第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第六章 親友のままでいる限界
越えるかどうかは、まだ分からなかった。でも限界は、確かにそこにあった。
四月になった。
新しい学期が始まって、キャンパスに新入生が増えた。去年の自分たちがそうだったように、少し緊張した顔で歩いている。桃花はその顔を見て、一年前を思い出した。
一年前、桃花は蓮のことを知らなかった。
それが今は、毎日のことになっていた。
新学期の講義が始まって最初の週、桃花と蓮は偶然また同じ講義を取っていた。
教室に入ったら蓮がいた。目が合って、蓮が少し笑った。桃花も笑った。
自然に隣に座った。
(また隣だ。)
去年と同じだった。でも全然違った。去年の最初は会釈しただけだった。今年は、当たり前みたいに隣に座った。
一年で、こんなに変わるんだ。
四月の中頃、蓮に新しく誰かできたという話を聞いた。
羽海からだった。
「蓮くん、また誰かと仲良くなってるらしいよ」と、さらっと言った。さらっと言ったけど、桃花の顔を少し見ていた。
「そっか」
と桃花は答えた。
笑えた。笑えたと思う。
でも家に帰ってから、なんか重かった。
また、か。という気持ちが、少しあった。蓮はすぐに誰かと仲良くなる。それは知っていた。知っていたのに、また少し、変な感じがした。
(慣れないな。)
一年経っても、慣れなかった。
その夜、ノートを開いた。
また、誰かができたらしい。 そっか、と答えた。笑えた。 でも家に帰ったら、少し重かった。 慣れると思っていた。 全然、慣れなかった。 慣れないのは、まだちゃんと好きだからだと思う。
書いてから、少し考えた。
慣れないのは、まだちゃんと好きだから。
そうだ、そういうことだ。慣れないのは弱さじゃない。ちゃんと好きだから、慣れない。それだけのことだ。
(でも、いつまで親友のままでいるんだろう。)
その問いが、初めてはっきりした形で出てきた。
いつまで。
答えは出なかった。でも問いが出てきたことが、何かの変化だった。
四月の終わり、ふたりで図書館に行った。
窓際の席に並んで座って、それぞれの課題をやった。いつもの形だった。
一時間くらい経ったころ、蓮がふと言った。
「来学期も同じ講義取る?」
「取ろうと思ってるやつはある」
「どれ」
桃花がいくつか答えたら、蓮が
「俺も取ろうかな」
と言った。
桃花は手を止めた。
「なんで」
「桃花が取るから」
さらっと言った。あまりにもさらっと言ったから、桃花はうまく反応できなかった。
「それだけの理由?」
「それだけじゃないけど、理由のひとつ」
(理由のひとつ。)
その言葉の重さを、どこに置けばいいか分からなかった。
桃花が取るから、取る。それって、どういう意味だろう。深い意味はないのかもしれない。でも深い意味があるのかもしれない。
「蓮が取りたいなら取れば」
と桃花は答えた。
「冷たいな」
「別に冷たくない。蓮が決めることだから」
「まあそうだけど」
蓮はまたノートに向かった。桃花も向かった。
でも頭の中は、さっきの言葉が占領していた。
五月の初め、蓮と帰り道が一緒になった。
ミモザ並木の道を歩いた。夕方の光が黄色い花に当たって、きれいだった。
しばらく黙って歩いていたら、蓮が言った。
「桃花」
「うん」
「聞いていい?」
「何を」
「俺のこと、どう思ってる」
また同じ質問だった。冬にも聞かれた。その時は「大事な人」と答えた。
今日は、少し違う気がした。
「大事な人だよ」と言おうとした。でも、その言葉が喉のところで止まった。
(また同じ答えを言う?)
冬に言った。大事な人。それは本当のことだった。でも全部じゃなかった。
今日もまた同じ答えを言ったら、また全部を言えないまま終わる。
(どうしよう。)
桃花は少し考えた。蓮は待っていた。急かさなかった。
「大事な人、ってのは変わらないけど」
「うん」
「それだけじゃないかもしれない」
蓮が少し止まった。
「それだけじゃない?」
「うん」
桃花は前を向いたまま答えた。蓮の顔を見られなかった。
「どういう意味」
「分からない。まだちゃんと言葉にできてないから」
本当だった。分からない、は嘘だった。でも言葉にできていない、は本当だった。
蓮はしばらく黙っていた。
「そっか」
その「そっか」が、今日はいつもと少し違った。
待っている、みたいな「そっか」だった。
その夜、ノートを開いた。
今日のことを書いた。
それだけじゃないかもしれない、と言った。 初めて、少しだけ踏み込んだ。 全部は言えなかった。 でも大事な人だけじゃない、と言えた。 蓮の「そっか」が、待っているみたいだった。 気のせいかもしれない。 でも気のせいじゃないかもしれない。
書いてから、桃花は少しの間ノートを眺めた。
今日、少しだけ前に進んだ気がした。
全部は言えなかった。でも冬より、一歩だけ前に出た。
親友という言い訳が、少しずつほころびていた。ほころびを繕うのをやめ始めていた。
このままでいたい。でもこのままでいることが、しんどくなっていた。
両方が本当だった。でも今日、少しだけ、しんどい方が重くなった。
五月の終わり、蓮が変わった。
急に、というわけじゃなかった。少しずつ、少しずつ。
でも桃花には分かった。
蓮の態度が、微妙に変わっていた。前よりも少し、桃花の方を向いている時間が増えた。話しかけてくる回数が、少し増えた。帰り道を合わせることが、少し増えた。
全部、少しずつだった。劇的な変化じゃなかった。
でも桃花には、はっきり分かった。
(変わった。)
何かが動き始めている。そういう感じがした。
自分の中でも、何かが動き始めていた。
親友のままでいる限界が、そこにあった。
越えるかどうかは、まだ分からなかった。でも限界は、確かにそこにあった。
六月の最初の週、ふたりで帰り道を歩いていた時、蓮が言った。
「桃花、最近笑い方変わった」
「え」
「前より、少し柔らかい感じがする」
桃花は自分の顔を触った。
「そんなこと、ない」
「あるよ。俺は毎日見てるから」
毎日見てるから。
その言葉を、どこに置けばいいか分からなかった。毎日見てるって、当たり前のことを言っているのか。それとも。
「蓮だって」
と桃花は言った。
「俺?」
「笑い方、変わった。前より力が抜けてる」
蓮は少し黙った。
「そうかな」
「そうだよ。カフェで向かい合って座った時、気づいた」
蓮がまた黙った。
今度は長い沈黙だった。坂道を下りながら、風が吹いた。
「桃花って、よく見てるな」
「隣にいるから」
「それだけじゃない気がする」
桃花は何も言えなかった。
それだけじゃない、と蓮に言われた。自分が蓮に言った言葉と、同じだった。
それだけじゃない。
ふたりの間で、その言葉が静かに重なった。
どちらも何も言わなかった。でも、何かが確かに変わった夜だった。
それだけじゃない、と言えた夜だった。




