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桃色の夜に、きみがいた  作者: Noct


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第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第ニ章 蓮が逃げる癖を持った理由

本気になる前に逃げていた。それだけのことだった。

蓮が初めて誰かを好きになったのは、中学二年の冬だった。

同じクラスの女の子で、名前は知らなかった。ただ、その子が笑うたびに教室が少し明るくなる気がした。好きだ、と気づいた時、蓮は少し驚いた。自分がこういう気持ちになるとは、思っていなかったから。

告白しようと思った。何度も思った。でも、できなかった。

できなかった理由は、うまく言えない。怖かった、というのが一番近い。振られたら、どうなるんだろう。クラスの空気が変わったら、どうしよう。今の、少し離れたところから見ている関係が、壊れたら。

結局、告白しないまま卒業した。

その子の名前を、最後まで聞けなかった。


高校に入って、蓮は変わろうとした。

もう逃げない、と思った。好きな人ができたら、ちゃんと向き合う。そう決めた。

でも高校で最初に付き合った光希は、向き合ったからできた関係じゃなかった。向こうから来てくれたから、断る理由がなかっただけだった。

光希は明るくて、よく笑う子だった。一緒にいて楽しかった。好きだったと思う。

でも三ヶ月くらい経ったころ、光希が言った。

「蓮って、何考えてるか分からない時がある」

笑いながら言ってくれた。責めていなかった。でも蓮はその言葉が頭から離れなかった。

何考えてるか分からない。

そうかもしれない、と思った。自分でも、自分が何を考えているか、よく分からなかったから。

光希と別れた時、泣けなかった。悲しくないわけじゃなかった。でも涙が出なかった。それが、怖かった。


大学に入って、莉明と付き合った。

今度は蓮から声をかけた。おしゃれで、話が上手な子だった。一緒にいると退屈しなかった。

莉明は蓮のことを「掴みどころがない」と言った。褒め言葉みたいに言ってくれたから、蓮は笑って流した。

掴みどころがない。

そうだね、と思った。自分でもそう思っていたから。

莉明と付き合っている間、蓮はずっとうまくやっていた。相手が喜ぶ言葉を知っていたし、デートの計画も立てられた。莉明は「蓮といると安心する」と言った。

嬉しかった。でも、どこかで思っていた。

これ、本当の俺じゃないかもしれない。

安心させているのは、俺が作った「ちゃんとした俺」だ。本当の俺を見て、それでも安心できる? そう聞けたら良かった。でも聞けなかった。聞いたら、何かが壊れそうだったから。

莉明と別れた夜、蓮は一人で歩いた。行く当てもなく、ただ歩いた。

悲しかった。ちゃんと悲しかった。

でもその悲しさの中に、どこかほっとしている自分がいた。

ほっとしている? なんで?

分かっていた。莉明といる間、ずっと「うまくやらなきゃ」と思っていた。傷つけちゃいけない、失望させちゃいけない、ちゃんとした彼氏でいなきゃいけない。それが、しんどかった。

しんどかった、なんて言ったら最低だ。付き合ったのは自分なのに。でも、しんどかった。


慎吾に

 「またフリーになったの?」

と聞かれたのは、別れた翌週だった。

 「うん」

と答えたら、慎吾は呆れた顔をした。

 「お前さあ、毎回なんで別れるの。うまくやれてるじゃん、いつも」

うまくやれてる。

その言葉が、どこかに刺さった。

 「なんか、疲れるんだよな」

 「疲れる? 何が」

 「ちゃんとしてようとするの」

慎吾はしばらく黙っていた。それから

 「難しいな、お前」

と言った。

 「分かってる」

 「好きな子でもできたら変わるんじゃない?」

蓮は笑った。笑って、流した。

でもその言葉が、少し残った。

好きな子。好きな子って、どういう感じなんだろう。今まで付き合ってきた子たちのことは、好きだったと思う。でもそれが「好きな子」かって聞かれると、よく分からない。

好きと、好きな子は、違うのかもしれない。


蓮が逃げる癖を持つようになったのは、たぶんここから来ていた。

本気になる前に、逃げる。

本気になったら、怖い。本気になったら、うまくやれなくなる。うまくやれなくなったら、相手を傷つけるかもしれない。傷つけたら、また泣かせてしまう。

だから本気になる前に、ちょうどいいところで止めていた。

踏み込みすぎない。本音を全部見せない。ちゃんとした自分を演じ続ける。

それが蓮のやり方だった。


桃花と出会ったのは、そういう蓮だった。

最初は、桃花も誰かと変わらなかった。同じ講義の、隣の席の子。感じが良くて、頭が良くて、友達が多い子。

いつも通りに接すれば良かった。感じよくして、気が利くふりをして、ちょうどいい距離を保てばよかった。

でも桃花は、蓮のそれを見抜いた。

 「なんか無理してる時あるよね」

笑いながらじゃなかった。真剣な顔でもなかった。ただ、さらっと。まるで当たり前のことみたいに。

蓮は一瞬、固まった。

 「してないって」

と言った。

 「そう?」

と桃花は言った。

それ以上追いかけてこなかった。責めなかった。ただ 「そう?」

と言って、別の話を始めた。

その「そう?」が、なんか刺さった。

見抜かれた。でも責められなかった。ただ、見えてた。

それが、怖いような、安心するような、変な感じだった。

今まで誰かに「無理してる」と言われたことはなかった。みんな、うまくやってる蓮しか見ていなかったから。

桃花だけが、その裏側に気づいた。しかも、大したことみたいに言わなかった。


それから少しずつ、桃花の前では「うまくやる」のをやめていった。

やめようと決めたわけじゃない。ただ、桃花の前だとうまくやれなかった。うまくやろうとすると、桃花にすぐ気づかれた。

「なんかさっきと顔違う」とか。「それ本音じゃないでしょ」とか。

全然悪意なく、ただ気づいてしまう。

最初はそれが落ち着かなかった。見透かされている気がして。でも慣れてきたら、逆に楽になってきた。

うまくやらなくていいなら、疲れない。本音を隠さなくていいなら、しんどくない。

桃花といる時間が、だんだん「帰ってくる」みたいな感じになっていった。

刺激じゃなくて、静か。楽しいじゃなくて、安心。

でもだからこそ、怖かった。

これ以上踏み込んだら、どうなるんだろう。

光希と付き合った時も、莉明と付き合った時も、蓮はどこかで逃げ道を持っていた。本気になりすぎない場所に、自分を置いていた。

でも桃花は、気づいたら逃げ道がない場所にいた。

本気になったら、戻れない気がした。本気になったら、今みたいにはいられない気がした。桃花の前でうまくやれない自分が、もっとみっともなくなる気がした。

だから蓮は、親友でいることにした。

親友なら、隣にいられる。親友なら、毎日帰り道を一緒に歩ける。親友なら、踏み込みすぎない。

やさしい嘘の練習が、ここでも続いていた。


十二月の帰り道、桃花が「うまくできない時がある」と言った時、蓮は驚いた。

あの桃花が、そんなことを言うとは思っていなかった。何でもうまくやれる桃花が。

でも正直に言ってくれた。

俺も、と蓮は答えた。

 「俺もある。うまくできない時。」

本当のことだった。桃花の前だけじゃなくて、誰の前でも。でも桃花の前が、一番うまくできなかった。

それが何を意味するのか、蓮はまだ認めていなかった。

認めたら、また逃げられなくなるから。

桃花の前だけ、その練習が機能しなかった。

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