第四部 桃色になる前の、静かな違和感 第一章 まだ名前のない関係
名前をつけるには、少し早すぎた春。
出会いは、本当に何でもなかった。
大学一年の春、最初の講義で席が隣になった。それだけのことだった。桃花は窓際の席に座って、新しいノートを開いて、シャープペンシルを持って、講義が始まるのを待っていた。
隣に誰かが座ったのは、開始五分前だった。
知らない顔だった。でも、その人は席に座るなり桃花の方をちらっと見て、小さく会釈をした。
桃花も会釈を返した。
それだけだった。その日の講義中、ふたりは一度も話さなかった。
二回目に同じ講義で隣になったのは、翌週だった。
また会釈をした。また、それだけだった。
講義が終わる頃、桃花はなんとなくその人のノートを横目で見た。字が意外と丁寧だった。板書だけじゃなくて、先生の言葉もちゃんとメモしてあった。
(几帳面な人なんだな。)
そう思っただけだった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
三回目の時、その人が先に口を開いた。
「先週のノート、見せてもらえる? 一回休んだから」
「いいよ」
と桃花は答えた。
ノートを渡して、返してもらって、
「ありがとう」
って言われた。
「どういたしまして」
それが、最初の会話だった。
名前を知ったのは、その次の週だった。
「俺、蓮っていうんだけど」
唐突だった。講義の始まる前、席に座ってすぐそう言われて、桃花は少し面食らった。
「桃花」
と答えたら、蓮は
「桃花か、覚えやすい」
って言った。
覚えやすい、って何だろう。そう思ったけど、悪い気はしなかった。
それから少しずつ、話すようになった。
講義の前後に、他愛ない話をした。先生の話が長いとか、課題が多いとか、学食の何が美味しいとか。深い話じゃなかった。でも、毎週その時間があった。
桃花は蓮のことを、最初は「感じの良い人」だと思っていた。
愛想が良くて、話しやすくて、気が利く。友達も多そうで、要領も良さそうで、なんでもうまくやれそうな人。
(でも、なんか。)
うまく言えなかった。なんか、という感覚だけがあった。
蓮と話していると時々、ガラス一枚隔てた向こうにいる人みたいな感じがした。近いのに、どこか遠い。感じが良いのに、どこか触れていない。
それが気になるとか、気にならないとか、そういう話じゃなかった。ただ、なんか、という感覚だけが残った。
五回目の講義の日、蓮が言った。
「桃花って、ノートきれいだな」
「ありがとう」
と答えながら、桃花は思った。
(ノートを、見てたんだ。)
それだけのことだった。別に特別なことじゃない。隣に座ってるんだから、見えて当たり前だ。
でも、なんとなく、その言葉が少しだけ残った。
残った理由は分からなかった。気にしても仕方ないと思って、忘れた。
忘れたはずなのに、家に帰ってからもその言葉がふっと浮かんだ。
(なんで。)
桃花は首を振って、教科書を開いた。
六回目の講義が終わった後、ふたりで同じ方向に歩いた。
たまたま、だった。どちらも言い出したわけじゃなくて、ただ同じ出口に向かっていたら並んでいた。
特に会話はなかった。でも、沈黙が苦じゃなかった。
(不思議だな。)
桃花はそう思いながら、前を向いていた。
知り合ってまだ六週間も経っていない人と、沈黙を苦に感じないなんて。
この人とは、なんか、話しやすい。いや、話しやすいというより、一緒にいやすい。そういう感じがする。
名前をつけるとしたら、何だろう。
友達、というほど話したわけじゃない。知り合い、というには少し近い気がする。
(まあ、なんでもいいか。)
桃花はそう結論づけた。名前なんてなくていい。ただ、毎週隣に座る人。それだけのことだ。
その日の夜、桃花は机に向かった。
課題をやりながら、ふと今日のことを思い出した。ふたりで並んで歩いた帰り道のこと。沈黙が苦じゃなかったこと。
(なんでかな。)
理由を探したけど、見つからなかった。
ただ、なんとなく、今日が悪くなかった。それだけは確かだった。
消しゴムで字を消しながら、桃花はまた課題に戻った。今日のことはどこかに置いて、課題に集中した。
でも、消しゴムのかすを払いながら、また思い出した。
(蓮、って名前。)
なんとなく呟いてみた。声に出さずに、口の中だけで。
変な感じはしなかった。ただの名前だ。ただの、隣の席の人の名前。
桃花はノートに向かって、課題の続きを書いた。
まだ何でもない関係だった。名前をつける必要もない、ただの隣の席の人。
その距離だけが、やけに正確だった。
それでも、その距離だけが、やけに正確だった。




