第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第四章 無意識に選んでしまう隣
考える前に、体が選んでいた。
二月の中頃になった。
大学のキャンパスに、梅の花が咲き始めた。桜よりも小さくて、控えめで、気づいたら咲いていた、という感じの花。桃花はその控えめさが好きだった。主張しないのに、確かにそこにある。
今年は特に、その梅の花が目に入った。
理由は分かっていた。去年は気にならなかったものが、今年は気になる。好きな人ができると、景色の見え方が変わるのかもしれない。
(好きな人。)
その言葉を心の中で使うことに、少しずつ慣れてきた。
その日の朝、桃花はいつもより少し早く教室に着いた。
窓際の席に座って、ノートを開いた。講義が始まるまで、少し時間があった。
しばらくして、蓮が来た。
「早いな」
「たまたま」
蓮は隣の席に座った。鞄を置いて、上着を脱いで、ノートを出した。いつもの動作だった。
でも桃花は、その一連の動作を、横目で全部見ていた。
(見てる。)
気づいて、前を向いた。
見ていたのは、観察しようとしていたわけじゃない。ただ、目が行ってしまう。無意識に、蓮の動作を追ってしまう。
それが最近、増えていた。
その日の講義は、グループワークがあった。
四人組を作って、課題について話し合う。桃花と蓮は自然に同じグループになった。他の二人は、同じ講義をよく取っている顔見知りだった。
四人で丸く向き合って座った。
話し合いが始まった。みんなで意見を出し合って、ノートにまとめていく。蓮はよく話した。意見が多くて、整理が上手だった。
桃花は話しながら、蓮の言葉を聞きながら、なんとなく思った。
(この人、頭いいな。)
今さら気づいたことじゃない。ずっと知っていた。でも改めて、そう思った。
グループワークが終わった後、蓮が桃花のノートを覗いた。
「綺麗にまとめてるな」
「蓮の意見が整理しやすかった」
「俺?」
「うん。話の構造が分かりやすい」
蓮は少し驚いた顔をした。褒められるとは思っていなかった、みたいな顔だった。
「ありがとう」
「別に」
桃花は前を向いた。さらっと言えた。でも言いながら、少し心臓がうるさかった。
昼休み、学食に行った。
今日はみんなで、という日だった。羽海も、他の友達も、何人かで同じテーブルに座った。
蓮もいた。
大きなテーブルに、何人かで並んで座った。桃花は自分の席を決める時、特に考えていなかった。
ただ、気づいたら、蓮の隣を選んでいた。
(無意識だった。)
座ってから気づいた。他に空いている席もあったのに、なぜかここを選んでいた。
羽海が向かいに座って、桃花の顔を見て、少しだけ笑った。
(見られた。)
桃花は羽海から視線を逸らして、トレーを置いた。
何でもない。ただの席の選び方の話だ。でも羽海の笑い方が、全部お見通しだよ、という顔だった。
蓮は特に何も言わなかった。ただ、普通にご飯を食べていた。
桃花も普通に食べた。普通にしようとした。
でも右隣から、体温が伝わってきた。テーブルが狭くて、少しだけ肩が近かった。
(近い。)
何回この感覚を経験したら、慣れるんだろう。慣れる気がしなかった。
食事が終わって、みんなで外に出た。
昼休みの残り時間、中庭で少し話した。蓮は別の友達と話していた。桃花は羽海と話していた。
でも話しながら、蓮の声が聞こえた。何を話しているかは聞こえなかった。でも声だけが、雑踏の中から分かった。
(聞こえてる。)
たくさんの声が混ざっているのに、蓮の声だけが分かる。
それって、どういうことだろう。
答えは分かっていた。でも答えを出したくなかった。
放課後、帰り道。
いつも通り、ふたりで歩いた。
坂道を下りながら、他愛ない話をした。今日のグループワークの話。来週の課題の話。学食の新メニューが思ったより美味しかったという話。
どれも大事じゃない話だった。でも続いた。
交差点の手前で、信号が赤になった。
並んで止まって、信号を待った。
桃花はふと気づいた。
信号の前で止まる時、いつも蓮の少し後ろに立っていた。一歩、半歩くらい後ろ。蓮が先で、桃花が少し後ろ。
でも今日は、並んでいた。
(並んでる。)
いつからそうなったんだろう。気づいていなかった。気づいていなかったけど、体は知っていた。
無意識に、距離が変わっていた。
信号が青になった。
ふたりで歩き出した。
その夜、ノートを開いた。
今日あったことを、順番に書いた。
グループワークのこと。学食でいつの間にか隣の席を選んでいたこと。雑踏の中で蓮の声だけが分かったこと。信号の前でいつの間にか並ぶ距離になっていたこと。
無意識に、選んでいる。 席も、距離も、視線も。 考えてから選んでいるわけじゃない。 気づいたら、そこにいる。 それって、もう答えが出てるってことなのかもしれない。
書いてから、その最後の行を読み返した。
もう答えが出てる。
そうだ。答えは出ている。ずっと出ていた。ただ、認めていなかっただけだ。
無意識は正直だ。考える前に動く体が、一番正直に答えを知っている。
席を選ぶ時、無意識に蓮の隣を選んでいた。
信号の前で、無意識に並ぶ距離になっていた。
雑踏の中で、無意識に蓮の声を拾っていた。
全部、無意識だった。だから全部、正直だった。
ノートを閉じる前に、もう一行書いた。
好きな人の隣を、無意識に選んでいる。 それだけのことが、こんなに嬉しい。
書いてから、少し笑った。
嬉しい、か。こんなに気持ちが落ち着かないのに、嬉しいと書いた。でも本当にそうだった。
無意識に選んでしまう隣がある、ということが、嬉しかった。
怖くて、しんどくて、誰にも言えない気持ちを抱えながら、でも嬉しかった。
両方が本当だった。
桃花はノートを閉じて、引き出しにしまった。
窓の外では、灯凪町の夜が静かに広がっていた。街灯の下を、誰かが歩いていくのが見えた。
(明日も、隣に座れる。)
それだけで、今夜は眠れる気がした。
無意識は、正直だった。




