第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第七章 戻れない距離に気づく前夜
気づいた瞬間には、もう戻る場所がなかった。
十二月になった。
灯凪町の冬は、海風が冷たくなることで始まる。坂道を上ると、海の方から風が来て、首のあたりをすり抜けていく。その感触が、桃花は嫌いじゃなかった。冷たいけれど、澄んでいる。何かを洗い流してくれるような風。
でも今年の冬は、その風がいつもより少し鋭く感じた。
理由は分かっていた。
十二月の最初の週、蓮が言った。
「今日、ちょっと付き合って」
放課後の廊下で、唐突に言われた。
「どこに」
「別に遠くない。少しだけ」
いつもと少し違う言い方だった。いつもの蓮は、もう少し軽かった。今日は声がどこか低くて、真剣な感じがした。
「うん」
と桃花は答えた。
キャンパスの外に出て、坂道を少し下ったところに、小さな公園がある。遊具はほとんどなくて、ベンチがいくつかあるだけの、地味な場所だ。
蓮はそこに向かっていた。
「こんなとこ、よく知ってるね」
「たまに来る」
「ひとりで?」
「うん」
桃花はそれを聞いて、少し驚いた。蓮がひとりでこういう場所に来る、というのが、意外だった。
ベンチに並んで座った。夕方の空が、オレンジから紺色に変わっていくところだった。遠くに海が見えた。
しばらく、何も言わなかった。
蓮も黙っていた。何か言おうとしているような、でも言葉を探しているような沈黙だった。
桃花は待った。急かさなかった。
「別れた」
蓮が言った。
桃花は少しの間、その言葉を受け取った。
「そっか」
「うん」
「…辛い?」
蓮は少し考えた。それから、
「辛いかどうかよく分からない」
と言った。
「分からない?」
「ちゃんと好きだったと思う。でも、なんか、ずっと疲れてた気がする。うまくやろうとして。」
桃花は蓮の横顔を見た。蓮は海の方を見ていた。
うまくやろうとして、疲れてた。
その言葉が、桃花の中にすっと入ってきた。前から気づいていたことだった。蓮がいつも誰かに合わせていること。笑い方がうまいこと。でもその裏に、何かが疲れていること。
「蓮って」
桃花が言った。
「うん」
「いつもそうなの?」
「何が」
「うまくやろうとするの」
蓮が黙った。
長い沈黙だった。波の音だけが遠くから聞こえた。風が吹いて、桃花の髪が揺れた。
「たぶん」
蓮は短く答えた。
「誰といても?」
「…誰といても」
その言葉の後に、蓮が少し桃花を見た。ちらっと、一瞬だけ。桃花はそれに気づいたけど、気づかないふりをした。
「俺、桃花の前だとなんかうまくやれないんだよな」
唐突だった。桃花は返事ができなかった。
「うまくやれない、って」
「変な意味じゃなくて。なんか、うまくやろうとするのを忘れる、っていうか」
蓮は少し言葉を探した。
「桃花と話してると、なんか楽なんだよ。余計なこと考えなくていい感じがして。」
桃花は前を向いたまま、その言葉を受け取った。
楽。余計なこと考えなくていい。
(私も、そうだ。)
蓮と話している時、桃花も同じことを感じていた。強がらなくていい感じ。うまくやらなくていい感じ。ただ、そこにいていい感じ。
それが何を意味するのか、まだうまく言えなかった。
しばらくして、蓮が立ち上がった。
「帰るか」
「うん」
並んで坂道を上った。キャンパスに戻る道。いつも歩く道。
でも今日は少し、違う気がした。
さっき蓮が言った言葉が、まだ頭の中にあった。桃花の前だとうまくやれない。楽。余計なこと考えなくていい。
(それって。)
その先を考えようとして、止めた。考えたら、何かが変わる気がした。変わったら、戻れない気がした。
今のままでいい。親友でいれば、こうやって並んで歩ける。話せる。笑える。
そう思ったのに、今日は親友という言葉が、いつもより少し窮屈だった。
家に帰って、すぐにノートを開いた。
今日のことを書かずにいられなかった。
蓮が別れたと言った。 辛いかどうか分からない、と言った。 私の前だとうまくやれない、と言った。 楽、と言った。 その言葉をどこに置けばいいか、分からない。 置けないまま、ここに書いた。
書いてから、ペンを持ったまま止まった。
置けないまま、ここに書いた。
このノートには、置けないものがたくさんある。言葉にならない感情の、全部。変な感じも、落ち着かない夜も、痛い、と書いた夜も。全部ここにある。
全部、蓮のことだった。
(全部、蓮のことだ。)
今さら気づいたわけじゃなかった。ずっと知っていた。知っていたから、名前をつけなかった。名前をつけたら、変わってしまうから。
でも今日、蓮が言った。
桃花の前だと楽、と言った。
その言葉が、ずっと鳴り続けていた。夏の夜の空気が好きだと言ったら分かる気がすると言われた日みたいに。ずっと、鳴り続けていた。
桃花はノートをめくった。
最初のページから、順番に読んでいった。
まだ名前のない関係だった頃。視線が増えていった日々。詩を書き始めた夜。言葉にできないまま残る感情。蓮の軽さの裏側が見えた秋。親友という言い訳が成立していた時間。
全部読んで、最後のページまで来た。
今日書いた言葉を、また読んだ。
蓮が別れたと言った。 辛いかどうか分からない、と言った。 私の前だとうまくやれない、と言った。 楽、と言った。
桃花はノートを閉じた。
今度は、引き出しにしまわなかった。机の上に置いたまま、窓の外を見た。
夜の灯凪町が見えた。街灯が点々と灯っていた。遠くに海の暗さがあった。
(好きなんだ。)
声に出さなかった。でも、はっきりと思った。
好きなんだ。たぶんずっと前から。ノートに書き始めた夏の夜から、もしかしたらもっと前から。名前をつけないようにしていたけど、名前はとっくに決まっていた。
認めたくなかったのは、認めたら怖かったからだ。
親友でいれば、隣にいられる。でも好きだと認めたら、親友でいることが苦しくなるかもしれない。今の距離が、保てなくなるかもしれない。
(どうすれば。)
答えは出なかった。
ただ、今日気づいた。戻れない距離に、もう来ていた。
名前をつける前から、もう戻れなくなっていた。
それがいつだったか、桃花には分からなかった。最初の会釈だったかもしれない。夏の夜の空気の話をした日だったかもしれない。図書館で詩を書いていると打ち明けた日だったかもしれない。
どこかで、戻れなくなっていた。
机の上に置いたノートが、静かにそこにあった。
書き始めた夏から、ずっとここにある。言葉にならない感情の全部が、ここにある。
桃花はノートに手を置いた。
(いつか、ちゃんと言えるかな。)
言えるかどうか、分からなかった。言えないかもしれない。親友のままでいる方が、ずっと楽かもしれない。
でも今夜、桃花は初めて、いつかちゃんと言えるかな、と思った。
戻れない距離に気づく前夜は、静かに更けていった。
灯凪町の街灯が、桃色に見えた気がした。
恋と呼ぶ前に、すべてが揃っていた。




