第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第三章 桃花、詩を書き始める夜
眠れない夜に、ペンが正直になった。
七月の終わり、梅雨が明けた週だった。
夜中の空気が少しだけ軽くなって、窓を開けると遠くから海の匂いがした。灯凪町の夏は、いつもこういう匂いから始まる。潮と、夜の草と、どこかで焚かれた蚊取り線香が混ざったような、懐かしい匂い。
桃花はその夜、眠れなかった。
理由は分かっていた。でも分かっていたから、考えないようにしていた。考えないようにすればするほど、広がっていく。今日の帰り道のこと。あの、何でもない一言のこと。
その日の放課後、蓮と一緒に帰った。
特に約束したわけじゃなかった。講義が終わって、廊下に出たら蓮がいて、なんとなく同じ方向に歩いた。それだけのことだった。
坂道を下りながら、他愛ない話をした。夏休みの課題のこと、学食の新メニューのこと、どこの自販機が一番安いかということ。どれも大事な話じゃなかった。でも会話が途切れても、沈黙が苦じゃなかった。
駅が近くなったころ、蓮が言った。
「桃花って、夏好き?」
「まあまあ。暑いのは嫌いだけど、夜は好き」
「夜?」
「夏の夜の空気。なんか、特別な感じがするから」
蓮はしばらく黙っていた。桃花は少し喋りすぎたかなと思った。夏の夜の空気が特別な感じがする、なんて、なんか子供みたいなことを言ってしまった。
でも蓮は笑わなかった。
「分かる気がする」
それだけ言って、また前を向いた。
たった一言だった。でもその「分かる気がする」が、桃花の中でずっと鳴り続けた。否定しなかった。馬鹿にしなかった。ただ、分かる気がする、と言った。
駅で別れて、家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って。全部いつも通りのことをこなしながら、頭の中にはずっとあの一言があった。
夜中の十二時を過ぎたころ、桃花は机に向かった。
眠れないから何かしようと思って、課題の本を開いたけど頭に入ってこなかった。スマホを見ても、見たいものが何もなかった。音楽をかけたら、歌詞がやけに刺さって消した。
ふと、机の端に置いてあったノートが目に入った。
買ってから三ヶ月も経つのに、まだ一度も使っていないやつ。表紙は何でもない紺色で、文房具屋の棚に並んでいた時から何かを待っているみたいな顔をしていた。それがなんとなく気になって、買ってしまったんだ。
桃花はそのノートを手に取って、表紙をめくった。
真っ白なページが広がった。
ペンを持った。
何を書くつもりもなかった。でも気づいたら、書いていた。
夏の夜の空気が好きだと言ったら、 分かる気がする、と返ってきた。 それだけのことなのに、ずっと鳴り続けている。
書いてから、その三行をしばらく眺めた。
詩、というほどのものじゃない。日記でもない。ただ頭の中にあったものを、吐き出しただけだ。でも書いたら少し、楽になった気がした。
胸の中にあった何かが、言葉の形を借りてノートの上に降りてきた感じ。
もう少し、書いた。
名前をつけるとしたら、何だろうと考えた。 友達、というには少し近い気がした。 知り合い、というには少し違う気がした。 だから何も言わないで、隣に座っている。
書きながら、少し可笑しくなった。
なんだこれ。蓮のことしか書いてない。
でも誰に見せるわけでもない。ノートの中だから、正直でいい。ここだけは、強がらなくていい。ここだけは、気にしすぎと自分に言い聞かせなくていい。
それが、すごく自由だった。
結局その夜、二時間くらい書き続けた。
書いた内容はほとんど蓮のことだった。コーヒーを同じものにした日のこと。図書館で「見てたの」と言われた時のこと。今日の帰り道、「分かる気がする」と言われた時のこと。
書けば書くほど、自分が蓮のことをよく見ていたのが分かった。
見ていたつもりじゃなかったのに。ただそこにいただけのつもりだったのに。
ペンを止めて、書いたページを読み返した。
頬が、少し熱くなった。
「……やばい」
独り言が、静かな部屋に溶けた。
好きとかじゃない、って思っていた。でもこのノートを見ると、そうとも言い切れない気がしてくる。
(違う違う。ただ気になってるだけだ。気になることと好きなことは違う。)
でもそう言い聞かせながら、ノートを閉じる手が少し遅かった。
もう一度だけ、最初のページを読んだ。
夏の夜の空気が好きだと言ったら、 分かる気がする、と返ってきた。 それだけのことなのに、ずっと鳴り続けている。
(鳴り続けてる。)
そうだ、鳴り続けている。夕方からずっと、あの一言が頭の中で鳴り続けている。
それって、どういうことだろう。
桃花はノートをぱたんと閉じた。見なかったことにしようと思った。でも捨てられなかった。
机の引き出しの、一番奥にしまった。
布団に戻って、目を閉じた。
明日、蓮に会ったら、いつも通りにしよう。隣に座って、会釈して、他愛ない話をして。それだけでいい。それだけで十分だ。
そう決めたら、少し眠れる気がした。
翌朝、目が覚めた時、最初に思ったのは昨日ノートに書いたことだった。
(書かなきゃ良かったかな。)
そう思った。でもすぐに、別の声も聞こえた。
(でも、書けたじゃん。)
相反するふたつの気持ちを持て余しながら、桃花は顔を洗いに行った。
鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしていた。何も変わっていなかった。
(そうだよ。何も変わってない。)
でも引き出しの奥には、昨夜書いたノートが眠っていた。
捨てなかった。捨てられなかった。
それが何を意味するのかを、桃花はまだ知らなかった。知りたくなかったのかもしれない。でも引き出しの奥のノートは、そこにあった。確かに、そこにあった。
それがはじまりだった。
ノートが一冊埋まるまで、そう時間はかからなかった。書くたびに正直になって、書き終えるたびに引き出しにしまった。誰にも見せるつもりはなかった。
ただ、書かないと追いつかなかった。
気持ちが言葉より先に走っていくから、ノートに書いて形にしないと、どこかに消えてしまう気がした。消えてほしいような、消えてほしくないような。
そういう気持ちを、桃花はまだ、詩と呼んでいなかった。
ただのメモだと思っていた。ただの、夜中に書きなぐった言葉だと。
それが詩になったのは、もう少し後のことだった。蓮のことが、もっとはっきりした形になってから。
でも最初の一行を書いた夜から、全部が始まっていたのだと、桃花は後になって気づくことになる。
夏の夜の空気が好きだと言ったら、分かる気がすると返ってきた。
それだけのことが、ずっと鳴り続けていた。
最初の一行を書いた夜から、全部が始まっていた。




