第五部 名前をつけられないまま近づいていく時間 第一章 すれ違いが"やさしさ"で隠れる
本当のことを言わなかった。でも少しだけ、近づいた。
十二月の中頃になった。
蓮が別れた、と聞いてから二週間が経った。桃花は自分が好きだと気づいてから、毎日何かと戦っていた。
戦っている、というのは大げさかもしれない。ただ、気づく前と後で、同じように隣にいることが、少しだけ難しくなっていた。
何も変わっていないはずなのに。蓮は相変わらずいつも通りで、桃花もいつも通りにしていた。それなのに、なんか、ずれていた。
内側だけが、ずれていた。
その日の講義は午後からだった。
教室に入ると、蓮はもう席にいた。桃花を見て、小さく手を上げた。桃花も小さく手を振った。
席に座る。ノートを開く。シャープペンシルを持つ。
いつも通りだ。何も変わっていない。
でも隣に蓮がいる、ということが、今日は少しだけ大きく感じた。体温が、近い。息をするたびに、隣に人がいることが分かる。
(落ち着け。)
桃花は前を向いた。
講義が始まった。先生の声が聞こえてきた。でも頭の半分が、隣のことを気にしていた。蓮がノートを取っている。ページをめくった。少し姿勢を変えた。
全部、分かった。
(分かりすぎ。)
講義の途中、蓮がふと言った。
「これ、どういう意味か分かる?」
先生が黒板に書いた用語を指していた。桃花はノートを確認した。
「前の週の講義に出てきたやつだよ。ここ」
自分のノートを少し蓮の方に傾けた。蓮がそれを覗き込んだ。
近い。
顔が、思ったより近かった。桃花は目線をノートに固定したまま、「この定義と繋がってて」と説明した。声が少し上ずらないように、気をつけた。
「ああ、なるほど」
蓮が言った。
「ありがとう」
「別に」
蓮が元の姿勢に戻った。桃花も前を向いた。
何でもなかった。本当に何でもない、ノートを見せただけのことだ。
なのに心臓がうるさかった。
(うるさいな。)
桃花は心の中でそう言って、前を向いた。先生の声に集中しようとした。
放課後、ふたりで帰った。
いつもの道を、いつもみたいに歩いた。会話はぽつぽつ続いた。今日の講義の話、年末の予定の話、学食に新しいメニューが出たという話。
どれも大事な話じゃなかった。でも続いた。
坂道の途中で、蓮が言った。
「桃花、最近元気?」
「元気だよ。なんで」
「なんか、ちょっと遠い感じがして」
桃花は一瞬、固まった。
遠い感じ。
(気づいてる。)
「そんなことないよ」
と桃花は答えた。笑いながら。
「ただ、課題多くて、ちょっとしんどいだけ」
「そっか」
蓮はそれ以上聞かなかった。
桃花はほっとした。ほっとしながら、少し罪悪感があった。嘘をついたわけじゃないけど、本当のことも言わなかった。
課題がしんどい、は本当だ。でも遠い感じがするのは、それだけじゃない。
(ごめん。)
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
家に帰って、ノートを開いた。
遠い感じがするって、言われた。 そんなことない、と笑って答えた。 本当のことを言えばよかったのかな。でも本当のことって、何だろう。 好きだから、うまくできない。 そんなこと、言えるわけがない。
書いてから、少し考えた。
好きだから、うまくできない。
初めて、ノートの中でちゃんとその言葉を書いた。好き、という言葉を、はっきり書いた。
書いたら、少し楽になった。
でも同時に、少し怖くなった。書いたら、もっと本物になった気がした。ノートの中にあるうちは、まだ曖昧でいられた。書いて形にしたら、逃げ場がなくなった気がした。
翌日、また蓮と帰り道が一緒になった。
昨日と同じ道を歩きながら、桃花は昨日蓮に言えなかったことを考えていた。
遠い感じがするって言われた。本当のことを言えなかった。
(少しだけ、正直になれないかな。)
全部は言えない。でも何か、一つくらい。
「昨日さ」
桃花が言った。
「うん」
「遠い感じがするって言ったじゃん」
「言った」
「あれ、ちょっと当たってた」
蓮が少し足を止めた。桃花は止まらなかった。止まったら、続きが言えなくなる気がして。
「課題がしんどいのもあるけど。なんか、うまくできない時があって」
「うまくできない?」
「うん。うまく話せないとか、うまく笑えないとか。そういう時がある」
蓮は何も言わなかった。
桃花も何も言わなかった。
しばらく、並んで歩いた。
「俺もある」
蓮がぽつりと言った。
「え」
「うまくできない時。桃花の前に限らず、誰の前でも、たまに。」
(蓮も。)
桃花は少し驚いた。いつもうまくやれそうに見える蓮が、うまくできない時がある、と言った。
「そっか」
と桃花は答えた。
「そっか」
と蓮も繰り返した。
なんか、それだけで良かった。解決したわけじゃない。本当のことを言えたわけじゃない。でも、うまくできない同士、ということが分かっただけで、少し楽になった。
やさしさが、すれ違いを隠していた。
ふたりとも、本当のことは言わなかった。でも、少しだけ近づいた。
そういう、十二月の帰り道だった。
やさしさが、すれ違いを隠していた夜だった。




