第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第五章 蓮の"軽さ"の裏側が少し見える
軽そうに見えて、一番重いものを抱えていた。
九月になった。
夏休みが終わって、大学が始まった。講義室に戻って、また隣の席に座った。
何も変わっていなかった。でも、少しだけ変わっていた。
夏休みの前と後で、ふたりの間の空気が、ほんの少しだけ違った。うまく言えない。でも確かに違った。海で会ったこと、図書館で課題をやったこと、詩を書いていると言ったこと。そういう積み重ねが、何かを少しだけ変えていた。
桃花はそれに気づいていた。
蓮も、気づいていたと思う。
でも、どちらも何も言わなかった。
九月の最初の週、講義の後で蓮が言った。
「腹減った」
「学食行けば」
「一緒に行かない?」
ふたりで、という意味だった。桃花はそれを分かっていながら、
「みんなは?」
と聞いた。
「今日は俺だけ」
「そっか」
「嫌だった?」
「そんなことない」
ふたりで学食に行った。テーブルに並んで座って、トレーを置いて、ご飯を食べた。
賑やかな学食だった。色んな声が聞こえた。でもふたりのテーブルは、少し静かだった。
「蓮って」
桃花が言った。
「うん」
「友達多いよね」
「まあ」
「なのに、なんでふたりで来たの」
蓮は少し間を置いた。
「別に、理由いる?」
「いらないけど」
「じゃあいい」
それで終わった。理由は教えてもらえなかった。でも蓮は笑っていなかった。冗談で言ったわけじゃなさそうだった。
桃花はそれ以上聞かなかった。
その日の帰り道、ひとりで歩きながら、桃花は蓮のことを考えていた。
友達が多い。どこでも自然に馴染める。誰にでも感じが良い。
なのに、たまに、何かが遠い。
笑っているのに、笑い声が届いてこない感じ。その場にいるのに、どこか別のところにいる感じ。
(気のせいかな。)
気のせいかもしれない。桃花の思い込みかもしれない。
でも一度気づいたら、目に入ってしまう。蓮が笑う時、目が笑っていない瞬間がある。ほんの一瞬だけど、確かにある。
(それって、しんどいのかな。)
しんどい、という言葉が自然に浮かんで、桃花は少し驚いた。
しんどいかどうか、なんて分からない。ただそう見えただけかもしれない。でもなんとなく、蓮が少し疲れているような気がした。いつも誰かに合わせていて、いつも感じよくしていて、そういうことが。
(余計なお世話か。)
そうだ、余計なお世話だ。蓮のことは蓮が一番分かっているし、桃花に関係ない話だ。
でも気になった。
十月の初め、文化祭の準備が始まった。
クラスで集まって、出し物を決めて、役割を分担した。賑やかな会議だった。
蓮はその場でもうまくやっていた。場を盛り上げて、誰かが困っていたら助けて、さらっと仕切った。みんなが蓮の提案に乗っていった。
桃花はそれを見ながら、思った。
(うまい。)
うまい、というのは褒め言葉だ。でもなんか、うますぎる気がした。自然すぎて、逆に自然じゃない。
会議が終わった後、廊下で蓮と並んだ。
「疲れた?」
桃花が聞いた。
「別に」
「そう」
「なんで」
「なんか、顔が疲れてたから」
蓮は少し止まった。それから歩き出した。
「してないって」
「そう?」
「してない」
桃花は蓮の横顔を見た。してない、と言っているけど、なんか違う気がした。でも追いかけなかった。
しばらく黙って並んで歩いた。
「ありがとう」
急に蓮が言った。
「え?」
「気づいてくれて」
桃花は返事ができなかった。気づいてくれて、という言葉の意味を処理するのに、少し時間がかかった。
疲れてないって言った。でもありがとうって言った。矛盾している。でもなんか、分かる気がした。
気づいてほしかったわけじゃないけど、気づいてもらえたことが、嬉しかった。そういうことかもしれない。
「別に」
と桃花は答えた。
蓮が少し笑った。その笑い方は、さっきの会議室での笑い方と違った。もう少し、力が抜けていた。
(これが、本当の顔なのかもしれない。)
そう思って、桃花は前を向いた。
十月の中頃、蓮に彼女ができた。
羽海から聞いた。
「蓮くん、付き合い始めたらしいよ」と、他愛ない話の流れで。
桃花は
「そっか」
と答えた。
それだけだった。それだけのはずだった。
でもその夜、なんとなく眠れなかった。理由はうまく言えなかった。別に蓮が誰かと付き合っても、桃花には関係ない話だ。友達の彼女事情に、一々眠れなくなってどうするんだ。
(好きじゃないし。)
いつもの言葉を出したけど、今回はなんか、響かなかった。
好きじゃない。そう言い聞かせても、胸のあたりにある変な感じが消えなかった。
変な感じ。うまく言えない。重いわけじゃない。痛いわけじゃない。ただ、なんか、変な感じがした。
桃花はノートを開いた。
友達に彼女ができた。 そっか、と答えた。 それだけのことなのに、夜になっても変な感じがする。 変な感じがすることを、なんと呼べばいいのか、まだ分からない。
書いてから、ペンを置いた。
なんと呼べばいいのか、まだ分からない。
本当に分からなかった。好きだから嫌だった、と言い切れるほど、自分の気持ちが整理できていなかった。ただ変な感じがして、その変な感じをどこにも置けなかった。
だからノートに書いた。
ここだけが、正直でいられる場所だから。
翌日、大学で蓮に会った。
いつも通りだった。蓮はいつも通りに笑って、いつも通りに話した。
桃花もいつも通りにした。
でも講義中、蓮がスマホを見てふっと笑った瞬間があった。彼女からのメッセージかもしれない、と桃花は思った。思って、前を向いた。
(関係ない。)
関係ない。本当に関係ない。
でも視線が、少しだけ前を向きにくかった。
その感覚を、桃花はうまく言葉にできなかった。言葉にしたくなかったのかもしれない。言葉にしたら、認めなきゃいけない気がして。
蓮の軽さの裏側が少し見えた秋に、桃花の胸の中にも、見たくないものが少しずつ形になり始めていた。
でも桃花はまだ、それに名前をつけなかった。
名前をつけたら、もう戻れない気がしたから。
桃花だけが、その裏側に気づいていた。




