第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第三章 誰にも言えない違和感
誰にも言えなかった。でも書けた。
一月になった。
新しい年が始まって、大学の講義が再開した。冬休みの間、桃花は蓮と会わなかった。
会わなかった。それだけのことなのに、講義初日に教室で蓮を見た時、少しだけほっとした。
(いた。)
そう思った自分に、すぐ気づいた。
(何がいた、だよ。)
席に着いて、ノートを開いて、前を向いた。いつも通りにした。
冬休みの間、ノートにたくさん書いた。
蓮がいない分、書くことが増えた。矛盾しているけど、本当にそうだった。会わない日の方が、会った日より書く量が多かった。
会っている時は、その瞬間を感じるのに精一杯で、言葉にする余裕がなかった。会っていない時に、ようやく言葉が追いついてくる。
だからノートは、いつも少し遅れていた。
一月の中頃、羽海と話す機会があった。
ふたりでカフェに寄って、他愛ない話をした。授業の話、バイトの話、冬休みにどこへ行ったかという話。
話の流れで、羽海が言った。
「蓮くんって、桃花のこと好きなんじゃないかな」
桃花は、コーヒーカップを持ったまま止まった。
「え」
「なんか、桃花と話してる時の顔が違うんだよね。他の人と話してる時と」
「それは、親友だから」
「親友ね」
羽海が少し笑った。
「そうかもね」
それ以上は言わなかった。でもその笑い方が、何か知っているみたいだった。
桃花はコーヒーを一口飲んだ。
「羽海は何が言いたいの」
「別に。ただ、見てると、なんかそんな気がして」
「気のせいだよ」
「そう?」
「そう」
羽海は「そっか」と言って、別の話を始めた。
桃花はその後も普通に話したけど、頭の半分がずっとさっきの言葉にあった。
蓮くんって、桃花のこと好きなんじゃないかな。
(そんなこと、ない。)
でもその「そんなことない」が、いつもより少し弱かった。
家に帰って、ノートを開いた。
羽海に言われた。 蓮が私のことを好きなんじゃないかって。 そんなことない、と答えた。 でも否定した後、なんか変な感じが残った。 嬉しかったのか、怖かったのか、分からない。 たぶん、両方だった。
書いてから、ペンを置いた。
嬉しかったのか、怖かったのか。
嬉しかった理由は、分かる。好きな人に好きでいてもらえたら、それは嬉しい。
でも怖かった理由は何だろう。
好きでいてもらえたら、怖い。それって、どういうことだろう。
考えていたら、少し分かってきた気がした。
もし蓮が桃花のことを好きだったとして、でも蓮はすぐ別れる人だ。光希とも、莉明とも、長く続かなかった。もし付き合って、また別れたら。今の関係が、なくなってしまったら。
今みたいに隣に座れなくなったら。
毎日帰り道を一緒に歩けなくなったら。
(それが怖い。)
好きだけど、失うのが怖い。だから踏み込めない。
桃花は自分の怖さの形が、少し分かった気がした。
一月の終わり、蓮が少し様子の違う日があった。
講義の後、いつもなら「帰るか」と言うのに、その日は黙っていた。廊下を並んで歩いていても、会話がなかった。
桃花は何も言わなかった。聞こうとして、止めた。
聞いたら、踏み込みすぎる気がした。でも聞かないのも、なんか違う気がした。
坂道の途中で、蓮が立ち止まった。
「なあ」
「うん」
「桃花って、俺のことどう思ってる」
桃花は、一瞬、呼吸が止まった。
どう思ってる。
その質問の意味が、どの意味なのか、すぐには分からなかった。友達として、という意味なのか。それとも。
「どういう意味で」
「友達として、とかじゃなくて。なんか、どういう存在なのかなって」
桃花はしばらく、蓮を見た。蓮は海の方を見ていた。
(正直に言えたら、どんなに楽だろう。)
でも言えなかった。
「大事な人だよ」
そう答えた。
嘘じゃなかった。本当のことだった。でも全部じゃなかった。大事な人、は正しいけれど、それだけじゃなかった。
蓮は少し黙った。
「そっか」
それだけ言って、また歩き出した。
桃花も歩き出した。大事な人、という言葉が、頭の中で何度も響いた。本当のことを言えた。でも全部は言えなかった。
誰にも言えない違和感が、また少し重くなった。
二月の最初の週、桃花は羽海に少しだけ打ち明けた。
少しだけ、というのは本当に少しだけだった。好きかもしれない、という話ではなく、なんか最近気持ちが落ち着かない、という話として。
「どうしたの」
と羽海が聞いた。
「なんかね、誰かのことが気になってて。でも言えないし、どうしたらいいか分からなくて」
「好きな人がいるの?」
「好きかどうか、まだよく分からない」
嘘だった。もう分かっていた。でも分からないふりをした。
「言えない理由は?」
「関係が変わるのが怖い、というか。今のままでいたいというか」
羽海はしばらく考えてから言った。
「今のままでいたい、って思うのは分かるよ。でも今のままでいようとして、しんどくなってるんじゃない?」
桃花は何も言えなかった。
図星だった。
今のままでいたい。でも今のままでいることが、少しずつしんどくなっていた。毎日隣に座るたびに、毎日帰り道を歩くたびに、何かが少しずつ積み重なっていた。
「言えないなら言えないでいいと思う」
羽海が続けた。
「でも、自分の気持ちくらいは、ちゃんと知っておいた方がいいんじゃないかな」
自分の気持ちくらいは、ちゃんと知っておく。
桃花はその言葉を、胸の中にしまった。
その夜、ノートを開いた。
羽海の言葉がまだ頭にあった。自分の気持ちくらいは、ちゃんと知っておいた方がいい。
知っている。もう知っている。
でもちゃんと言葉にしたことが、なかった。ノートに、はっきりと書いたことが。
ペンを持った。
蓮のことが好きだ。 友達として、じゃなくて。 もっと先の意味で、好きだ。 ずっと分かっていたのに、ちゃんと書いたのは今日が初めてだ。 書いたら、逃げられなくなった気がする。 でも書いて、少し楽になった。
書いてから、桃花はその文字をしばらく見つめた。
蓮のことが好きだ。
活字みたいに、はっきりそこにあった。消せなかった。消したくなかった。
怖かった。でも、ここまで書いたら、もう誤魔化せなかった。
誰にも言えない違和感の正体は、ずっとこれだった。好きだという気持ちを、自分自身にも正直に言えていなかったこと。
今夜、初めてちゃんと書いた。
窓の外に、冬の灯凪町が広がっていた。街灯が点々と灯っていた。遠くに海の暗さがあった。
(好きだ。)
声に出さなかった。でも、ちゃんと思った。
それだけで、今夜は十分だった。
ちゃんと書いたのは、今日が初めてだった。




