第三部 桃色のきみへ 第四章 桃色の缶
桃花には見えていなかった。蓮の目に映っていたものが、ここにあります。第一部と同じ場面の、裏側へ。
桃花が休んでいると聞いたのは、昼過ぎだった。
共通の友人から
「高熱らしい」
と聞いて、蓮は
「そっか」
とだけ答えた。それ以上は何も言わなかった。
でも歩きながら、ずっと考えていた。
最近の桃花は、元気がなかった。 声をかけても上の空で、いつもみたいに笑わなくて、ご飯もあまり食べていないようだった。体が細くなった気がしていた。
気になってた。 ずっと気になってたけど、聞けなかった。
聞いたら、踏み込みすぎる気がして。
コンビニの前を通り過ぎようとして、足が止まった。
特に考えたわけじゃなかった。 気づいたら、入っていた。
缶詰のコーナーの前に立って、缶を手に取った。 桃の缶詰だった。
桃花の名前にも桃が入ってる。
気が付いたら、手に取っていた。
カゴに入れながら、蓮は自分でも少し可笑しかった。 お見舞いに行く気か、俺。
でも足は止まらなかった。
桃花の家のチャイムを鳴らした時、正直、出てこないかもと思った。
高熱なんだから、寝てるだろう。 ピンポンして、返事がなかったら帰ればいい。 そう思ってた。
でも鳴らし続けた。 何度も。
我ながら、しつこいな、と思った。 でも止められなかった。
しばらくして、ドアが開いた。
桃花が立っていた。 顔が赤かった。 目の焦点が少し合っていなかった。 髪が乱れていた。
それでも、桃花だった。
蓮は一瞬、言葉を忘れた。 こんな顔、見たことなかった。
いつもの桃花は、ちゃんとしてた。 気が強くて、笑顔で、隙がなくて。
でも今の桃花は、全部が少し崩れていた。 それがなんか、やけに胸に刺さった。
「お前、顔赤いじゃん。熱あるんだろ?」
そう言いながら、蓮は桃花の顔をちゃんと見られなかった。
「……なんで?」
桃花が聞いた。 声がかすれていた。
「見舞いだよ」
ビニール袋を見せて、軽く揺らした。 軽く言ったのは、そうしないと変な空気になる気がしたから。
大したことじゃない、ってふりをするのが、蓮の癖だった。
桃花はビニール袋を見た。 それから、泣き出した。
蓮は、焦った。
なんで泣くんだ。 熱がひどいのか。 しんどいのか。 痛いのか。
何も分からなくて、でも立ち尽くすわけにもいかなくて、蓮は桃花の肩をそっと掴んだ。
「外の空気は体を冷やすから。熱上がるぞ」
声が、少し上ずった気がした。 気づかれなければいい、と思った。
部屋に上がって、桃花をベッドに座らせた。
布団をかけてやって、
「横になった方が良い」
と言った。 桃花は素直に従った。
いつもと逆だな、と蓮は思った。
いつもの桃花は、人に言われた通りにしない。 自分で決めて、自分で動く。 そういう子だった。
でも今は、言われるままに布団に入って、目を閉じた。
その顔が、小さく見えた。
「缶詰開けるか?」
聞いた時にはもう、返事がなかった。 寝息が聞こえた。
蓮はしばらく、その寝顔を見ていた。
見るつもりはなかった。 でも、目が離せなかった。
熱のせいか、桃花の頬がうっすら赤かった。 眉が、少しだけ寄っていた。 苦しいのかもしれない。
毛布の端が少しずれていたから、そっと直した。 それだけのことなのに、手が少し震えた。
鍵が開いたままだから帰れない。 起きるまで待とう。
そう決めて、ベッドの横に座った。
静かだった。 桃花の寝息だけが聞こえた。
蓮はその静けさの中で、ずっと考えていた。
なんで来たんだろう。 お見舞い、なんて柄でもないのに。 高熱で休んでると聞いて、気づいたら動いてた。
桃花に対して、いつもそうだった。 考える前に、体が動く。
それが、怖かった。
好きな子にしかしない行動を、気づいたらしてた。 食欲ないだろうから、缶詰を選んでた。 桃って、いつ手にしたんだろう。缶詰を開けるつもりなんて、なかったのに。
桃花が目を覚ましたのは、一時間くらい経ってからだった。
目が合った。 桃花はしばらく、ぼんやりした顔でこちらを見ていた。
「あのー」
「見舞いに来て缶詰開けようとしたら、もう寝てたから。鍵開けたまま帰れないじゃん。とりあえず起きるまで待ってようと思って」
一気に言った。 言い訳みたいだな、と思いながら。
でも黙っていたら、何か別のことを言ってしまいそうだった。
「言っとくけど、何もしていないからな。お前、病人なんだから」
