第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第ニ章 蓮の視線の理由が少しずつ見える
覚えてるつもりなんて、なかったのに。
蓮は、桃花のことをよく見ていた。
本人は気づいていなかった。気づいていなかったけど、桃花に関することだけ、やけに細かく覚えていた。
コーヒーは甘い方が好きなこと。冷たい飲み物でお腹が痛くなること。ノートを取る時、少し強く書く癖があること。眠くなると、シャープペンシルを持つ手に力が入ること。
覚えてるつもりなんて、なかったのに。
全部、桃花のことだった。
八月の夏休み、図書館で並んで本を読んでいた時のことを、蓮はよく思い出した。
桃花がページをめくる音がした。少し間があいた。また音がした。
一定のリズムじゃなかった。ページによって、止まる時間が違った。
(気に入ったページで止まるんだな。)
どうでもいいことを、蓮は気づいていた。
窓から夏の光が入ってきた。桃花の横顔が、その光の中にあった。
蓮は本を読んでいるふりをしながら、その横顔を見ていた。
蛍光灯の白さとは違う、夏の自然な光の中で、桃花の横顔だけがやけに柔らかく見えた。
(きれいだな。)
思ってから、本に視線を戻した。
そういうことを、最近よく思う。思うたびに、どこかに押し込んでいた。
夕方の海に行った日のことも、よく思い出した。
並んで砂浜に立って、同じ夕焼けを見た。桃花の髪が風で揺れた。
オレンジ色の光が、海を染めていた。
普段の蓮の世界は、どこか灰色だった。賑やかな場所にいても、笑っていても、どこかに色がなかった。
でも桃花が隣にいると、色が入ってくる。
夕焼けのオレンジが、やけにはっきりしていた。波の音が、やけに近かった。
(桃花がいると、世界が違う。)
気づいていたけど、認めていなかった。認めたら、また逃げられなくなるから。
九月になって、大学が再開した。
夏休みが終わって、また同じ講義で隣に座った。
去年と同じ形だった。でも全然違った。
去年の最初は、ただの隣の席の人だった。今は、毎日のことになっていた。
隣に桃花がいることが、当たり前になっていた。
当たり前になっていることが、蓮は少し怖かった。
当たり前になったものを失う怖さを、蓮は知っていた。だから今まで、当たり前を作らないようにしてきた。
でも気づいたら、桃花が当たり前になっていた。
九月の中頃、講義の後でふたりで歩いていた時、桃花がふと言った。
「蓮って、最近変わった気がする」
「変わった?」
「前より、力が抜けてる感じ。笑い方とか」
蓮は少し驚いた。
自分では気づいていなかった。でも言われてみると、そうかもしれない、と思った。
最近、うまくやろうとすることが減っていた。誰かに合わせることに必死じゃない場面が増えていた。
それがなぜかは、なんとなく分かっていた。
「そう?」
「うん。いい意味で」
いい意味で。
桃花がそう言った時、蓮は少し嬉しくなった。
嬉しくなって、その嬉しさをどこに置けばいいか分からなかった。
十月の文化祭の準備が始まった。
クラスで集まって、役割を分担した。賑やかな会議だった。
蓮はいつもみたいに場を回した。でも今年は、去年より少し楽だった。うまくやろうとしていなかった。ただ、思ったことを言っていただけだった。
会議が終わった後、桃花が隣に来た。
「今日、いつもと違ったね」
「何が」
「なんか、楽そうだった」
蓮は少し止まった。
「楽そうに見えた?」
「うん。前は、少し頑張ってる感じがしてたから」
頑張ってる感じ。
そうだ、前は頑張っていた。うまくやることに、力を使っていた。今日はそれをしなかった。
「桃花、よく気づくな」
「隣にいるから」
また同じ言葉だった。
隣にいるから。
蓮はその言葉を聞くたびに、胸の中で何かが動いた。隣にいるから、気づく。隣にいることが、当たり前になっている証拠だ。
(怖い。)
でも今日は、その怖さが少し違った。怖いだけじゃなくて、温かかった。
十月の終わり、夜に慎吾と話した。
ふたりで外を歩きながら、他愛ない話をしていた。
慎吾がふと言った。
「お前、最近変わったな」
「そうか?」
「なんか、落ち着いた感じがする。前はいつもなんか、どこかそわそわしてたけど」
そわそわ。
「そんなに分かる?」
「俺はお前をずっと見てるから」
それは蓮が桃花に言いたい言葉と、同じだった。
ずっと見てるから、分かる。
「最近、誰かいるの?」
慎吾が聞いた。
蓮は少し考えた。
「いない」
「でもなんか、いる時みたいな顔してるよ」
いる時みたいな顔。
蓮は何も言わなかった。
慎吾は追いかけてこなかった。ただ「そっか」と言って、また歩き始めた。
その夜、蓮は一人で歩きながら考えた。
いる時みたいな顔。
いない。でも、何かある。何かが、確かにある。
その「何か」に、まだ名前をつけていなかった。
十一月になった。
紅葉が始まって、キャンパスの木々が色づいた。赤と黄色と、緑の残りと。
蓮はその景色を見ながら、桃花のことを考えていた。
桃花がいると、世界に色が入る。
赤も、黄色も、今年は特にはっきり見えた。去年より、色が多い気がした。
(桃花のせいだ。)
そう思って、少し笑った。
桃花のせいで、秋の色がはっきりしている。そんなこと、誰にも言えなかった。でも本当のことだった。
十一月の中頃、ふたりで帰り道を歩いていた。
金木犀の匂いがした。
「金木犀の匂い、好きだな」
桃花が言った。
「秋の匂いだな」
「蓮は好き?」
「好き。なんか懐かしい感じがして」
桃花が少し蓮を見た。
「懐かしい?」
「なんかそんな感じがする。昔から知ってるみたいな」
桃花は少し笑った。
「私も」
同じだった。金木犀の匂いが、懐かしい。昔から知っているみたいな感じ。
(桃花と話していると、よく同じことを感じる。)
蓮はそれに気づいていた。気づいていたけど、口にしなかった。
口にしたら、近づきすぎる気がして。
その夜、蓮は部屋で一人でいた。
窓の外の街灯が、点々と灯っていた。
桃花のことを考えていた。
視線の理由が、少しずつはっきりしてきていた。
なぜ桃花のことをよく見ているのか。なぜ細かいことを覚えているのか。なぜ隣にいると世界に色が入るのか。なぜ笑い方が変わったのか。なぜ楽になったのか。
全部、繋がっていた。
(分かってる。)
分かっていた。ずっと分かっていた。
でもまだ、認めていなかった。
認めたら、逃げられなくなる。本気になったら、また壊してしまうかもしれない。桃花との今を、失うかもしれない。
その怖さが、まだそこにあった。
でも今夜は、その怖さより少し大きいものが、胸の中にあった。
やけに静かな夜だった。
街灯の光が、窓に映っていた。桃色に見えた気がした。
桃花がいると、世界に色が入ってきた。




