第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第三章 桃花の"特別"が形になる
特別なのは、一番かわいいからじゃない。
十二月になった。
去年の十二月、蓮は別れた夜に一人で歩いた。その帰り道のことを、今でも覚えていた。夜風が冷たくて、街灯が点々と灯っていて、どこかほっとしている自分がいた。
今年の十二月は、違う気がした。
去年より、何かが重かった。重い、というのは悪い意味じゃない。ただ、何かが確かにそこにある、という感じの重さだった。
十二月の最初の週、桃花と並んで坂道を歩いていた。
風が冷たかった。桃花はコートを着ていたけど、薄そうだった。
「寒くない?」
「大丈夫」
「そのコート薄いだろ」
「慣れてるから」
「慣れたら風邪ひかないわけじゃないだろ」
桃花が少し笑った。
「心配してるの?」
「別に」
「別に、って言う時、大体本当のことの逆だよね」
蓮は止まった。
(バレてる。)
前にも言われた気がした。でもここまではっきり言われると、どう返せばいいか分からなかった。
「…うるさい」
「図星だったんだ」
桃花がまた笑った。
その笑い方を見て、蓮は思った。
(この顔が好きだ。)
何度目か分からないくらい、思っていた。でも今日は、いつもより少しはっきりしていた。
十二月の中頃、図書館で並んで座っていた。
夕方の光が入ってきた。窓際の席が、少し温かかった。
桃花は本を読んでいた。真剣な顔だった。ページをめくる速さが、さっきより遅くなっていた。
(気に入ったところに来たんだな。)
また、どうでもいいことに気づいていた。でも気づいてしまう。
桃花の横顔に、夕方の光が当たっていた。
蓮はしばらく、その横顔を見ていた。
桃花は気づいていなかった。真剣に本を読んでいた。
(なんで、こんなに。)
蓮は自分に問いかけた。なんで、こんなに見てしまうんだろう。なんで、こんなに気になるんだろう。
答えは分かっていた。でも声に出さなかった。
桃花がページをめくった。また少し止まった。気に入ったページがあったんだろう。
その小さな動作のひとつひとつが、なんか愛おしかった。
愛おしい、なんて言葉を、蓮は自分に使ったことがなかった。でも今日、その言葉が自然に浮かんだ。
桃花が顔を上げた。
目が合った。
蓮は視線を逸らせなかった。
桃花が少し首を傾けた。
「何」
「別に」
「また別に」
「見てたわけじゃない」
「見てたじゃん」
蓮は何も言えなかった。
見ていた。見ていたから、言い訳ができなかった。
桃花は少し笑って、また本に向かった。
蓮も本に向かった。
でも頭の中は、さっきの桃花の顔で占領されていた。首を傾けて、「何」と言った顔。
(好きだ。)
また、思った。
今日は、いつもより大きかった。
十二月の終わり、年末が近くなった頃、ふたりで帰り道を歩いていた。
イルミネーションが点灯し始めていた。灯凪駅前の木々に、小さな光がたくさんついていた。
桃花がそれを見て、少し足を止めた。
「きれい」
小さな声だった。誰かに言ったわけじゃなくて、ただそう思ったから口から出た、という感じだった。
蓮はイルミネーションを見た。
きれいだった。でも蓮の目には、光よりも、それを見ている桃花の横顔の方がはっきりと映っていた。
光を反射して、桃花の目が少し輝いていた。
(これだ。)
蓮は思った。
これが、答えだ。
光を見て、きれいと言う顔。気に入ったページで止まる指。金木犀の匂いを好きだと言う声。冷たいコーヒーでお腹が痛くなること。眠くなると手に力が入ること。詩を三冊書き溜めていること。引き出しの奥にしまっていること。
全部が、好きだった。
一個一個が好きなんじゃなくて、全部ひっくるめて、桃花が好きだった。
「蓮」
桃花が言った。
「うん」
「何か言いたそうな顔してる」
また見抜かれた。
「してない」
「してる。さっきから顔が変だよ」
顔が変。蓮は少し笑った。
「変ってどう変なの」
「なんか、考えてる感じ。真剣な顔して、でも何も言わないから」
「考えてただけ」
「何を」
蓮は少し間を置いた。
「桃花のこと」
桃花が止まった。
蓮も止まった。
言ってしまった。
言うつもりはなかったけど、自然に出た。引き止める間もなかった。
イルミネーションの光の中で、ふたりが止まっていた。
「私のこと?」
「うん」
「どういうこと」
蓮はしばらく考えた。全部言うか、また誤魔化すか。
「なんか、最近よく考える」
「最近?」
「最近、じゃないかもしれない。去年の夏から、かもしれない」
桃花は何も言わなかった。
蓮は続けた。
「海で会った時から、なんか変わった気がしてた。自分でも、よく分からないまま」
「それって」
「まだちゃんと言葉にできてないけど」
蓮は少し笑った。桃花が言いそうなことを、自分が言っていた。
まだちゃんと言葉にできていない。
「でも」蓮は続けた。
「桃花のことが気になって、そればかり考えてるのは、分かってる」
沈黙があった。
イルミネーションの光が、ふたりの足元を照らしていた。
「蓮」
「うん」
「私も」
蓮は桃花を見た。桃花は前を向いていた。
「私も、まだちゃんと言葉にできてないけど。気になってる」
やけに静かな夜だった。
イルミネーションの音もなく、ふたりの声だけが、冬の空気に溶けていた。
どちらも、全部は言わなかった。
でも何かが、確かに言えた夜だった。
その夜、蓮は一人で部屋にいた。
さっきの桃花の声が、頭の中にあった。
私も、まだちゃんと言葉にできてないけど。気になってる。
(同じだったんだ。)
ずっとそうだったのかもしれない。ふたりとも、同じ場所で立ち止まっていた。踏み込んだら変わってしまうと思って、動けないでいた。
でも今夜、少しだけ動いた。
全部は言えなかった。でも、少しだけ言えた。
桃花の「特別」が、形になった夜だった。
蓮にとって桃花が特別なのは、一番かわいい子だからじゃない。一番うまくやれない子だから。一番見てしまう子だから。一番、隣にいることが当たり前になってしまった子だから。
それが、ずっと怖かった。
でも今夜は、怖さより大きいものが、確かにそこにあった。
一番逃げられない子だから、特別だった。




