第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第六章 親友という言い訳が成立していた時間
その言葉が、ちょうど良い場所に置いてくれていた。
十一月になると、キャンパスに金木犀の匂いが漂った。
どこかにある木から、風に乗って届く。姿は見えないのに、匂いだけがふわっと来る。桃花はその匂いが好きだった。秋が来たと教えてくれる匂い。
でも今年の秋は、去年の秋と少し違う気がした。
何が違うか、うまく言えなかった。ただ、去年はこんなに金木犀の匂いを意識しなかった気がする。今年は、匂いを感じるたびに、なんとなく蓮のことを考えた。
(なんで蓮なんだ。)
理由は分からなかった。ただ、そうだった。
十一月の初め、蓮と帰り道が一緒になった。
最近、それが増えていた。特に約束するわけじゃない。講義が終わって廊下に出たら、なんとなく並んでいる。そのまま同じ方向に歩く。
それが当たり前になっていた。
「寒くなったな」
蓮が言った。
「うん」
「桃花、コート薄くない?」
「まだ大丈夫」
「そう言って風邪ひくやつだろ」
「ひかないし」
「どうだか」
蓮がそう言いながら、少し桃花の方に寄った。体温が近くなった気がした。
(近い。)
桃花は気づいたけど、何も言わなかった。言ったら、意識していることがバレる気がした。
(意識してる、って何の話だよ。)
また打ち消しながら、前を向いた。
その日の夜、ノートを開いた。
最近、ノートを開く頻度が上がっていた。ほぼ毎日書いている。最初は週に一回か二回だったのに、いつの間にか毎晩の習慣になっていた。
それが何を意味するか、桃花は考えないようにしていた。
帰り道、少し寄ってきた。 体温が近くなった気がして、何も言えなかった。 親友って、こんなに近くていいのかな。
書いてから、その最後の一行を見つめた。
親友って、こんなに近くていいのかな。
自分で書いておいて、自分で引っかかった。
親友。そうだ、親友だ。蓮は親友だ。名前をつけるとしたらそれが一番しっくりくる。友達より近くて、でも恋人じゃない。そういう関係。
親友なら、近くていい。親友なら、毎日帰り道が一緒でいい。親友なら、体温が近くても何でもない。
(そうだよ。)
桃花はそう言い聞かせて、ノートを閉じた。
親友という言葉が、ちょうどいい答えになっていた。他の言葉を考えなくて済む、便利な言葉。
十一月の中頃、羽海と放課後に話した。
「最近、蓮くんとよく一緒にいるよね」
羽海がさらっと言った。さらっと言ったけど、目が少し笑っていた。
「たまたま同じ方向なだけ」
「たまたまが多いね」
「そう?」
「うん。なんか、自然なんだよね。ふたりって」
桃花は
「そうかな」
と答えた。
自然、か。そうかもしれない。蓮と一緒にいることが、いつの間にか自然になっていた。違和感がなくなっていた。
「仲良いじゃん、普通に」
羽海が言った。
「親友って感じ」
親友、という言葉を羽海の口から聞いて、桃花は少し安心した。そうだ、親友だ。羽海から見てもそう見える。だから、別に変なことじゃない。
「そうかもね」
と桃花は答えた。
それが、少しだけ嘘くさかった。
十一月の終わり、蓮の彼女と会った。
大学の廊下で、蓮が誰かと話していた。桃花は少し離れたところで友達と話していた。
ふと顔を上げたら、蓮の隣に女の子がいた。
可愛い人だった。明るそうで、よく笑う人だった。蓮の隣で何か話していて、蓮も笑っていた。
桃花はそれを、一瞬だけ見た。
見てから、目を逸らした。
友達の話を聞きながら、笑いながら、相槌を打ちながら、頭の半分が別のところにあった。さっきの景色が、まだ目の裏にあった。
(関係ない。)
何度でも言い聞かせた。
関係ない。蓮に彼女がいることは知っていた。知っていたのに、今日実際に見て、何か変わった気がした。
変な感じが、少しだけ重くなった。
その夜、ノートを開いた。
しばらく、何も書けなかった。
書こうとするたびに、言葉が出てこなかった。いつもは書き始めたら止まらないのに、今日は最初の一行が出てこなかった。
(なんで。)
分かっていた。分かっていたから、書けなかった。
書いたら、認めることになる。認めたくなかった。
でも書かないと、この重さをどこにも置けなかった。
蓮の隣に、誰かがいた。 笑っていた。 それを見た瞬間、何かが少し痛かった。 痛い、という言葉を使ったのは、初めてだった。
書いてから、そのページを破ろうとした。
でも破れなかった。
痛い、という言葉を使ったのは、初めてだった。変な感じとか、落ち着かないとか、そういう言葉じゃなくて、痛い、と書いた。
(これって。)
考えたくなかった。でも考えずにいられなかった。
痛い、と感じる理由は何だろう。関係ない人の彼女を見て、なぜ痛い、と感じるんだろう。
(好きじゃないのに。)
また同じ言葉を出した。でも今回は、その言葉が空っぽだった。説得力がなかった。自分で言いながら、信じられなかった。
好きじゃない。好きじゃないはずだ。
でも痛かった。
桃花はノートを閉じた。引き出しの奥にしまった。今日は深く考えない。明日になれば、少し落ち着くかもしれない。
布団に入って、目を閉じた。
眠れるかどうか、分からなかった。
翌日、大学で蓮に会った。
「おはよう」
と蓮が言った。
「おはよう」
と桃花が返した。
いつも通りだった。蓮はいつも通りで、桃花もいつも通りにした。昨日のことは、何も言わなかった。蓮は知らないし、知る必要もない。
講義中、桃花はノートを取りながら考えた。
親友でいれば、こうやって隣にいられる。毎日帰り道を一緒に歩ける。困ったら話せる。笑い合える。
親友という言葉が、ちょうどいい場所に置いてくれる。遠すぎず、近すぎず。踏み込まなくていい、安全な場所。
(このままでいい。)
桃花はそう思った。
このままでいい。親友でいれば、何も壊れない。何も失わない。今の距離を、このまま保っていられる。
そう思った。
思ったけど、昨日書いた言葉が頭から離れなかった。
痛い、という一言が。
親友という言い訳が成立していた時間が、少しずつ、ほころび始めていた。
でもいつか、その言葉が重くなる時が来る。