桃花はじっとこちらを見ていた。 その目が、なんか真っ直ぐで、蓮は視線を逸らした。
「ごめんね。お見舞い来てくれてたんだね」
桃花が言った。 声が、少し柔らかくなっていた。
「お、おう」
「なんか久しぶりに高熱出しちゃってさ。休むなんて珍しいんだよねぇ」
「お前、最近元気なかったから、疲れ溜まってたんだろ」
言いながら、桃花の顔を見た。 やっぱり、細くなってた。
「…なんか痩せたんじゃない?」
心配そうに見えたかもしれない。 実際、心配だった。 でも心配だと言ったら、また何かが動く気がして、それ以上は言えなかった。
桃花はそんな蓮を見て、少し困ったような顔をした。 それから、笑った。
「桃缶、食べるか?」
笑顔を見て、蓮は反射的に言っていた。
「うん」
桃花が頷いた。
その顔が、やけに可愛かった。
いつもの気が強い桃花じゃなかった。 素直に、うん、って言った。
それだけのことなのに、胸の中で何かが大きく動いた。
まずい。 蓮は思った。 これは、まずい。
「よし、待ってろ」
立ち上がって、キッチンへ向かった。 桃花から背を向けた。
顔が、熱かった。 熱は移らないのに。
缶を手に取りながら、蓮は深呼吸した。 落ち着け。 ただのお見舞いだ。 ただの、親友への、お見舞いだ。
「缶切り持って来たんだよな」
「入れ物どうする?このまま行くか?」
「いや切り口で怪我したら困るだろ」
「入れ物使って良いか?」
独り言が止まらなかった。 焦ってた。 落ち着こうとすればするほど、言葉が出てきた。
後ろで桃花が笑う声がした。 くすり、と小さく。
その笑い声が、また胸に刺さった。
桃花が小学生の頃の話をしてくれた。
熱を出した時に、お母さんが桃缶を開けてくれたこと。小さく刻んで、
「お口あーん」
って食べさせてくれたこと。
「この桃は思い出が詰まってるんだ」
そう言って笑う桃花を見て、蓮は思った。
食べさせてやりたい、と。
考える前に、思っていた。
「ほら、貸してみろ」
「え?」
桃花が目を丸くした。 蓮は食器に手をかけながら、心臓がうるさかった。
「あーん」
言ってから、自分でも少し信じられなかった。 何やってるんだ俺。
でも桃花は、思い切り口を開けた。 桃をパクリと食べて、もぐもぐしながら蓮を見た。
その顔が、あまりにも無防備で。 あまりにも、嬉しそうで。
顔が、爆発しそうだった。
「ごめん、もしかして熱移ったんじゃない?」
桃花が心配そうに言った。
「違うから。なんか熱いな」
手を顔の前でぱたぱたさせながら、蓮は窓の外を見た。 夕方の空が、桃色だった。
「大人とか関係ないんじゃない?」
桃花の
「ありがとう」
に、気づいたらそう言っていた。
「いくつになっても純粋でいられるところ、俺は良いなって思ってる。変わんないで欲しい」
本音だった。 こういう時に本音が出るのは、桃花の前だけだった。
「俺は変わるかもしれないけど」
言ってから、少し後悔した。 重かったかもしれない。
でも桃花は、真っ直ぐに答えた。
「分かったよ。約束する」
蓮は、驚いた。
いつもの桃花なら、笑って流したと思った。 でも桃花は、ちゃんと受け取ってくれた。
その瞬間、気持ちが溢れた。 止められなかった。
気づいたら、桃花を抱きしめていた。
柔らかかった。 温かかった。
触れたら終わる気がしていた。 だから今まで、触れなかった。
でも抱きしめたら、終わるどころか、始まる気がした。 もう戻れない気がした。
だから、力が入った。 だんだん、力が入った。
「い、痛い」
桃花の声で、ハッとした。
「ごめん、悪かった」
離れながら、蓮は自分の手を見た。 震えていた。
桃花が笑って言った。
「謝りすぎ。でもさ、彼女がいるんだから、彼女に悪いもんね」
その言葉が、水みたいに冷たかった。
帰り道、蓮はずっと歩いた。
やけに静かな夜だった。 街の音が、遠かった。
触れたら終わる、じゃなかった。 触れたら、始まってしまった。
もう、親友のふりができる気がしなかった。
足は、恋人の元へ向かっていた。 正直に、別れを告げるために。
桃花の部屋に桃色の缶を置いてきた。 空になった缶を、桃花はどうするだろう。
捨てるかもしれない。 でも捨てない気もした。
根拠はなかった。 ただ、そう思った。
やけに静かな夜だった。 桃色の空は、もう夜になっていた。
桃花視点では「優しい人だった」だったあの日が、蓮視点では全然違う景色だった。冷えてない方を選んだのには、ちゃんと理由があった。




