第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第五章 笑い方が少しだけ変わる
力が抜けた笑い方を、初めて見た日。
三月になった。
進級前の、最後の月。講義の数が減って、キャンパスの人も少しずつ減っていく時期。空気が少しだけ軽くなる感じがする。卒業する人たちの、名残惜しさと解放感が混ざったような、不思議な季節。
桃花にとって今年の三月は、去年の三月と全然違う気がした。
去年の三月は何も考えていなかった。ただ春が来るのを待っていた。でも今年は、春が来ることが少し怖かった。進級したら、また新しい講義が始まる。そうしたら、今みたいに毎週同じ講義で隣に座れる保証がない。
(また会えるかな。)
そう思っている自分に気づいて、桃花は少し驚いた。
また会えるかな、なんて。同じ大学にいるんだから、会えなくなるわけじゃない。でも、今みたいな形で会えるかどうかは、分からない。
三月の最初の週、講義の後で珍しく蓮が言った。
「ちょっと寄ってかない?」
「どこに」
「駅前のカフェ。一回行ってみたかったんだよな」
珍しかった。蓮から誘ってくることは時々あるけれど、カフェ、というのは初めてだった。
「いいよ」
と桃花は答えた。
駅前のカフェは、小さな店だった。入ると、コーヒーの匂いがした。窓際のテーブルに向かい合って座った。
メニューを見ながら、桃花は思った。
(ふたりで向かい合って座るの、初めてかも。)
いつも並んで座っていた。講義室でも、図書館でも、ベンチでも。向かい合うのは、なんか違う感じがした。蓮の顔が、正面から見えた。
注文を終えて、コーヒーが来るのを待ちながら、他愛ない話をした。
今学期の講義の話。来学期どの講義を取るかという話。バイトの話。
その間、桃花は蓮の顔をちゃんと見ていた。向かい合っているから、見えてしまう。
蓮はよく笑っていた。でも今日の笑い方は、講義室で大人数の中で笑う時と少し違った。もう少し、力が抜けていた。もう少し、素に近い感じがした。
(笑い方が、違う。)
桃花はそう気づいた。
コーヒーが来た。
ふたりで一口ずつ飲んだ。桃花のカフェラテは少し甘かった。蓮はブラックを頼んでいた。
「苦くない?」
「好きなんだよ、ブラック」
「へえ」
「桃花は甘いの好きなんだな」
「甘い方が落ち着く」
「そういうとこ、なんか桃花っぽい」
(桃花っぽい、って何だろう。)
「どういう意味」
「甘いもので落ち着く、とか。なんか、素直だなって」
素直。
桃花は少し笑った。素直なんて言われたのは初めてだった。気が強いとか、しっかりしてるとか、そういうことは言われるけど、素直は初めてだった。
「素直じゃないよ。全然」
「そう?俺はそう思うけど」
「どこが」
「ちゃんと好きなものを好きって顔するじゃん。甘いものが来た時、少し嬉しそうにする」
(見てたんだ。)
またその感覚が来た。蓮は、細かいところを見ている。気づいていないようで、ちゃんと見ている。
「蓮の方がよっぽど素直じゃないでしょ」
「俺が?」
「いつも本音と逆のことを言う」
蓮が少し止まった。
「そんなことないだろ」
「ある。『別に』って言う時、大体別によくない時だよ」
蓮は何も言わなかった。
一瞬の沈黙があって、それから蓮が笑った。
さっきより、もう少し力の抜けた笑い方だった。
「バレてたか」
「わりと最初から」
「それ、早すぎ」
「だって分かりやすいもん」
蓮がまた笑った。今度は声が出た。声を出して笑うのは、珍しかった。
その笑い方を、桃花はじっと見た。
(これだ。)
これが、蓮の本当の顔だ。うまくやっている時の顔じゃなくて、力が抜けて、素になった時の顔。
この顔が好きだった。ずっと、この顔が好きだった。
帰り際、カフェを出て、しばらく並んで歩いた。
夕方の駅前は人が多かった。人混みの中を歩きながら、ふと蓮が言った。
「桃花と話すの、楽だな」
「また言う」
「また?」
「前にも言ってたよ。楽、って」
蓮は少し考えた。
「そんなに言ってた?」
「二回目」
「そっか」
それだけ言って、蓮は前を向いた。
楽、という言葉を二回使ったことを、蓮は意識していなかったみたいだった。無意識に出てくる言葉だったのかもしれない。
無意識の言葉が、一番正直だ。
桃花はそれを思いながら、前を向いた。
その夜、ノートを開いた。
今日、向かい合って座った。 笑い方が、いつもと少し違った。 力が抜けて、素に近い顔だった。 その顔が、好きだと思った。 楽、と言った。二回目だった。 無意識に出てくる言葉が、一番正直だと思う。 だとしたら、私も同じだ。 無意識に隣を選んでしまう。 それが、私の答えだから。
書いてから、少し考えた。
だとしたら、私も同じだ。
蓮の無意識が「楽」という言葉を二回使うなら、桃花の無意識は隣の席を選んでしまう。
どちらも、無意識に正直だった。
(同じなのかな。)
同じかどうか、分からなかった。蓮の「楽」が、桃花の「好き」と同じ意味かどうか。全然違う意味かもしれない。
でも、同じかもしれない。
その可能性が、今夜初めて、少し大きく感じられた。
三月の中頃、蓮が変わり始めていることに、桃花は気づいた。
変わった、というのは大げさかもしれない。ほんの少し、という話だ。
でも確かに変わっていた。
うまくやろうとする場面が、少し減っていた。大人数の中でも、いつもみたいに場を回すことに必死じゃない場面があった。少し、力が抜けていた。
それが、蓮のそばにいることで起きているのかどうか、桃花には分からなかった。
でも確かに、蓮の笑い方が、少しずつ変わっていた。
うまい笑い方から、素の笑い方へ。
桃花はその変化を、静かに見ていた。
三月の終わり、進級が決まった。
新しい学期が始まる前の、短い春休み。桃花は机の前に座って、引き出しのノートを取り出した。
一冊目のノートが、もうすぐ終わりそうだった。七月から書き始めて、もう一冊分の言葉が溜まっていた。
最初のページを開いた。
夏の夜の空気が好きだと言ったら、分かる気がすると返ってきた。それだけのことなのに、ずっと鳴り続けている。
あの夜から、ここまで来た。
名前をつけていなかった感情に、名前をつけた。好きだ、とはっきり書いた。無意識に隣を選んでいることに気づいた。向かい合って、本当の笑い方を見た。
色んなことがあった。
でも、まだ何も動いていなかった。
桃花は気持ちを知っている。でも蓮には伝えていない。
(言えるかな。)
いつかちゃんと言えるかな、と初めて思ったのは、去年の十二月だった。あれから三ヶ月経って、まだ言えていない。
でも、三ヶ月前より少し、言えそうな気がしていた。
蓮の笑い方が変わっていたから。
力の抜けた顔で、楽だと言ってくれたから。
新しいノートを買った。
表紙は紺色だった。最初のノートと同じ色。
一ページ目を開いて、ペンを持った。
新しいノートを開く。 同じ色を選んだのは、続きだから。 まだ終わっていない。 たぶん、始まってもいない。 でも、もう少しで何かが動く気がする。 そう思えるのは、蓮の笑い方が変わったからだと思う。
書いてから、桃花は窓の外を見た。
灯凪町の春が、始まっていた。
その顔が好きだった。ずっと、その顔が好きだった。




