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桃色の夜に、きみがいた  作者: Noct


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第三部 桃色のきみへ 第六章 変わってしまう前に

「俺は変わるかもしれない」という言葉の意味を、ずっと考えていました。この章が、その答えです。

俺は変わるかもしれない。

あの言葉を言った時、桃花には伝わらなかったと思う。 伝わらなくて、良かったとも思った。 でも伝わってほしかった、とも思った。

どっちが本当かと聞かれたら、たぶん両方だった。


蓮が初めてその怖さを感じたのは、高校生の頃だった。

きっかけは、たいしたことじゃない。 友人が言った一言だった。

 「お前って、昔と変わらないよな」

褒めてくれていたんだと思う。 でもその言葉を聞いた瞬間、蓮は妙な感覚に囚われた。

変わらない。 それは、良いことなのか。

変わらないということは、何も積み重なっていないということじゃないのか。 誰かと本気で関わって、傷ついて、変わっていく。 そういうことを、俺はしてこなかったんじゃないか。

うまくやってきた。 誰とでも仲良くして、誰も傷つけないで、誰にも深く踏み込まれないで。

それって、変わらないんじゃなくて、変われないってことじゃないのか。


その問いも、棚の上に置いた。

でも他の問いと違って、これはなかなか落ちてこなかった。 ちゃんとしまわれたまま、棚の上にあり続けた。

それが、かえって怖かった。


桃花と過ごす時間が増えてから、その問いが時々、棚から降りてくるようになった。

桃花といると、蓮は変わっていく気がした。

良い意味で、だと思う。 うまくやらなくていい。 隠さなくていい。 ただそこにいていい。

そういう時間の中で、蓮は少しずつ、自分の輪郭を取り戻していく気がした。

でもそれが、怖かった。

輪郭を取り戻すということは、今まで曖昧にしてきたものが、はっきりしてくるということだ。

好きとか、嫌いとか。 怖いとか、悲しいとか。 欲しいとか、手放したくないとか。

そういう感情が、くっきりしてくる。

くっきりした感情は、傷つく。 曖昧なままでいれば、傷つかない。

だから蓮は、ずっと曖昧なままでいようとしてきた。


でも桃花の前では、それができなかった。

桃花は、蓮の曖昧なところを見つけてしまう。 見つけて、責めるわけじゃなくて、ただ「そこにあるね」って感じで見る。

その視線が、じわじわと蓮の輪郭をくっきりさせていった。

気づいたら、桃花のことを考えていた。 気づいたら、桃花の笑い声を探していた。 気づいたら、桃花がいない場所が、少し静かすぎた。

これが、変わるということか。

蓮は思った。 思いながら、怖かった。


俺は変わるかもしれない。

桃缶を食べさせた後、そう言ったのは、半分は本音だった。

変わるかもしれない。 というより、もう変わり始めていた。

桃花の前では隠せないから、少しずつ、本当の自分が出てきていた。

それが怖くて、でも止められなくて。

 「俺は変わるかもしれないけど」

と言いながら、本当に言いたかったのは別のことだった。

変わってしまったら、桃花はどうする?

変わった俺を、それでも見ていてくれるか?

変わった俺が、もし桃花を傷つけてしまったら?

本気になった俺が、今の俺より、ずっとみっともなかったら?

そういう言葉が、全部「俺は変わるかもしれないけど」という一言に、押し込まれていた。


桃花は

 「分かったよ。約束する」

と言った。

蓮は、驚いた。

いつもなら笑って流すと思っていた。 でも桃花は、真っ直ぐ受け取った。

その瞬間、何かが崩れた。

ずっと積み上げてきた、うまくやるための壁みたいなものが。 ずっと守ってきた、曖昧なままでいるための距離みたいなものが。

崩れた。

だから抱きしめた。 止められなかった。


彼女に別れを告げた夜、蓮はまた一人で歩いた。

莉明と別れた夜と、似ていた。 でも違った。

あの夜は、ほっとしていた。 この夜は、ほっとしていなかった。

ただ、歩かずにいられなかった。

桃花に、

 「彼女がいるんだから、彼女に悪いもんね」

と言われた。 その言葉は正しかった。 正しかったから、刺さった。

でも同時に、蓮は思っていた。

桃花が、俺のことを諭している。 桃花が、俺に彼女を大事にしろと言っている。

それはどういうことだ。

桃花は、自分を後回しにしている。 俺のことが好きなのに、俺の彼女を気遣っている。

それが、桃花らしかった。 気が強くて、でも誰かを傷つけることを嫌う。 ロマンチストで、筋を通す。

そういう桃花だから、好きになったんだと思った。

好きになった。 ちゃんと、思った。


変わることが怖かった。

本気になったら、戻れない。 本気になったら、崩れる。 本気になったら、みっともない自分が出てくる。

でも歩きながら、蓮は気づいた。

もう変わっていた。

桃花のいない夜が、静かすぎた。 桃花の声が、頭から離れなかった。 桃花が泣いた顔を、まだ覚えていた。 桃花が

 「うん」

と頷いた顔を、まだ覚えていた。

全部、覚えていた。

覚えてしまっている時点で、もう変わっていた。


怖かった。 今も、怖い。

本気の自分が、桃花を傷つけるかもしれない。 本気の自分が、桃花の期待に応えられないかもしれない。 本気の自分が、今まで桃花の前で見せてきた自分より、ずっとみっともないかもしれない。

でも。

変わってしまう前に、とか。 戻れなくなる前に、とか。

そういうことを考えるのを、やめようと思った。

もう変わってしまっている。 もう戻れなくなっている。

ならば。


慎吾に電話した。

 「どうした、こんな夜中に」

 「好きな子ができた」

 「……は? 急に何?」

 「いや、ずっと前からだけど。今日、気づいた」

慎吾はしばらく黙っていた。 それから、笑い声が聞こえた。

 「お前それ、桃花じゃないの」

蓮は、答えなかった。

 「そうだと思ってた」

と慎吾は言った。

 「お前、桃花の話する時だけ、なんか違うから」

 「違う?」

 「なんか、静かになる」

蓮は、電話を持ったまま、夜空を見上げた。

静かになる。 慎吾には、見えていたのか。

 「ちゃんとしろよ」

と慎吾は言った。

 「桃花、ずっと待ってると思うから」

 「……うん」

短く答えた。 それだけで十分だった。


変わることが怖かった。

でも変わった先に、桃花がいるなら。

変わってしまった俺を、桃花が見ていてくれるなら。

怖くても、進める気がした。

やけに静かな夜だった。 でもその静けさが、今夜は怖くなかった。

桃花の「約束する」という言葉が、まだ胸の中にあった。

変わってしまう前に、じゃない。 変わってしまったから、進む。

蓮は歩き続けた。 桃花の元へ向かうための、最初の一歩を踏み出すために。


変わることが怖かった。でも変わった先に、桃花がいた。怖かった夜が、全部ここに繋がっていた。読んでくれてありがとうございます。

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