第三部 桃色のきみへ 第三章 春の隣席
出会いは特別じゃなかった。会釈して、ノートを貸して、名前を覚えた。それだけだったのに、気づいたらここまで来ていた。
出会いは、特別じゃなかった。
大学一年の春、最初の講義で席が隣になった。ただそれだけのことだった。桃花は窓際の席に座って、ノートを開いて、シャープペンシルを持って、講義が始まるのを待っていた。
隣に誰かが座ったのは、開始五分前だった。
見知らぬ顔だった。当たり前だ、入学したばかりなんだから。でもその人は席に座るなり、桃花の方をちらっと見て、小さく会釈をした。
桃花も会釈を返した。
それだけだった。 その日の講義中、ふたりは一度も話さなかった。
二回目に同じ講義で隣になったのは、翌週だった。
また会釈をした。 また、それだけだった。
三回目の時、桃花はなんとなくその人の横顔を見た。ノートを取る手が早かった。板書だけじゃなくて、先生の言葉もメモしてた。字が意外と丁寧だった。
四回目の時、その人が先に口を開いた。
「先週のノート、見せてもらえる? 一回休んだから」
「いいよ」
と桃花は答えた。
ノートを渡して、返してもらって、
「ありがとう」
って言われた。
「どういたしまして」
それが、最初の会話だった。
名前を知ったのは、その次の週だった。
「俺、蓮っていうんだけど」
唐突だった。講義の始まる前、席に座ってすぐそう言われて、桃花は少し面食らった。
「桃花」
と答えたら、蓮は
「桃花か、覚えやすい」
って言った。
覚えやすい、って何だよ。 そう思ったけど、悪い気はしなかった。
それから少しずつ、話すようになった。
講義の前後に、他愛ない話をした。先生の話が長いとか、課題が多いとか、学食の何が美味しいとか。深い話じゃなかった。でも、毎週その時間があった。
桃花は蓮のことを、最初は「感じの良い人」だと思っていた。
愛想が良くて、話しやすくて、気が利く。 友達も多そうで、要領も良さそうで、なんでもうまくやれそうな人。
眩しいくらい、ちゃんとしてた。
でも、ある時気づいた。
蓮って、みんなに同じ顔をしてる。
誰にでも感じが良くて、誰にでも話しやすくて、誰にでも気が利く。 それは本当のことだと思う。でも、なんていうか。
全部が、少しだけ遠い。
桃花にはうまく言えなかったけど、蓮と話していると時々、ガラス一枚隔てた向こうにいる人みたいな感じがした。
ある日、講義の後で食堂に行った。ふたりじゃなくて、同じ講義を取ってた何人かで。
賑やかなテーブルだった。みんなよく笑って、よく話した。蓮も笑って、話して、場を盛り上げてた。
桃花はその輪の中にいながら、なんとなく蓮を見ていた。
楽しそうだった。 本当に楽しそうだった。
でも、ふとした瞬間に、蓮の目が遠くなる時があった。誰かが話していて、みんながそっちを向いている、その一瞬。誰も見ていない隙間に、蓮の顔から何かが抜けた。
すぐ戻った。 また笑顔になった。
でも桃花は、その一瞬を見てしまった。
帰り道、ふたりになった時に、桃花は言った。
「蓮って、なんか無理してる時あるよね」
言ってから、余計なことを言ったかなと思った。
蓮は一瞬、固まった。 それから
「してないって」
と言った。
「そう?」
桃花はそれ以上追いかけなかった。 責めたかったわけじゃなかった。ただ、見えてしまったから、言ってしまっただけで。
蓮は何も言わなかった。 しばらく無言で歩いた。
その沈黙が、気まずくなかった。 それが、少し不思議だった。
それから何かが、少しだけ変わった。
蓮が、たまに本音みたいなものを言うようになった。
「今日しんどいわ」
とか。
「あの授業意味分かんない」
とか。
「なんか眠れなくてさ」
とか。
大したことじゃない。 でも、前の蓮は言わなかったことだった。
桃花はその言葉を、深く掘り下げなかった。
「そうなんだ」
とか
「大変だったね」
とか、それくらいで返した。
追いかけたら、また遠くなる気がしたから。
ただ、聞こえてるよ、って伝えたかった。
親友、と呼べるようになったのがいつからか、桃花には分からない。
気づいたらそうなってた。 特別な出来事があったわけじゃない。 ただ、一緒にいる時間が積み重なって、気づいたらふたりの間に何かができていた。
名前をつけるなら、親友、だった。
でも桃花は、その言葉をどこかでずっと持て余していた。
親友。 そう呼ぶのが、一番正しい気がした。 でも一番正しい言葉が、一番しっくりこなかった。
蓮には、よく恋人ができた。
付き合って、別れて、また誰かと付き合って。 そのたびに桃花は「またか」と思いながら、平静を装った。
別に良いじゃん、って思おうとした。 恋人がいるのは当たり前のことだし、蓮がモテるのも知ってたし、自分には関係ない話だし。
でも関係ない、って思えば思うほど、関係あった。
蓮が誰かの話をする時、桃花はいつもより少しだけ相槌が遅くなった。それに気づいて、気づかないふりをして、また相槌を打った。
気の強い桃花が、こういう時だけ、妙にうまく立ち回れなかった。
ある日、蓮が言った。
「桃花って、彼氏とかいないの?」
「いないよ」
と桃花は答えた。
「なんで?」
「なんか、いそうなのにな」
「いないもん」
「もったいない」
その一言が、じわっと胸に広がった。 もったいない、って何だよ。 そういうこと、さらっと言わないでほしい。
でも蓮はもう別の話を始めてた。
桃花はその「もったいない」を、どこにも置けないまま持ち帰った。
その夜、ノートを開いた。 書いた。
全部、蓮のことだった。
春の隣席から始まって、気づいたらここまで来てた。
出会いは特別じゃなかった。 会釈して、ノートを貸して、名前を覚えて。
でも積み重なった時間は、桃花にとって全然特別じゃないものじゃなくなっていた。
どうして器用にできないんだろう。 他のどんなことでも、うまくやれるはずなのに。
蓮のことだけは、うまくやれなかった。
それがたまらなく悔しくて、それがたまらなく愛おしかった。
特別じゃない出会いが、いつの間にか特別になっていた。ふたりの原点は、何でもない春の午後にあったんだよね。




