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桃色の夜に、きみがいた  作者: Noct


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第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第ニ章 視線だけが増えていく日々

気づかないふりが、少しだけ上手くなる。

五月になると、キャンパスの空気が少し変わった。

入学したばかりの緊張が溶けて、みんな少しずつ自分の場所を見つけ始める頃。講義室の席も、なんとなく固定されてきた。あの席はあの人、この席はこの人、という暗黙の了解が生まれる。

桃花の隣も、気づいたら蓮の席になっていた。

誰が決めたわけでもない。ただ、毎週そうなっていた。


その日の講義は、いつもより退屈だった。

先生の声が単調で、窓の外から風の音が聞こえて、桃花は何度か眠くなりかけた。ノートを取りながら、目を覚まそうと少し強めに字を書いた。

 「眠そう」

隣から声がした。

桃花はちらっと蓮を見た。蓮は前を向いたまま、小声で言っていた。

 「眠くない」

 「嘘つけ。シャーペン持つ手に力入りすぎ」

(見てたのか。)

桃花は自分の手を見た。確かに、少し強く握っていた。

 「そういう蓮こそ」

 「俺は眠くない」

 「さっきあくびしてた」

蓮が少し黙った。それから、ふっと笑った。

 「見てたんだ」

 「…隣にいるんだから見える」

桃花は前を向いた。耳が少し熱い気がした。別に、なんでもない会話だ。隣に座ってるんだから、見えて当たり前の話だ。

でも蓮の「見てたんだ」という言葉が、なんとなく頭に残った。


五月の中頃、学食で蓮と一緒になった。

ふたりきりじゃなかった。同じ講義を取っている何人かで、なんとなく同じテーブルに座った。賑やかな昼休みだった。みんなよく笑って、よく話した。

桃花はその輪の中にいながら、なんとなく蓮を見ていた。

蓮はよく笑っていた。話が上手で、場を盛り上げるのが自然だった。みんなが蓮の方を向いて、笑っていた。

(この人、こういう場所が得意なんだな。)

そう思いながら見ていたら、蓮と目が合った。

桃花は反射的に視線を逸らした。

別に、じっと見ていたわけじゃない。ただ、なんとなく見ていただけだ。でも目が合った瞬間に逸らしてしまったから、なんか変な感じになった気がした。

(気にしすぎ。)

桃花は自分に言い聞かせて、隣の友達の話に戻った。


五月の終わり、講義の後でふたりになった。

他のみんなが先に帰って、桃花と蓮だけが教室に残った。桃花はノートをしまっていて、蓮は上着を探していた。

 「落とした?」

 「どっかに入れたはずなんだけど」

鞄の中をがさがさやっている蓮を、桃花はちょっとの間見ていた。

 「椅子の下」

 「え」

 「さっき落ちてた」

蓮が椅子の下を見ると、上着が落ちていた。「あ、ほんとだ」と言って拾い上げた。

 「ありがとう」

 「別に」

それだけのことだった。でも蓮が「ありがとう」と言う時、ちゃんと桃花の目を見て言った。それがなんとなく、いつまでも残った。

ありがとう、なんて毎日誰かに言われる言葉だ。でも目を見て言われると、なんか違う気がした。

(なんでだろう。)

桃花は廊下を歩きながら、その「なんでだろう」を頭の中で転がした。答えは出なかった。


六月になると、蓮の視線に気づくようになった。

気づく、というより、気になるようになった、の方が正確かもしれない。

講義中、ふと顔を上げると蓮がこちらを見ていた、ということが何度かあった。目が合うと、蓮はすぐ前を向いた。別に何でもないことだ。隣に座ってるんだから、視界に入るのは当たり前だ。

でも何度か重なると、なんとなく気になり始める。

(見てる?)

そう思って、また(気にしすぎ)と打ち消した。

打ち消してもまた気になって、また打ち消して。その繰り返しが、六月の間続いた。


ある日、講義の後でコーヒーを買った。

自販機の前で缶を選んでいたら、蓮が隣に来た。

 「何にするの」

 「コーヒー」

 「甘いやつ?」

 「微糖」

蓮はしばらく自販機を見ていた。それから桃花と同じ微糖コーヒーを買った。

 「それにするの?」

 「うん」

 「好きなの?」

 「今日から好きになった」

(何それ。)

桃花は缶を受け取りながら、その言葉の意味をうまく処理できなかった。今日から好きになった、って何だ。コーヒーの話をしてるんだよな。微糖が今日から好きになった、ってことだよな。

でも、なんかその言い方が引っかかった。

蓮はもう歩き出していた。桃花はその背中を見ながら、缶を一口飲んだ。

微糖の、少し苦いコーヒーだった。


七月の最初の週、桃花は蓮の視線に気づく自分に気づいた。

講義中、前を向きながら、なんとなく蓮の動きが分かるようになっていた。蓮がノートを取る音とか、蓮が息を吐くタイミングとか、蓮がこちらを見ているかどうかとか。

(これ、おかしくないか。)

桃花はそう思った。

隣の人のこと、そんなに細かく分かる必要はない。なんで分かるんだろう。というか、なんで気にしているんだろう。

(別に好きとかじゃないし。)

当然の結論として、そう思った。好きでもない人のことを、こんなに気にするのはおかしい。

でも、気になることと、好きなことは、違う。

(そうだ。気になってるだけだ。それだけだ。)

うまく納得できないまま、桃花は前を向いた。


七月の中頃、放課後にふたりで図書館に行った。

どちらから誘ったわけでもなかった。講義の後で「図書館行く」と蓮が言って、「私も行く」と桃花が答えた。それだけだった。

図書館は静かだった。桃花は窓際の席に座って、課題の本を開いた。蓮は向かいに座って、同じように本を開いた。

しばらく、何も話さなかった。

静かだった。でも、苦じゃなかった。

ページをめくる音。外から聞こえる風の音。誰かが咳をした音。そういう小さな音だけが、静かな空間に溶けていた。

一時間くらい経ったころ、蓮がふと顔を上げた。

 「疲れた」

 「まだ三十分も集中してないじゃん」

 「集中してた」

 「してなかった。さっきから同じページ」

蓮が止まった。

 「見てたの」

 「見えてた」

桃花は本から目を離さないまま答えた。さっき蓮に言われた言葉を、そのまま返した気がした。

蓮は少し笑ったようだった。笑い声は聞こえなかったけど、なんとなく分かった。

(また気づいてる。)

蓮のことを、こんなに細かく感じ取っている自分に気づいて、桃花は少し居心地が悪くなった。居心地が悪い、というより、落ち着かない。

落ち着かない理由は、うまく言えなかった。


その夜、桃花はベッドに寝転んで天井を見ていた。

今日のことを思い出していた。図書館での一時間。静かな空気。ページをめくる音。「見てたの」という蓮の言葉。

(なんで覚えてるんだろう。)

大したことじゃなかった。ただ図書館で課題をしただけだ。それなのに、細かいところまで覚えている。蓮がどのタイミングで顔を上げたかとか、笑った時の顔の感じとか。

(好きとかじゃないのに。)

また同じ結論を出した。

でも今回は、その結論が少し空っぽに感じた。好きじゃないから気にならない、という方程式が、なんかうまく成立していない。

好きじゃないのに、気になる。

それって、どういうことだろう。

桃花はその問いを頭の中に置いたまま、目を閉じた。答えは出なかった。答えを出すには、まだ少し早すぎる気がした。

視線だけが増えていく日々が、静かに続いていた。


でも視線だけは、嘘をつけなかった。

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