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桃色の夜に、きみがいた  作者: Noct


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第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第七章 言葉にしなかった約束

声にならない約束が、たくさんあった。

六月の中頃、梅雨が始まった。

灯凪町の梅雨は、しとしとと静かに降る雨だった。激しくなくて、ただじっと降り続ける。その音が桃花は嫌いじゃなかった。部屋の中にいると、世界が少し狭くなって、余計なことを考えなくていい気がした。

でも今年の梅雨は、少し違う感じがした。

雨が降るたびに、何かが近づいてくる気がした。何が、とは言えなかった。ただ、そういう感じがした。


雨の日の放課後、蓮が言った。

 「傘、持ってる?」

 「持ってる」

 「そっか」

それだけだった。でもその聞き方が、少し違った。持っていなかったら、どうするつもりだったんだろう。

桃花はそれを聞かなかった。聞けばよかった、と思いながら、傘を開いた。

蓮も傘を開いた。

並んで歩いた。それぞれの傘の下で、それぞれの雨を聞きながら。

ふと、傘と傘が少し近くなった。

どちらが近づいたのか、分からなかった。でも確かに、さっきより距離が近かった。

何も言わなかった。

雨の音だけが続いた。


六月の終わり、図書館での帰り道のことだった。

ふたりで並んで歩いていた。夕方の、人が少ない道。

蓮がふと立ち止まった。

 「なあ」

 「うん」

 「俺、来学期からゼミ入ろうと思って」

 「そっか。どこの」

 「まだ決めてないけど」

桃花は少し蓮を見た。ゼミの話を、なんでここで、という感じがした。

 「それって、私に言う必要ある話?」

 「別にないけど」

蓮は少し笑った。

 「なんか、桃花に言いたかっただけ」

桃花に言いたかっただけ。

その言葉の重さを、また処理できなかった。

大したことじゃない。ゼミに入ろうと思っているという話を、桃花に話した。それだけのことだ。でも「桃花に言いたかっただけ」という言い方が、何かを含んでいる気がした。

 「そっか」

と桃花は答えた。

 「そっか、だけ?」

 「じゃあ、頑張って」

 「それだけ?」

 「なんて言えばいいの」

蓮が少し笑った。また力の抜けた笑い方だった。

 「別にいい。言いたかっただけだから」

また同じ言葉だった。言いたかっただけ。

桃花はその言葉を、今度は少し受け取れた気がした。


七月の初め、七夕の飾りが駅前に出た。

短冊に願い事を書く、という小学生みたいなイベントが、灯凪町では毎年あった。桃花はいつも素通りしていた。でも今年は、なんとなく足が止まった。

短冊を一枚取って、ペンを借りた。

何を書こう、と少し考えた。

(言えますように。)

書こうとして、止めた。あまりにも直接的すぎる。

でも他に書きたいことが思い浮かばなかった。

結局、こう書いた。

もう少し、正直になれますように。

短冊を結んで、桃花は歩き出した。


その日の夜、ノートを開いた。

今日のことを書いた。


もう少し、正直になれますように、と書いた。 短冊に書いたのに、恥ずかしかった。 でも本当のことだから、仕方ない。 蓮に言いたかっただけ、と言われた。 私も、言いたいことがある。 まだ言えないけど、言いたいことがある。


書いてから、ノートを一度閉じた。また開いた。

もう一行、書いた。


いつか、言える気がする。


書いてから、少し驚いた。

いつか、言える気がする。

今まで、言えるかな、と書いてきた。言えるかどうか分からない、という言い方をしてきた。

でも今日は、言える気がする、と書いた。

(変わった。)

何かが、少し変わっていた。自分の中で。


七月の中頃、蓮と海に行った。

ふたりきりじゃなかった。慎吾も羽海もいて、何人かのグループだった。去年の夏にも似たようなことがあった。でも今年は、去年と違う気がした。

砂浜を歩きながら、桃花は去年の夏を思い出した。あの時は、蓮の隣に誰かいて、それを遠くから見て、変な感じがした。

今年は違った。

蓮は桃花の隣にいた。自然に、隣にいた。

波打ち際で、みんなで足を海に入れた。冷たかった。桃花が「冷たい」と言ったら、蓮が「我慢しろ」と言った。「我慢できない」と言ったら、「じゃあ出れば」と言った。「出たくない」と言ったら、蓮が少し笑った。

そういう、何でもないやり取りだった。

でも帰り道、桃花はずっとそのやり取りのことを思い出していた。

何でもないのに、温かかった。


七月の終わり、夏休みが近くなった頃、蓮が言った。

 「夏休み、どうする」

 「どうする、って」

 「暇だったら、また図書館でも」

去年の夏休みも、蓮から図書館に誘われた。あの時は、ふたりで課題をやった。それが、今に繋がっている。

 「いいよ」

と桃花は答えた。

 「去年みたいに」

 「去年みたいに」

蓮が少し笑った。

去年みたいに。

それって、同じことの繰り返しじゃない。去年と今年は、全然違う。同じ場所に、全然違う距離で座るということだ。

桃花はそれを言わなかった。言わなかったけど、思っていた。


その夜、ノートを開いた。

今日で、二冊目のノートが終わりそうだった。

最後のページに、書いた。


去年みたいに、と言った。 でも去年とは全然違う。 距離が違う。 見え方が違う。 去年の夏、私は蓮のことを気になり始めていた。 今年の夏、私は蓮のことが好きだと知っている。 言葉にしなかった約束が、たくさんある。 いつか言える気がする、と書いた。 その「いつか」が、少しずつ近くなっている気がする。


書いてから、ノートを閉じた。

二冊目が、終わった。

引き出しを開けたら、一冊目と二冊目が並んだ。同じ紺色の表紙が、ふたつ。

三冊目は、まだない。

三冊目を書く時、自分はどこにいるんだろう。

(まだ同じ場所にいるかな。それとも。)

答えは分からなかった。

でも今夜は、それで良かった。

言葉にしなかった約束が、ふたりの間にたくさんあった。どちらも言わなかった。でも確かに、そこにあった。

いつか言える気がする。

その感覚だけを持って、桃花は布団に入った。

灯凪町の夜が、静かに更けていった。

いつか言える気がする、という感覚だけを持って眠った。

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