転んだ時に、支えられるように。
考えてからしたわけじゃなかった。気づいたら、そうしていた。
桃花は気づいていなかったかもしれない。
でも蓮の体は、正直だった。
二月になった。
講義の帰り道、ふたりで歩いていた。
蓮はふと、去年の二月のことを思い出した。
あの頃、慎吾に「好きな子でもできたら変わるんじゃない?」と言われた。
好きな子。
あの時は、よく分からなかった。好きと、好きな子は、違うのかもしれないと思った。
今は、分かる気がした。
好きな子というのは、こういうことだったんだ。
未読通知があるだけで落ち着かない。連絡が来ると、思ったより嬉しい。隣にいると、世界に色が入る。当たり前になることが、怖いんじゃなくて温かい。
全部、桃花のことだった。
その日の帰り道、桃花が言った。
「最近、ノートが三冊目に入った」
「そっか」
「三冊分、書いた」
三冊分。
「全部、同じ人のこと?」
蓮が聞いた。
桃花は少し止まった。
「……うん」
「ずっと、その人のことが好きなの?」
桃花はしばらく何も言わなかった。
「好き、って言葉にしたのは最近だけど。ずっと前から、何か溜まってたんだと思う」
何か溜まってた。
蓮はその言葉を聞きながら、自分のことみたいだと思った。言葉にしていなかったけど、ずっと何かが溜まっていた。
「その人に、言えそう?」
「分からない。でも、いつか言える気がする」
いつか言える気がする。
桃花が前を向いたまま言った。その横顔を、蓮は見ていた。
言葉より先に、たくさんのことが積み重なっていた。
一年以上かけて、静かに、確かに。
名前をつけていなかった時間が、全部ここに繋がっていた。
その夜、蓮は部屋にいた。
窓の外の街灯が、いつもみたいに点々と灯っていた。
いつか言える気がする、と桃花が言った。
俺も、いつか言える気がする。
でも「いつか」がいつなのか、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
言葉より先に積み重なっていた時間が、本物だということ。
会釈から始まって、ノートを貸して、名前を覚えて、自販機で同じコーヒーを選んで、図書館で並んで座って、夏の海で並んで立って、金木犀の匂いを同じように懐かしいと言って、イルミネーションの前で少しだけ正直になって。
全部が本物だった。
全部が、ここに繋がっていた。
やけに静かな夜だった。
でもその静けさが、今夜は温かかった。
本物だということだけが、確かだった。




