第三部 桃色のきみへ 第五章 読めなかった言葉
三冊のノートを、蓮は一人で読んだ。桃花が引き出しの奥にしまっていた言葉たちと、蓮が静かに向き合う夜。
ノートを渡されたのは、何でもない午後だった。
「これ、詩を書き溜めたの。読んで感想教えて」
桃花はそう言って、3冊の大学ノートを差し出した。 声が、ほんの少しだけ震えていた。
蓮は気づいた。 気づいたけど、気づかないふりをした。
「詩?」
「うん。読んでみて」
それだけ言って、桃花はもう別の話を始めた。 いつもそうだ。大事なことを言った後、桃花はすぐ話題を変える。
蓮はノートを受け取りながら、桃花の横顔を見た。 耳が、少し赤かった。
その日の夜、蓮は部屋でノートを開いた。
最初の一ページを読んで、手が止まった。
夕焼けを背にして立っていたから、顔が見えなかった。 でも声は聞こえた。 それで十分だったのか、足りなかったのか、わからない。
これは。
蓮はしばらく、その三行を見つめた。
夕焼けを背にして立っていた日のことを、蓮は覚えていた。大学一年の春、駅の改札の前で「明日、暇?」と聞いた日のことを。
あの日の自分は、桃花に何かを伝えたかったのだと思う。でも何を伝えたかったのか、自分でもよく分からなくて、「別に」と笑って誤魔化した。
桃花は、あの日のことを書いていた。
ページをめくった。
また、蓮のことだった。
次も、蓮のことだった。
その次も。
一冊目を読み終えた時、蓮は静かに息を吐いた。
全部、蓮のことだった。 詩、というより、桃花の心の中を覗いているみたいだった。
感じたこと。気づいたこと。言えなかったこと。 それが、丁寧な言葉で並んでいた。
責めるような言葉は、一行もなかった。 怒っている言葉も、なかった。
ただ、見ていた。 ただ、感じていた。 ただ、好きだった。
二冊目を開いた。
蓮が笑った。 いつもの笑い方だった。 でもその笑い方が、本当の顔じゃないと思った。 責めたいわけじゃない。 ただ、本当の顔も、見てみたいと思った。
蓮は、ページから目を離した。
窓の外は、暗かった。 部屋の中も、静かだった。
本当の顔も、見てみたい。
その言葉が、じわじわと広がっていった。
今まで誰かに、そんなことを言われたことはなかった。 みんな、蓮の笑顔を見て、それで満足していた。 それで十分だと思っていた。
桃花だけが、その向こうを見ようとしていた。
最近、蓮に恋人ができた。 知った時、何も感じないふりをした。 うまくできたと思う。 でも夜になったら、ノートを開いていた。 うまくできていなかったみたいだ。
蓮は、その一節を三回読んだ。
知った時、何も感じないふりをした。
あの頃、桃花はいつも通りだった。 明るくて、笑っていて、何も変わらないように見えた。
でも夜に、ノートを開いていた。
蓮は、机に肘をついて、頭を抱えた。
気づいていたのに。 薄々、分かっていたのに。 見ないふりをしていた。
踏み込んだら、戻れないから。 本気になったら、壊れるから。
そうやって、距離を保っていた。 でもその間、桃花はずっとここに書き続けていた。
ねえ、蓮。 私のことを、どう思ってるの。 聞けないから、ここに書く。 聞けないまま、ここに書き続ける。
蓮は、ノートを閉じた。
閉じてから、また開いた。
また閉じることができなかった。
部屋がやけに静かだった。 時計の音だけが、一定のリズムで鳴っていた。
ねえ、蓮。 私のことを、どう思ってるの。
答えは、とっくに出ていた。 出ていたのに、認めていなかった。
三冊目を開いたのは、夜中を過ぎたころだった。
三冊目は、少し違った。
言葉が、鋭くなっていた。 一冊目や二冊目よりも、感情が近かった。
好きだと思う。 たぶん、ずっと前から。 でも言えない。 言ったら、今のふたりじゃなくなる気がして。 親友として側にいる方が、告白して失うよりいい。 そう思ってた。 でも最近、それが強がりだって分かってきた。 側にいたいんじゃなくて、逃げてるだけだって。
蓮は、その言葉を読みながら、自分のことを読んでいる気がした。
側にいたいんじゃなくて、逃げてるだけ。
それは、蓮も同じだった。
桃花の隣に親友としていることが、蓮にとっても逃げ場だった。踏み込まなければ、傷つかない。本気にならなければ、壊れない。
ふたりして、同じ場所で立ち止まっていた。
ねえ。 私が詩じゃなくて、ちゃんとした言葉で伝えたら、蓮はどうするの。 笑って流す? それとも、ちゃんと聞いてくれる? 怖くて、聞けない。 だからここに書く。 ここだけが、私が正直でいられる場所だから。
蓮は、ノートを閉じた。
今度は、ちゃんと閉じた。
三冊、全部読んだ。 全部、桃花だった。 全部、蓮のことだった。
窓の外が、少しだけ明るくなっていた。
読み始めてから、何時間経ったんだろう。 時計を見る気にもなれなかった。
蓮は三冊のノートを、机の上に並べた。
紺色の表紙が三つ、並んでいた。 桃花が二年かけて書き続けたもの。 引き出しの奥にしまっていたもの。 誰にも見せるつもりがなかったもの。
それを、桃花は蓮に渡した。
「これ、詩を書き溜めたの。読んで感想教えて」
声が震えていた。 耳が赤かった。
渡す時、どんな気持ちだったんだろう。
怖かったと思う。 勇気が要ったと思う。 それでも渡した。
言葉にできない分を、三冊に詰めて、渡した。
翌日、蓮はノートを返した。
「どうだった?」
と桃花が聞いた。 いつも通りの顔をしようとしていた。 でも、少しだけ強張っていた。
「詩って言うより、物語みたいに感じた」
蓮はそう答えた。
本当のことを言おうとしたら、それしか出てこなかった。 全部読んだとは言えなかった。 分かった、とも言えなかった。
「俺のこと好きなんだろう?」
気づいたら、言っていた。
桃花は、どきりとした顔をした。 それからいつもの顔に戻って、
「またそういうことを言って…」
と呟いた。
蓮はノートを桃花に返しながら、思った。
今じゃない。 まだ、今じゃない。
でも、いつかちゃんと言う。 桃花が正直に言えた分、俺も正直に言う。
三冊のノートが、そう決めさせた。
読めなかった言葉は、一行もなかった。 全部、ちゃんと読めていた。 全部、ちゃんと届いていた。
読めなかった言葉は、一行もなかった。全部ちゃんと読めていた。全部、ちゃんと届いていた。それでもまだ、蓮は動けなかった。




