第三部 桃色のきみへ 第一章 きみが詩を書く前の夜
好きって気持ちは、言葉にならないまま、どこかに溜まっていく。桃花の場合は、ノートだった。第三部は、同じ夜の裏側へ潜っていきます。
最初の一行を書いたのは、夜中の二時だった。
机の上に広げたノートは、買ってから三ヶ月も経つのにまだ一度も使っていなかった。表紙は何でもない紺色で、文房具屋の棚に並んでいた時から何かを待っているみたいな顔をしていた。桃花はそれが少し気になって、なんとなく買ってしまったのだ。
別に書くことがあったわけじゃない。
ただ、その夜は眠れなかった。
理由は分かっていた。
分かっていたから、考えないようにしていた。
でも考えないようにすればするほど、頭の中に広がっていく。春の終わりの、あの夕方のこと。
その日、桃花は蓮に会った。
特別なことじゃない。いつものことだ。大学の帰り道、自動販売機の前でばったり鉢合わせて、なんとなく同じ方向に歩いた。蓮は何かのペットボトルを片手に持って、桃花の半歩後ろをついてきた。会話はほとんどなかった。でも、沈黙が苦じゃなかった。
それがいつもの、ふたりの感じだった。
「明日、暇?」
蓮がそう言ったのは、駅の改札の前だった。振り返ると、夕焼けを背にして蓮が立っていた。逆光で顔がよく見えなかったけれど、声はいつもより少しだけ低かった気がした。
「暇だけど」
と桃花は答えた。
「なに?」
「んー、別に」
そう言って蓮は笑った。
その笑い方を、桃花はうまく解読できなかった。
改札を抜けてホームに向かう階段を下りながら、桃花はずっとその笑顔のことを考えていた。別に、って言った。でも誘ってきたのは蓮の方だ。矛盾してる。でも蓮はいつもそういう人だから、深く考えても仕方ない。
そう結論づけようとして、できなかった。
電車の窓に映る自分の顔を見て、桃花は少し驚いた。
頬が、赤かった。
家に帰ってお風呂に入って、ご飯を食べて、歯を磨いて。
全部いつも通りのことをこなしながら、頭の中はずっと蓮のことだった。
べつに好きとかじゃない、と桃花は思った。
べつに好きとかじゃないけど、でも、なんかちょっと。
そこから先の言葉を、桃花は持っていなかった。
言葉を持っていないのに、気持ちだけが先に走っていく。それが苦しくて、桃花はベッドに倒れ込んだ。天井を見つめた。天井には何もなかった。白くて、平らで、何も教えてくれない。
蓮は今、何してるんだろう。
そう思ってすぐ、桃花は自分の頭を両手でぐっと押さえた。
だめだ。考えすぎ。蓮はただの親友だし、明日のこともきっと「別に」なんだし、あの夕焼けの逆光がなんか綺麗だっただけで、蓮がどうのこうのとか全然関係ない。
……全然、関係ない。
そう言い聞かせながら、眠れなかった。
夜中の一時を過ぎたころ、桃花は机に向かった。
眠れないならせめて何かしようと思って、教科書を開いたけれど何も頭に入らなかった。スマホを見たけれど、特に見たいものもなかった。音楽をかけたけれど、歌詞がやけに刺さって消した。
ふと、机の端に置いてあったノートが目に入った。 あの紺色のノート。三ヶ月間、何かを待っていたやつ。
桃花はそれを手に取って、表紙をめくった。
真っ白なページが広がった。
ペンを持った。
何を書くつもりもなかった。
でも、気づいたら書いていた。
夕焼けを背にして立っていたから、顔が見えなかった。 でも声は聞こえた。 それで十分だったのか、それとも足りなかったのか、わからない。
書いてから、桃花は少しの間、その三行を眺めた。
詩、というほどのものじゃない。日記でもない。ただ頭の中にあったものを、吐き出しただけだ。でも、書いたら少し、楽になった気がした。
胸の中にあった何かが、言葉の形を借りて、ノートの上に降りてきた。
そういう感じ。
桃花はもう少し、書いた。
明日、暇?
と聞かれた。 暇だと答えた。 でも本当は、暇じゃなくても行っていたと思う。 そういうことを、正直に言える気がしない。
書きながら、少しおかしくなった。
なんだこれ。告白みたいじゃん。
でも誰に見せるわけでもない。ノートの中だから、正直でいい。ここだけは、強がらなくていい。
それが、なんだかすごく自由だった。
結局その夜、桃花は二時間くらい書き続けた。
書いた内容はほとんど蓮のことだった。今日の夕焼けのこと。蓮の声のこと。なんで逆光の中に立ってたんだとか、なんで「別に」って言ってから笑うんだとか、そういう細かいことが次々と出てきた。
書けば書くほど、自分が蓮のことをよく見ていたのがわかった。
見ていたつもりじゃなかったのに。
ただそこにいただけのつもりだったのに。
ペンを止めて、桃花は書いたページを読み返した。 頬が、また熱くなった。
「……やばい」
独り言が、静かな部屋に溶けた。
べつに好きとかじゃない、って思っていた。
思っていたけれど、このノートを見ると、そうとも言い切れない気がしてくる。
桃花はノートをぱたんと閉じた。
見なかったことにしようと思った。
でも捨てられなかった。
机の引き出しの一番奥にしまって、布団に戻った。 目を閉じた。
次の日、蓮に会ったら、いつも通りにしよう。
親友として、笑って、軽口を叩いて。
そうやって、うまくやっていけばいい。
そう決めて、桃花はようやく眠れた。
それが最初の一ページだった。
ノートが一冊埋まるまで、そう時間はかからなかった。
二冊目も、三冊目も。
桃花は書くたびに正直になって、書き終えるたびに引き出しにしまった。
誰にも見せるつもりはなかった。
見せるつもりは、なかったのに。
春が終わって夏が来て、また秋になるころには、引き出しの中に三冊のノートが並んでいた。
桃花はある時、そのノートを取り出して、ぼんやりと眺めた。
全部、蓮のことだった。
二年分の、蓮のことだった。
見せたい、と思った。
この気持ちの全部を、ちゃんと言葉にしたものを、蓮に読んでほしいと思った。
でも見せたら、何かが変わってしまうかもしれない。
だから桃花は、ずっと迷っていた。
三冊のノートを抱えたまま、桃花は迷い続けた。
そしてある日、勇気というより衝動みたいなもので、ノートを差し出してしまった。
「これ、詩を書き溜めたの。読んで感想教えて」
声が少し震えたのを、蓮は気づいていないと思った。
気づかないでほしかった。
でも少しだけ、気づいてほしかった。
桃花はそういう矛盾を、いつも持て余していた。
最初の一行を書いた夜から、全部が始まっていた。引き出しの奥にしまったのに、捨てられなかった。それが答えだったのかもしれない。




