第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第四章 言葉にできないまま残る感情
言葉にならないまま、確かに積み重なっていく。
八月になると、大学は夏休みに入った。
講義がなくなった。隣の席がなくなった。毎週当たり前にあったあの時間が、突然なくなった。
べつに寂しいとか、そういうことじゃない。夏休みなんだから当たり前だ。蓮と毎週会っていたのは、たまたま同じ講義を取っていたからで、それ以上でも以下でもない。
(そうだよ。)
桃花は自分に言い聞かせながら、夏休みの最初の一週間を過ごした。
課題をやって、友達と出かけて、家の手伝いをして。普通の夏休みだった。何も困らなかった。何も足りなかったわけじゃなかった。
でも夜になると、なんとなく引き出しを開けた。ノートを取り出して、ペンを持った。
書くことは決まっていた。
今週、会わなかった。 それだけのことなのに、なんか変な感じがする。 変な感じがすること自体が、変な感じがする。
書いてから、ペンを置いた。
なんだこれ、と思った。会わなかっただけだ。夏休みなんだから当たり前だ。それをわざわざノートに書くなんて、どうかしている。
でも書いた。書かずにいられなかった。
このノートだけが、正直でいられる場所だから。
夏休みの中頃、羽海から連絡が来た。
「海行かない? みんなで」
桃花はすぐに
「行く」
と返した。友達と海に行く夏休み、悪くない。
当日、集合場所に着いたら、知らない顔がいた。
「あ、桃花、紹介するね。蓮くん。同じサークルの」
羽海が屈託なく言った。
桃花は一瞬、固まった。
蓮は桃花を見て、少し目を細めた。
「桃花か。奇遇だな」
「…うん」
それだけしか言えなかった。なんか変な感じがした。大学で会う蓮と、海で会う蓮が、同じ人なのに違って見えた。
白いシャツを着ていた。いつもの講義棟で見る蓮じゃなくて、夏の光の中に立っている蓮だった。
(やばい。)
桃花は心の中でそう思って、すぐに別の友達の方に向き直った。
海は賑やかだった。
みんなで波に入って、砂浜を歩いて、アイスを食べた。楽しかった。本当に楽しかった。
でも何度か、蓮と目が合った。
どちらも、すぐに逸らした。
会話はほとんどしなかった。みんなと話している蓮を、桃花は少し遠くから見ていた。大学の講義室で隣に座っている蓮とは、少し違って見えた。よく笑っていた。みんなと自然に溶け込んでいた。
(この人、どこでもこうなんだ。)
誰とでも仲良くなれる人。どこでも自然でいられる人。
(なのに、なんで私の前だけ、たまに変な顔をするんだろう。)
変な顔、というのはうまく言えない。ただ、講義室で桃花と話している時の蓮は、今みたいに賑やかじゃなかった。もう少し、静かだった。
それが嫌だったわけじゃない。むしろ、その静けさの方が好きだった。
(好き、って何の話だよ。)
桃花はアイスを一口かじって、波の音を聞いた。
帰り道、偶然蓮と並んで歩いた。
みんなと帰る途中で、気づいたら隣にいた。
「楽しかった?」
蓮が聞いた。
「うん。蓮は?」
「まあまあ」
「まあまあって何」
「楽しかったけど、なんか落ち着かなかった」
(落ち着かなかった?)
桃花は蓮を見た。蓮は前を向いていた。
「なんで」
「さあ」
それだけ言って、蓮はまた黙った。
落ち着かなかった、と言った。その理由を教えてくれなかった。桃花も聞き返せなかった。
でもその「さあ」が、なんか頭に残った。理由を知っているのに言わなかった「さあ」に見えた。でも確信はない。気のせいかもしれない。
(気にしすぎ。)
また同じ言葉で打ち消した。
でも家に帰ってからも、蓮の「落ち着かなかった」という言葉が頭にあった。
その夜、ノートを開いた。
海で会った。 大学で会う蓮と、夏の光の中の蓮が、同じ人なのに違って見えた。 どちらが本当の顔なんだろう。 それとも、どちらも本当の顔なんだろうか。
書いてから、少し考えた。
どちらが本当の顔、なんて、余計なお世話だ。蓮の顔は蓮のものだし、桃花に関係ない話だ。
でも気になった。
大学で隣に座っている時の蓮の顔が、好きだった。静かで、少し油断していて、たまに本音みたいなものが漏れる顔。
あの顔が、好きだった。
(好き。)
その言葉をノートの中で使って、桃花はペンを止めた。
好き、か。
その「好き」が何を意味するのか、まだよく分からなかった。顔が好き、ということかもしれない。雰囲気が好き、ということかもしれない。
でも何かが好き、ということは確かだった。
桃花はその「好き」をそのまま置いて、ノートを閉じた。
夏休みの終わり頃、蓮からメッセージが来た。
蓮:課題終わった?
桃花はスマホを見て、少し固まった。
メッセージが来たのは初めてだった。そういえば、連絡先を交換していたのを忘れていた。いつの間に交換したんだったか。確か、課題のことで必要になって、という流れだったと思う。
桃花:まだ半分くらい
蓮:俺も
蓮:一緒にやる?
桃花は画面を見つめた。一緒にやる、かあ。
(どうしよう。)
断る理由はなかった。でも、なんか変な感じがした。夏休みに、ふたりで、というのが、なんとなく。
(何がなんとなく、なんだよ。)
桃花:いいよ。どこで?
蓮:図書館。明後日の午後
約束が決まった。スマホを置いて、桃花は天井を見た。
別に大したことじゃない。課題をやるだけだ。図書館で、ふたりで課題をやるだけのことだ。
でも約束をした次の日も、その次の日の朝も、なんとなくそのことが頭にあった。
言葉にできない何かが、少しずつ積み重なっていく感じがした。
図書館での午後は、静かだった。
窓際の席に並んで座って、それぞれの課題をやった。会話はほとんどなかった。でも、苦じゃなかった。
二時間くらい経ったころ、蓮がふと言った。
「なあ」
「うん」
「桃花って、何か書いてる?」
桃花は顔を上げた。
「書いてる?」
「なんか、そんな感じがして」
(そんな感じ、って何だろう。)
「なんで?」
「分からない。なんとなく」
桃花はしばらく蓮を見た。蓮は真剣な顔をしていた。冗談で言っているわけじゃなさそうだった。
「…書いてる」
そう答えたのは、なぜだか分からなかった。誰にも言うつもりはなかったのに。でも蓮に聞かれたら、なぜか答えてしまった。
「詩みたいなもの」
「詩」
「詩って言うほどのものじゃないけど。ただ、思ったことを書いてるだけ」
蓮はしばらく黙っていた。それから言った。
「読んでみたい」
桃花の心臓が、少し跳ねた。
「ダメ」
「なんで」
「人に見せるものじゃないから」
「そっか」
蓮はあっさり引いた。しつこく聞いてこなかった。ただ「そっか」と言って、また課題に戻った。
その「そっか」が、なんか良かった。無理に聞かなかった。残念そうにしたけど、引いてくれた。
桃花はまた課題に向かいながら、胸の中に何かが残るのを感じた。
言葉にできないまま、何かが積み重なっていく。
その何かに、まだ名前はなかった。
置けないものを、ノートだけが受け取ってくれた。




