第六部 気づいたときには、もう戻れなかった距離 第一章 出会いの記憶が意味を変える
去年の夏から、気になり始めた気がする。
八月になった。
夏休みの最初の週、蓮と図書館に行った。
去年と同じ約束で、去年と同じ場所に行った。でも去年と全然違うことは、行く前から分かっていた。
去年の夏休みは、課題をやる約束だった。今年は、課題があるわけでもなかった。ただ、また図書館で、という約束だった。
それだけで、全然違う。
図書館に着いたら、窓際の席が空いていた。
桃花はいつもの席に座った。蓮は隣に座った。
それぞれ本を開いた。何の本でも良かった。読みたい本というより、この場所にいるための本、という感じだった。
しばらく、何も話さなかった。
静かだった。窓から夏の光が入ってきた。遠くに海が見えた。
(去年も、こうだったな。)
桃花は思いながら、本のページを眺めた。去年の夏休み、ここで課題をやりながら、蓮に詩を書いていることを話した。読んでみたい、と言われた。でも「ダメ」と断った。
あの時の「ダメ」が、今も胸の中にある。
あの日、もし読ませていたら、どうなっていたんだろう。
一時間くらい経ったころ、蓮が言った。
「桃花」
「うん」
「去年、詩を書いてるって言ってたじゃん」
桃花は本から顔を上げた。
「言ってた」
「まだ書いてる?」
「書いてる」
「何冊になった」
「二冊、終わった。今三冊目」
蓮はしばらく黙っていた。
「読んでみたい」
「ダメ」
「まだダメ?」
「まだダメ」
蓮は少し笑った。
「いつならいい?」
桃花は少し考えた。いつならいい、か。
(言えるようになったら。)
そう思ったけど、言わなかった。
「分からない」
と答えた。
蓮は「そっか」と言って、また本に向かった。
桃花も本に向かった。
でも頭の中で、いつならいい、という問いが残った。
いつか言える気がする、と二冊目の最後に書いた。
その「いつか」が、いつなのか。まだ分からなかった。
八月の中頃、蓮と夕方の海に行った。
みんなで行ったわけじゃなかった。蓮が「海、行かない?」と言って、桃花が「行く」と答えた。それだけだった。
ふたりで電車に乗って、海沿いの駅で降りた。
砂浜に出たら、夕方の光が海を染めていた。オレンジ色の、きれいな夕焼けだった。
「きれいだな」
蓮が言った。
「うん」
ふたりで並んで、しばらく海を見た。
波の音だけが聞こえた。他に人はほとんどいなかった。風が来て、桃花の髪が揺れた。
(一年前、海で会った時のことを思い出す。)
あの時は、蓮に彼女がいた。蓮は誰かと話していて、桃花は遠くから見ていた。変な感じがして、見ないようにした。
今は、並んで同じ海を見ている。
一年で、こんなに変わった。
「桃花」
蓮が言った。
「うん」
「去年の夏、海で会ったじゃん」
桃花は驚いた。同じことを考えていた。
「覚えてるの」
「覚えてる」
「なんで」
蓮は少し間を置いた。
「なんかあの時から、桃花のことが気になり始めた気がして」
桃花は、波の音を聞きながら、その言葉を受け取った。
気になり始めた。
(あの時から。)
桃花も、あの時から、何かが変わっていた。遠くから見て、変な感じがして、その夜ノートに書いた。蓮の顔が好きだと書いた。
ふたりとも、同じ夏から変わっていたのかもしれない。
「そっか」
と桃花は答えた。
「そっか、だけ?」
「他に何て言うの」
「もう少し、何かあるんじゃないかと思って」
桃花は海を見たまま、少し考えた。
「私も、あの夏から、なんか変わった気がする」
「どう変わった」
「うまく言えない」
それは嘘じゃなかった。うまく言えなかった。言葉にしようとすると、まだどこかで怖くなった。
蓮は何も言わなかった。
波が来て、また引いた。
帰り道、電車の中でふたりで座った。
窓の外が暗くなっていた。車内は静かだった。
ふと、蓮が言った。
「桃花って、最初から変わらないな」
「最初?」
「春の隣席の時から。なんか、ブレない感じがする」
春の隣席。
その言葉を、蓮が使った。
桃花は胸の中で、その言葉を反復した。春の隣席。出会いの、最初の場所。あの会釈から、全部が始まった。
「蓮も変わってないよ」
「俺は変わったと思うけど」
「どう変わったの」
蓮は少し考えた。
「うまくやろうとするのが、減った気がする。桃花の前だけじゃなくて」
うまくやろうとするのが減った。
それは、蓮が変わったということだ。一年前の蓮は、いつも誰かに合わせていた。うまくやることが癖になっていた。
「それって、いいことなんじゃないの」
と桃花は言った。
「かもしれない」
「疲れないでしょ、前より」
「疲れない」
蓮は少し笑った。
「なんでそれ分かるの」
「前に言ってたから。うまくやろうとするの、疲れるって」
蓮はしばらく黙っていた。
「ちゃんと聞いてたんだな」
「隣にいるから」
窓の外に、灯凪町の街灯が見えてきた。帰ってきた、という感じがした。
その夜、ノートを開いた。
去年の夏から、気になり始めた気がすると言った。 私も、あの夏から変わった気がする、と言った。 ふたりとも、同じ夏から始まっていたのかもしれない。 出会いの記憶が、意味を変えた夜だった。 春の隣席、と蓮は言った。 その言葉を使ってくれたことが、なんか嬉しかった。 ふたりの始まりを、蓮も覚えていた。
書いてから、桃花はノートを持ったまま、しばらく考えた。
出会いの記憶が意味を変える。
最初の会釈は、何でもなかった。ノートを貸したのも、何でもなかった。名前を覚えたのも、何でもなかった。
でも今振り返ると、全部に意味があった。全部が、ここに繋がっていた。
何でもない出会いが、特別になっていた。
出会いの記憶が、意味を変えた夜だった。




